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ミナスから吹く、懐かしくて新しい風
──レオナルド・マルケスとその周縁──

12 May 2022 | By Ikkei Kazama

レオナルド・マルケスの最新作『Flea Market Music』(2022年)は、リスナーに「架空のノスタルジー」を想起させ、音と私たちの間にあったはずのあらゆるギャップを飛び越えてくるアルバムだ。ここではマルケスのサウンドに宿る親密さを、「ハイファイ」と「ローファイ」の二項対立から解きほぐしていく。そのためにまず、マルケスが拠点とするブラジル・ミナスジェライス州で発生した、マルケスとは志向の異なる1つのムーブメントについて説明することから始めよう。

2010年に発表されたアントニオ・ロウレイロのファースト・アルバム『Antonio Loureiro』は、ミナスの諸先輩方が連綿と繋いできたバトンを受け取りつつ、それをネクストレベルのさらにその先まで押し上げてしまった怪作だった。《ECM》の諸作品のような瑞々しい音響と、その上で刻まれる冷え切った複雑なビート。その端正な世界観に、伸びやかなブラジルのシンガーたちの歌をマリアージュさせるロウレイロの手腕は、敬服と驚嘆を持って耳の速いリスナーたちに受け入れられた。

彼を中心としたミュージシャン一帯は、しばしば「ミナス新世代」(*1)と形容される。ブラジル及びミナスの過去に向けられたリスペクトと、そこに安住せずに先鋭化を推し進めるポジティヴなラディカルさ。サウンドはストイックにそぎ落とされ、むき出しになったメロディとリズムが統御される様には、彼らが下地にしているクラシックやジャズに宿る機能美を感じる。

(*1)あくまで「ミナス新世代」は日本でのみ用いられる呼称であることは留意されたい。自分の観測範囲でこの語が用いられる場合、大抵は「アントニオ・ロウレイロを中心としたジャズ・ミュージシャンの作品と、その流れを組んだSSWの作品」くらいのニュアンスを持っている。

「ミナス新世代」のシャープでハイファイなサウンドは、彼らの鋭敏な感性が剥き出しのまま表現されているような印象さえある。拍動が、旋律が、震えが、ダイレクトにパッケージングされているレコード。彼らをそう括った場合、同じ土地で同じ時代に活動をするマルケスの音楽は、そのほぼ対極にあると言っても過言ではないほど、グネグネと婉曲していて曖昧である。

レオナルド・マルケスという人物を、ディスコグラフィーに沿って年代順に聞いてみる。すると、彼のサウンドが年代を追うごとにドリーミーで、かつ掴みどころのないものに変化していることが分かるだろう。ファースト・アルバム『Dia e Noite no Mesmo Céu』(2012年)やセカンド・アルバム『Curvas, Lados, Linhas Tortas, Sujas e Discretas』(2015年)では、くっきりとした生楽器主体の太いサウンドが真ん中に通っている印象がある。彼は以前にDiesel(アメリカに渡った際にUdoraに改名)というハードロック・バンドとTransmissorというオルタナティヴ・バンドを組んでおり、この2作からはその流れを組んだモダンなロックの意匠を感じられる。

転機になったのがサード・アルバム『Early BIrd』(2018年)。どの曲でもいい、再生ボタンを押せばその音響の異様さに気が付くだろう。終始まどろんでいて、音の角が丸く成型されているようだ。2曲目「I’ve Been Waiting」での、赤ん坊の寝息のように奏でられるエレピ。6曲目「Ainda É Cedo」での、少しチープなトランペット。ハイファイとはまるで逆の、ローファイで弛緩しきったサウンド。しかし、だからこそ、暖かな親しみをあなたは感じるだろう。

ここにはある種の倒錯がある。前述した「ミナス新世代」が志向するようなハイファイ・サウンドは、プレイヤーとリスナーの聴取体験に生じるギャップへの抵抗であり、言うなれば録音物の限界への挑戦に他ならない。バンド・サウンドにおける「良い音」とはこのギャップの喪失であり、プレイヤーとリスナーの「架空の身体的距離」が消失した状態が最良だ。まるでプレイヤーの輪の中に自分が没入しているかのような錯覚を惹起することが、ハイファイなサウンドが目指す(ひとまずの)目標である。そして一般的にこのレースから降りているサウンドを、ハイファイの対概念としてローファイと形容する。

なるほど、確かにハイファイなサウンドはリスナーとの身体的距離が近い。だからと言ってローファイなサウンドに距離を感じるかというと、そうは思わないリスナーが大半だろう。むしろ、ローファイなサウンドには親密さが宿る。ローファイであることは、リスナーとの身体的距離は遠くとも、歌を通した心理的な距離がハイファイのそれよりも遥かに近い。私たちの体験や記憶は鮮明であることのほうが珍しく、美しい思い出にはいつだって感傷に浸れるだけの余地が曖昧に残されている。そんな曖昧な過去と今を繋いでくれるのがローファイなサウンドで、インディー音楽のファンはそこに惹かれてディグし続けているのではないか、とさえ思う。ペイヴメントのファースト・アルバムも、ダニエル・ジョンストンも、あのザラザラした手触りがイノセンスな魅力を引き立てている。もしこの2つの例えがピンとこない方は、lo-fi hip-hopがあえてサウンドを汚すことによって与えられる効果に思いを馳せてほしい。鄙びたベットルームにフィットするのは、曖昧な音楽だ。

レオナルド・マルケスは、この倒錯を乗りこなすことによって私たちリスナーとの間に潜むギャップを越境する。最新作の『Flea Market Music』も、そんなギャップを軽々と飛び越えてくる快作だ。生楽器の鳴りが豊かであることはもちろん、今作ではスライ『暴動』(1970年)でも使われたドラムマシンの名機、Maestro Rhythm Kingを導入し、より一層私たちに「架空のノスタルジー」を想起させてくれる。このドラムマシンのチープな音色も、ドラムの本来の鳴りを追求するレースからは外れ、代わりに親密さを引き連れてリスナーの耳を惹きつける。5曲目「Anos Raros」のヴァース、ドラムマシンとクラシック・ギターの物憂げなバックトラックの上でマルケスが後ろ髪を引かれる過去への回顧を呟き、新しい季節の到来を受け止めるコーラスで生々しいドラムの音がカットインしてくる様は、サウンドによる時間軸の倒錯への相克を感じずにはいられない。

マルケスのサウンドは、彼のソロ作のみで聞かれるものではない。彼はミナスの《Ilha Do Corvo》というレコーディング・スタジオのオーナーである。そして、このスタジオで育まれるサウンドのどれもが、アコースティックな魅力に満ちている。レオナルド・マルケスのスタジオでの仕事をまとめた企画盤『Leonardo Marquess Presents: Ilha Do Corvo Sounds Vol.1』(2021年)が発売されたのも記憶に新しい。ミナス周辺のリアルな息遣いが聞こえてくる良企画だ。「ミナス新世代」とは別に、粛々と歌う若者たちの声がそこにはコンパイルされている。

彼と関わるブラジルのミュージシャンの中で、最もポピュラリティとサウンドの瑞々しさを両立しているのはムーンズだろう。彼らは先ほど紹介した企画盤にも名を連ねている。セカンド・アルバム『Thinking Out Loud』(2018年)で世界中の耳の早いインディーファンから注目されたムーンズは、サード・アルバム『Dreaming Fully Awake』(2019年)でその評価を確立させた。エリオット・スミスやヨ・ラ・テンゴと比較される彼らのサウンドは、顔を突き合わせて合奏することの歓びに満ち溢れている。そのオーガニックなサウンドは原初的で、2022年現在の私たちにとってはそれだけで十分に批評的だろう。

レオナルド・マルケスの提案したサウンドはミナスの外、地球の裏側のここ日本でも支持されている。岡田拓郎はマルケスの来日公演をサポートする予定で(*2)、たびたび彼への共感を口にする。2021年に発表された「Shadow」という曲で、マルケスはマスタリングを務めた。岡田自身が稀有なシンガー・ソングライターで、かつルーツ・ロックのマニアでアナログ機材に明るいことは今更言うまでもない。この「Shadow」では終始ウワモノのピアノやギターが不穏で騒々しいのだが、その後ろで流れるアコースティック・ギターを伴奏以上の存在感でもって演出するサウンド・デザインは、マルケスのエンジニアとしての矜持を感じる。刺激的なサウンドもシンプルなサウンドも、「そこにあるから、そこに置いておく」とでも言いたげに配置する姿勢が現代的だ。

(*2)2020年に来日予定で、岡田はベースを弾く予定だったそうだ。

魔法バンドの一員として岡田が参加する優河にも、マルケスは関わっている。最新作『言葉のない夜に』(2022年)の先行シングル、「夏の窓」のマスタリングをマルケスは手掛けた。冒頭のドラムの深く沈みこむ音と軽やかにブラッシングされるギターの音色には、トラディショナルという枠に絡めとられるよりも前から存在していたような煌めきがある。先ほどのムーンズ同様、やはり原初的だ。地上波のドラマ主題歌を歌うまでに支持されている歌手のバックが、ここまで(あくまで現行のヒットチャートにおいては)挑戦的な演奏によって構築されているのは痛快だし、それを地球の裏側から支持しているマルケスは最早ムーブメントの渦中にいると言っても過言ではないだろう。

レオナルド・マルケスを中心に広がるムーブメントは、決してドラスティックなものではない。しかし、録音作品が不可逆的に孕む諸々のギャップを、誰もが親しみを覚えるオブスキュアなサウンドによって埋めてしまう姿は、確かに共感を集め続けている。彼の音楽をかけ、まどろみの中に身を置いている時、私たちはミナスの懐かしい新しい風の音を聞いているのだ。(文/風間一慶 写真/Lucca Mezzacappa 写真提供/ディスクユニオン)


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