【From My Bookshelf】
『愛と孤独のフォルクローレ』ボリビア音楽家と生の人類学
相田 豊(著)
時間の円環を味わう
先日、『鳥の歌』(1995年)というボリビア映画を観た。人口の半数以上が先住民でありながら、権力は白人層に集中しているボリビアという国で、先住民の視点から映画を作ることを目的に、60年代に結成された映画制作者グループ「ウカマウ映画集団」による作品だ。16世紀に現在のボリビアにあたる地域を侵略したスペイン軍を批判的な視点で捉える映画を撮影するために、山間の村に踏み込んでゆく撮影隊……という皮肉な構造で、侵略の反復を描いた自省的な作品である。そしてその自省は、時間の感覚が溶けていくような長回し、たゆたうようなカメラの視点で、フィクション/ドキュメンタリーの境目をも曖昧にしながら、観る者の意識をぐらぐらと揺らし続ける──そんな中、祭りのシーンで奏でられる笛の音だけは、まっすぐこちらに飛んできて、私の耳を静かに貫いた。
時を同じくして、私が手に取ったのが本書『愛と孤独のフォルクローレ』だった。ボリビアのフォルクローレ音楽の魅力に取りつかれた著者が、ボリビア西部、アンデス山脈の盆地にあるラパスに赴き、現地の音楽家や楽器製作者と出会い、共に演奏し、木を伐り、その実践と思考について“孤独”を軸に哲学するのが本書だ。現地の音楽家たちのしきたりにならい、彼らが音楽を演るうえで大切にしている概念=アネクドタ(逸話や小話)に基づく語り口で、音、社会、そして“孤独”をじんわりと、しかし確かに浮かび上がらせてゆく。人間関係の軋轢、嘘、すれ違いまで含めて紡がれる個々の悲喜こもごもの物語は筆舌に尽くしがたく、ぜひ本書を手に取ってじっくり味わってほしい。著者の思考をたどるように、研究の中で幾度となく訪れる迷いや立ち止まりについて、誠実に書き記されているのも印象的だ。
さて、私はこの本を読んで、ボリビアにおけるフォルクローレとは、いわゆる伝承音楽ではないのだと初めて知ることになった。始まりは1970年代。ボリビア各地で演奏されていた民俗楽器を西洋音階に調律し、若者たちが新しい音楽を生み出そうとした。そこには、民俗音楽の収集・保全活動という文化プロジェクト的な側面と、歌を通じた社会変革をめざした“新しい歌”運動、つまり左派による抵抗の音楽という両義性があったと著者は説明する。しかし間もなく軍事政権が成立し、フォルクローレ音楽は国の管理下に置かれることとなり、いわばノンポリ化・大衆化していったという。(その中で“抵抗”のニュアンスの変容や、それに伴う音楽家たちの情感を紡いでいくのが本書のひとつの肝である)
このような成り立ちを踏まえ、冒頭で触れた『鳥の歌』で耳にしたあの笛の音楽とフォルクローレを同じ流れで語るのが適切かどうか、私には分からない。一方、本書の最終章では、冒頭で触れたウカマウ映画集団のプロデューサー、ベアトリス・パラシオスによるルポルタージュの一部が抜粋されていた。そこから著者が導き出す“錯時性”という言葉──時間が一方向に進むのではなく、何かが反復されたり、ずれて交差していたりする感覚──に触れ、私はボリビアにまつわる一つの映画と一冊の書籍を通して、不思議な円環を味わったような気がしたのだ。
同時に、ボリビアのアンデス地域に住む先住民族・アイマラ族の子孫であり、伝承音楽と現代電子音楽の融合を通じてフォルクローレ的なものの解体と再構築を行うElysia Cramptonの存在を思う。Crampton兄弟によるユニット、Los Thuthanakaのアルバムが局所的に注目を集める今、ボリビアにおける“フォルクローレ”という言葉が持つ意味や背景に触れるための副読本としても、本書をおすすめしたい。(前田理子)
Text By Riko Maeda
『愛と孤独のフォルクローレ』ボリビア音楽家と生の人類学
著者 : 相田 豊
出版社 : 世界思想社
発売日 : 2024.12.16
購入はこちら
関連記事
【REVIEW】
Los Thuthanaka『Los Thuthanaka』
https://turntokyo.com/reviews/los-thuthanaka/
【FEATURE】
わたしのこの一冊〜
大切なことはすべて音楽書が教えてくれた
http://turntokyo.com/features/the-best-book-of-mine/

