【From My Bookshelf】
Vol.16
『オープン・ウォーター』
ケイレブ・アズマー・ネルソン(著) 下田明子(訳)
痛みと愛の大海原へ
出会いはサウスイースト・ロンドンの半地下のパブ。DJはカーティス・メイフィールドやアイズレー・ブラザーズをプレイしている。ダンサーの“彼女”と写真家の“きみ”。イギリスで生きる、黒人の“彼女”と“きみ”──。
ガーナ系イギリス人、ケレイブ・アズマー・ネルソンによるデビュー小説『オープン・ウォーター』は、まごうことなきラヴ・ストーリーである。もちろん、恋の物語に問題は付き物だ。だがそれは、思い人の元恋人が知り合いだとか、喉元を過ぎればある程度スッキリするようなものばかりではない。黒人として生きるとはどういうことなのか。男らしさとはどういうことなのか。その苦しみをさらけ出すには? 主人公である“きみ”の内側は、美しく、たびたびジリジリとした痛みとともに綴られる。
「きみの中には怒りがある。しんと冷たく、青くとぐろを巻く怒り。真っ赤な怒りならよかった。そうすればきみの中で爆発して、それでおしまいになる。だがあんまり長いことこの怒りを鎮めてきたから、いつまでも居すわっているんだ。そもそもこの怒りをどうしろと言うのか?」(P172〜173)
陽の光を弾く海原のようにうっとりしてしまう文体は、たくさんの芸術作品にも同様の手つきで触れていく。特に音楽は本作のそこかしこから聞こえてくる。アイザイア・ラシャド、ソランジュ、ケルシー・ルー、アール・スウェットシャツ、プレイボーイ・カーティ、J・ディラ、ディジー・ラスカル、スケプタ……。複雑な感情の輪郭を暴力的に整理することなく、でもはっきりと伝えるために、そこに流れる音楽は機能している。とりわけア・トライブ・コールド・クエスト『The Low End Theory』について書かれた段落は、ぜひ注意深く読んでほしい。ここではあえて深く言及しないが、これがすべてだとつい口を滑らせてしまいそうになるほど見事な筆致である。
もし本作『オープン・ウォーター』を読んで違和感が残るとするなら、それは主人公の思慮深い性格や生きてきた環境、あるいは物語があまりに美し“過ぎる”ことに原因を求められそうではあるが、それらは作中で触れられる様々な音楽作品の持つ表情と同様に、現実社会にあるグラデーションを反映したものとも捉えられよう。それに、“知っているつもりになっていることと真実との隔たり”を越えていくためのヒントが本作には散りばめられている。“目を凝らせばきっと見える”、可能性を明るく照らす1冊だ。(高久大輝)
Text By Daiki Takaku
『オープン・ウォーター』
著者 : ケイレブ・アズマー・ネルソン
訳者 : 下田明子
出版社 : 左右社
発売日 : 2023年4月27日
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