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念願のヘッドライナー公演まであとわずか!遂にライブを体験するライターが綴った それぞれにとってのケンドリック・ラマー

25 July 2018 | By Yuta Sakauchi / Daiki Takaku

遂にケンドリック・ラマーが日本のフェスにヘッドライナーとしてやってくる!確かに2013年にも今回と同じ《フジロック》に、ホワイト・ステージの夜の時間帯に出演していた。しかし、5年前と今とでは、「ケンドリック・ラマーを体験すること」の意味は大きく異なるだろう。

アルバムを出す毎にグラミー賞に多数ノミネート、『To Pimp A Butterfly』や『DAMN.』はヒップホップのフィールドを超えて圧倒的な評価を獲得したし、今年はジャズとクラシック以外のミュージシャンとして初めてピューリッツァー賞の音楽部門を受賞した。そればかりか、『DAMN.』は昨年アメリカで最も売れたアルバムだ。彼のことは、現在の音楽シーンの最強のアーティストと言っていいだろう。

それだけに今回の《フジロック》では多くの聴衆がそれぞれの思いでケンドリック・ラマーのライブを見ようとしているはずだ。ケンドリック・ラマーの大ファンにとっても、ヒップホップ・アクトのライブを初めて体験する人にとっても。そこで今回TURNでは、彼のライブを今回初めて体験するライターにそれぞれの思いで、「自分にとってのケンドリック・ラマー」を綴ってもらった。きっと《フジロック》後のあなたにも何がしかの意味を持たせる大きな体験になるのではないだろうか。(山本大地)


ケンドリック・ラマーの描く、現実の暗闇に灯る微かな希望の光

文:高久大輝

誰かのために生きたいと思う。お互いの欠点を補い合うように、手を取り合えたらと思う。でも現実はどうだ。欲に塗れて間違いを犯し、ときに誰かを蹴落そうと必死じゃないか。その度に私は、自分は不完全な人間で、それはどうしたって変えられないのだと、理想と現実の狭間で引き裂かれそうになる。ただそれでも、ケンドリック・ラマーを聴いていると、自分がどれだけ不完全な人間であっても、諦めたくないと思えるのだ。

知っての通り、ケンドリック・ラマーは現行のヒップホップ・シーンの頂点にして、グラミー賞に加え、アメリカで最も権威あるアワードのひとつであるピューリッツァー賞の音楽部門を受賞するなど、ジャンルに留まらず高い評価を得るアーティストだ。しかし、だからといって彼がパーフェクトな人間かというと、答えはノーだ。むしろ彼が描いてきたものの中心には、人間が不完全であるが故の葛藤があるといっていい。

簡単に例を挙げてみよう。実質1枚目のスタジオ・アルバム『Section.80』に収録された「Poe Mans Dreams (His Vice)」では「オレの音楽を聴いて死の道から抜け出せ」と仲間を鼓舞していが、同収録の「A.D.H.D.」ではドラッグに溺れながらもそんな弱い自分たちを「(80年代生まれは)孤独なんだから仕方ないよな」とため息混じりに肯定している。もうひとつ例を挙げるなら、テラス・マーティンを始め、カマシ・ワシントン、サンダー・キャットらを招き生演奏主体のプロダクションでも評価を得たアルバム『To Pimp A Butterfly』だ。直線的に畳み掛けるフロウとライムの連打を見せる「King Kunta」からは自分こそがキングだというボースティング交じりの強さを感じるが、一方「u」では第三者視点から成功しても仲間たちを変えられない無力な自分を責め立てている。このように彼は相反する感情や意志を過去作でも表現してきた。

そして昨年リリースの最新作『DAMN.』には、「HUMBLE.」、「PRIDE.」、「LUST.」、「LOVE.」といった曲名からもわかるように人間の持つ様々な感情と向き合い、一人の人間が抱える複雑さがコントラストを描きながらこの1枚に収められている。さらに付け加えておくと、トラックを逆順で再生するバージョン、『DAMN. COLLECTORS EDITION.』のリリース時にケンドリック本人が「最後から聴けば、複雑なケンドリック・ラマーの二重性やコントラストが(わかりやすく)浮かび上がる」と発言しているように、その矛盾を抱えた表現は自覚的に描かれたものであることがわかる。だからこそ、『DAMN.』に刻まれた「Nobody pray for me(誰もオレのために祈ってくれない)」という切ないメッセージは、人間の内包する複雑さと、それによってお互いが理解し合えないことへの嘆きのように響く。それは裏を返せば、「自分は誰かのために祈っているのか」という自問でもある。彼もまた、私たちと同じように理想と現実の狭間で揺れ動く1人の人間なのだ。『DAMN.(ちくしょう)』というアルバム・タイトルにはそんな自分へのフラストレーションが滲み、まるでもがいているかのようだ。

『Section.80』では見限られた世代として、『good kid,m.A.A.d city』では犯罪都市コンプトンで生まれ育った若者として、『To Pimp A Butterfly』では差別に直面する黒人として、『DAMN.』ではトランプ以降のアメリカを生きる国民として、当事者意識を持ってペンを走らせてきたケンドリック・ラマー。その社会を見つめる瞳の曇りのなさと豊かな表現力や音楽性は、ピューリッツァー賞の受賞理由として「アメリカの生活の描写した」、「卓越したものであること」が挙げられていることからも明らかだが、その中で共に描いていたものは自らの弱さや欲望であり、そのコントラストから浮かび上がるのは様々な感情の間で揺れる一人の人間の姿だったのだ。だからこそ私は彼に強く共感する。そして、もがくように歌う彼に勇気をもらうのだ。人間は弱いのかもしれない。でも諦める必要はない。誰かのために生きようと、もがき続けようじゃないか。それこそが、理想と現実の間で矛盾を抱えて生きる私たちにとって唯一の希望だったりするのかもしれない。

そんなケンドリック・ラマーは今年の《フジロック》の2日目、グリーン・ステージのトリを飾る。彼にとっては2013年の《フジロック》以来、実に5年ぶりの来日公演だ。しかしながら音楽シーンの最重要人物のひとりとして、様々なメディアで取り上げられているが故に少しとっつきにくさを感じている人も多いかもしれない。このステージが、彼を沢山の矛盾を抱えたあなたや私と同じ人間として受け入れ、彼の持つ音楽の豊かさやそこに映る様々な文化のあり方を理解するきっかけになればと思う。(高久大輝)


どこにでもいるロック・ファンが、ケンドリック ・ラマー を“現代最高のポップ・スター”と崇めるようになったのは、なぜか? あるパーソナルな視点からその躍進を振り返る

文:坂内優太

フジロックまであと数日。今年のヘッドライナー3組はどれも最高に魅力的だが、その中でも2日目のトリをつとめるケンドリック・ラマーは頭一つ抜き出た注目を集めている。最新アルバム『DAMN.』は、ビルボードの発表する「2017年に最も売れた(聴かれた)アルバム」となった。グラミーをはじめとする各種アワードやフェスでの驚異的なパフォーマンスの数々や、アルバムへの批評的な評価の高さもさることながら、今の彼は、商業的な意味でも最も成功しているアーティストの一人だ。そのことは改めて強調しておきたい。

あるいは、フジロックの歴史を遡ってみても、ラップ系のアクトがグリーン・ステージのヘッドライナーを飾ったのは、2001年のエミネムと2007年のビースティー・ボーイズの2度だけ。この時代にあえて人種的な側面を強調すれば、ケンドリックはアフロ・アメリカンのラッパーとしてフジ史上初のトリということになる(2014年にはカニエ・ウェストのキャンセルという事件もあったが…)。これまでTURNでも度々書いてきたように、ラップ/ブラック・ミュージックのアクトがメインストリームを中心に絶大な影響力を誇っているこの時代に、これ以上ないほどの形でそのシーンを代表しているアーティストが、日本を代表する音楽フェスに登場する。その歴史的な意義がいかに大きいのかは、計り知れないものがある。

だが、そうした大きな文脈での意義とは別に、音楽には個々のリスナーの良心と根底で繋がる、小さな文脈も存在しているもの。ここでは、2000年代を典型的な(インディ)ロックのリスナーとして過ごした筆者が、ケンドリック・ラマーを“現代最高のポップ・スター”と考えるまでに至った、個人的な経緯を書かせて欲しい。

筆者がケンドリック・ラマーに最初に“やられた”のは2014年。YouTubeに上がっているパフォーマンス映像を通してだった。ケンドリックは、既に最初の代表作となった『good kid, m.A.A.d city』(2012年、以下『GKMC』)をリリースしていたし、前年のフジロックにも出演していたが、個人的にはまだ注目の若手という認識しか持てていなかった。映像の一つは『Saturday Night Live』でのイマジン・ドラゴンズとのパフォーマンス。演奏の途中からフードをかぶったケンドリックがステージの中央に登場し、まずはゆったりと、次第にスピード・アップしてラップを披露するのだが、そのわずか一分ほどの時間でもたらされた印象は、本当に鮮烈だった。リスナーを圧倒し、イマジン・ドラゴンズを完全に“食って”しまっている。抑揚のコントロール、そして、歌詞の意味以前に、押韻というグルーヴ発生装置の機能を最大限に生かしたスキルフルなラップは、逆説的に、ラップが歌の一形態である、という当たり前の事実を筆者に改めて教えてくれた。

もう一つ、その映像で印象的だったのは、 洗練の極みのようなケンドリックのラップに比べて、イマジン・ ドラゴンズの演奏がいかにも鈍臭く、未洗練で、 聴き手のマチズモに訴えているように見えて仕方がなかったことだ 。2000年代にリスナーとしてラップ・ カルチャーと距離感を感じていた要因、 あるいはロック系のメディアがしばしばラップ・ ミュージックを批判する時に用いた要素こそ、 表現者のマチズモだった。実際、 アメリカのラップ・ミュージックやシーン、カルチャーは、かの国の強烈な競争社会と表裏一体であって、ケンドリック自身も他のラッパーと競り合い、のし上がってきたラッパーであることは事実だ。だが、純粋なラップの技術を追求した先で、彼が見せた表現そのものは、どこか女性的な、というか超性的なしなやかさを備えたものとして写った。それは、音楽とジャンルの結びつきに関する筆者の認識を根底から覆してくれるような強烈な経験だったのだ。

そんな中、発表された『To Pimp A Butterfly』(2015年、以下『TPAB』)は、そうした認識をますます 後押ししてくれるものだった。端的に言って、このアルバムは、バンド(楽器演奏者)や器楽のアレンジャーなど、旧来的な意味での“ミュージシャン”の貢献をより前面に押し出したものだった。ロバート・グラスパー、テラス・マーティン、 カマシ・ワシントンなど、現代ジャズの中心選手たちも軒並み参加し、ヒップホップ的なトラック・ メイキングとそれらの演奏との融合も、より密接に図られた。ラップも含めた、膨大な総体的“技術量”を注ぎ込んだ一枚。もはやこんなアルバムが作れるアーティストは、世界中を見渡しても彼しかいないと心底から思った。“キング”という世間的な称号と、一人のリスナーとしての評価が合致した、個人的にも決定的な作品だった。

『DAMN.』はその『TPAB』からの流れを考えれば、最初は肩透かしを食らったような気分になった一枚だった。“ミュージシャン”の要素は後退し、一聴した印象は、従来的な意味でのラップ・ミュージックにより近かった。さらに言えば、同時代の他のポップ・スターたちー例えばミーゴスでもフューチャーでも、ウィークエンドでも誰でも良いが、そういった現代のヒット・メイカーたちの音楽のニュアンスにもより近いと感じたのだ。そう思って、でも、その謎が解き明かせずに、何度も耳を傾けたが、その時に、かつてのロック・リスナーとしての自分はいなかった。ただ同時代のポップ・ミュージック、しかも、その時代に最も売れている音楽に、そのよく分からない部分まで含めて夢中になっているだけだったのだ。本稿の主題に沿って言えば、『TPAB』までの時間は、ケンドリックやラップ・ミュージックの魅力をキャッチアップするためのものだったが、『DAMN.』からの時間では、同じ地平に立って、同じ方向を見ている。そんな感覚、と書くと、少し大げさだろうか。

だから正直、ケンドリックとの実質的な出会いが『TPAB』の時期でなかったら、彼の音楽が自分の中でどういう位置付けになっていたのか、よく分からない。どう客観的に見ても、ラップのスキルは尋常でないだけに、やはりそこに打ちのめされていたのか。

リリースから一年も経って、こういう風に書くのもどうかと思うが、『DAMN.』はまだ自分にとって現在進行形の、謎めいたアルバムだ。それに、その影響力が残っているという意味では『TPAB』だって『GKMC』だってそうだ。フジロックのステージは、だから自分にとって、この4年ほどの時間の落とし前をつけるような場でもある。ステージを通して、その傑作群の何がしかが分かるのか。あるいは、より謎が深まったように感じるのか。そんな思いを胸に潜めて、28日の午後9時、グリーン・ステージの前に立っていたい。おそらく、この日は、それぞれに理由や経緯は違えど、同じように期待に胸を膨らませた人たちが、たくさん詰めかけるはずだ。特別な日にならないわけがないじゃないか。(坂内優太)

■Kendrick Lamar OFFICIAL SITE
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Text By Yuta SakauchiDaiki Takaku

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