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その異様な発光体は現在への始点だった
配信解禁されたEP-4『Lingua Franca-1』

15 September 2024 | By Tsutomu Noda

EP-4を表面的に説明してみる。

1980年に京都で結成されたポスト・パンク・バンド。ノイズ、インダストリアル、そしてエスニックな要素も取り込んだハイブリッドなファンク・サウンドを特徴とし、その人工的なテクスチャーは現代のエレクトロニック・ミュージックにも通じている。音楽活動をトータルな表現として捉え、状況主義的な手法を使ったライヴ告知や作品形態およびその流通経路までふくめ、非順応的とさえ言える独自な発想をもって展開した。また、ときに侵犯的で、意図的に攪乱した政治的表現も厭わなかった。アートワークをめぐって波紋を呼んだファースト・アルバム『Lingua Franca-1』は、必聴盤に値する。1985年5月21日に『The Crystal Monster』をリリースするも、その後バンドは活動休止状態となるが、2012年5月21日に復活した。
以上。

1980年代は破壊の時代だった。リオタールは大きな物語を破壊し、ドゥルーズとガタリは道徳やら存在やら正気やら、いろんなものを破壊した。セックス・ピストルズが破壊したのは権力でも未来でもない。ロックンロールの反抗物語が所詮は商品であることをこれでもかと証明し、その幻想を破壊した(*)。マーガレット・サッチャーは大きな政府を破壊し、その影響を受けた日本も(まだ与党内のハト派が機能していたとはいえ)いよいよ新自由主義時代がはじまろうとしていた。EP-4は、良きモノも悪しきモノも破壊されていった、そんなディケイドの妥協なき申し子だった。

「ポップな楽しみ」を拒絶するロックの拡張版、旧き文化的階層構造を解体するという文脈の、すなわち型にはまったロックへの批判的展開をポスト・パンクというのなら、EP-4はまさにそれに該当する。政治的良心から意識的に遠ざかるというアイロニーを持ち合わせていたことを思えば、直球の左翼ソングを歌ったザ・ポップ・グループよりインダストリアルの過激派スロッビング・グリッスルに近かった。が、EP-4にはその両者のサウンド──ファンク(PG)とディスコ(TG)があった。「ダンス・ミュージックであること、踊れるサウンド、そしてライヴ・ハウスではなくディスコで演奏するバンド」、これが当初のコンセプトだったと佐藤薫氏(以下、敬称略)は8月の上旬、ZOOM越しに話してくれた。(以降の「」内の発言はそのときのもの)

EP-4の佐藤薫

ディスコがロック主義からの憎悪の標的だったことを、ぼくは何度も書いてきている。その象徴は、1979年にシカゴの野球場における大量のディスコのレコードを爆破するイヴェントだった。ディスコの非政治性、非文学性、非反抗性、快楽主義、こうした属性がロック主義の逆鱗に触れたという歴史の一コマだ。「当時はディスコでやるというだけでずいぶん批判的に見られましたね。京都の左翼からも批判された」。逆に言えば、文化的文脈においても、EP-4にはディスコにこだわる理由があった。もちろんダンス・ミュージックのより人間の本能的なところに語りかける効力に着目してのことだった。超自我よりもイドの解放、集団的熱狂における個人の消失──EP-4はそうしたディスコの特性をより過激な体験へと転換することを目論んだ。あるライヴでは、観客を監禁したことさえあった。

1983年にリリースされた『制服・肉体・複製』を店頭で目にしたときのぞっとした感覚をぼくはいまでも憶えている。その不吉なアートワーク、そのサドマゾめいた題名、そして良識を嘲笑するかのようなブックレットの中身、いたるところにトランスグレッション(侵犯行為)がほのめかされ、あるいは描かれている。そもそも版元がトランスグレッシヴな特集で名を馳せた『夜想』の《ペヨトル工房》だった。坂本龍一から「EP-4は怖い」と言われたというけれど、もっともな話だ。ちなみに『制服・肉体・複製』は、坂本龍一の『Avec Piano』をはじめ、その後いろいろ刊行されることになるカセットブックの先駆的な作品でもある。

とはいえ、EP-4が最終的に信じたのは、言葉というよりサウンドの力だったと思う。EP-4のファンクは、もちろんアメリカの黒人音楽経由の活力あるグルーヴのそれを指す。日本がまだP-FUNKをまともに評価できなかった時代、佐藤薫はデトロイトのサイケデリック・ファンクにいたく共鳴している。もっともEP-4は、黒いグルーヴをありのまま取り入れたわけではない。それをあたかもプリズムで屈折させたうえに、あまたのファンクにはない怪しさをもったテクスチャーを加えた。冷たく、インダストリアルな質感を伴うそのサウンドには、CANの擬似民族音楽シリーズよろしく“ワールド”の要素も混合される。そして、そこに佐藤薫の、サディスティックだが不明瞭な、いわば亡霊ヴォイスが重なると、EP-4独特のアトモスフィアが湧き上がってくる。

「1981年から画策していた」という『制服・肉体・複製』には、アルバム『Lingua Franca-1』(タイトルは“共通語”を意味する。当時は、そしていまも同世代人と話すとき、この作品を『昭和崩御』と呼んでいる)に収録された楽曲のライヴ演奏が記録されている。本来であれば、それはオフィシャル・ブートレグとして、5月21日に『Lingua Franca-1』と、そして、《テレグラフ・レーベル》からのライヴ・カットアップLP『Multilevel Holarchy』との三作同時発売となるはずだった。しかし『制服・肉体・複製』は、1983年3月下旬に先に発売されてしまい、また、周知のように『Lingua Franca-1』は発売延期、写真と文字を差し替えた「昭和大赦」を9月21日に発売すると、数週間後の10月上旬には本来のアートワークと文字をもって12インチEP『Lingua Franca-X』がレコード・ブックとして書店流通のみで発売された。こうした脱線に次ぐ脱線、規定の秩序に対する揺さぶりを実行している。ここにも、EP-4が活動をコンセプチュアルに捉えていたこと、マルチメディア的な視点を持っていたことがうかがえる。「通常のレコードとは違う流通を使うことにも意味があった」と佐藤薫は言う。「レコードを出すことが目標ではなかった。それをどう出すのか、どのように流通させることが可能なのか、そこまで考えていた」。

『Lingua Franca-1』における、オリジナル盤の発売中止と同年の『東京漂流』がちまたを騒がせていた藤原新也の写真に関しては、インターネットのサイト(https://www5b.biglobe.ne.jp/~EP-4/EP-4-dark.htm)で詳述されているので、話は端折ろう。あくまでも個人的な感想だが、軍鶏よりも「大赦」の写真の、気が遠くなるほど異様に青い空のほうがこのアルバムには合っているように思える。まあ、伝説がその作品に付加価値を与えることがあったとしても、EP-4が過去の栄光を頼りにする必要はないだろう。21世紀の現在、残されているのはサウンドのみだが、それで十分だ。たとえば「The Frump Jump」、血の気の引いたこのヴードゥー・ファンクのいまだなんて奇妙なことか。過剰にエコーがかけられた佐藤薫の肉体性のない幽霊声、そして耳障りなノイズ(ギター)。 「Similar」では、ザ・フォールにも似た壊れたロックンロールの残忍なレールのうえに無慈悲にも“ワールド”が投げ込まれる。「Coconut」にいたってはホルガー・シューカイが東南アジアで『Metal Box』を加工したかのようだ。言うまでもないことだが、墓場のソウル・ディスコ「E-Power」は人気曲のひとつ。「Tide Gauge」に関して言えば、当時アメリカのブラック・アンダーグラウンドで密かに拡大していたエレクトロと完ぺきに共鳴している。

「それまでとは違うことをやる、オルタナティヴであること、そしてDIYであることが重要だった」と佐藤薫はそのコンセプトを強調する。EP-4サウンドの先進的な側面のひとつには、たとえばジョン・ハッセルの「第四世界」コンセプト、すなわち他民族文化との接合による音響世界の創出があった。この超自然的で異質なサイケデリアは、マイルス・デイヴィスの『On The Corner』と遠くはあるが無縁ではなく、そのすべてではないがリー・ペリーのブラックアークの魔術的ダブとも干渉している。同時代で言えば、23スキドゥーとは、ファンクに汎グローバルなリズムを呪術的に混成する点において同族だったと言える。ところが日本では、パンク以降も、そのフォロワーたちの多くは後進的なサウンド(わかりやすいパンク・サウンド)を好む傾向にあった。EP-4の新たなサウンド工作に対して理解あるシーンがあったとは言いがたい。「(その当時は)パンクもなんのためのアンチなのかわからなくなっていた。ライヴ・ハウスのバンドも、レコードを出すことだけが目標になっていた。われわれにとってレコードのリリースは、ラディカルなポピュリスム的実験だった」と佐藤薫は当時を振り返る。

時代は彼が望むほうには進まなかった。EP-4は独創的な表現活動を貫こうとし、いかなる連続体からも逸れていった。そして、新自由主義経済へのターニング・ポイントとなったプラザ合意翌年の1986年、EP-4は活動を休止する。「バブル経済のはじまりを感じたこと、それからバンド・ブーム。一方で時代はフラッシュバックのようにDJが牽引するだろうと確信した」、それがEP-4から情熱を奪っていった。やがて佐藤薫は日本を離れ、『Lingua Franca-2』が制作されることはなかった。

いま、我々はダミアン・ハーストによる頭蓋骨のアート作品が5千万ポンドで売られる現代に生きている。ダンス・ミュージックは暴れ馬であること止めたことで一般化し、レッドブル・アカデミーはオルタナティヴ文化をジェントリフィケートした。そして《Shibuya Sakura Stage》ではアンビエントが流れている。その他方では、トランスグレッシヴな発言/画像はインターネットのダークサイドのそこら中に散らばっている。ゆるぎのないものを破壊する政治家たちが世間を騒がすいっぽうで、旧世界のルールはリバタリアン(自由主義者)たちがいまも破壊している。EP-4がその異様な発光体として存在していた80年代は、あまりにも遠い過去だが、皮肉なことに現在への始点でもあった。

『Lingua Franca-1』のようなアルバムは、もはや少数だったかもしれないが、日本のアンダーグラウンドが資本主義に警戒心を抱いていたことを思い出させる。いまでは信じられない話だが、かつてのロックには、売れること以上に大切だと思われたものがあって、その情熱が、それはもう、いまとは比較にならないくらいにじつに多くの若者を惹きつけていたのだった。それでも、いや、だからこそ『Lingua Franca-1』のサウンドが現在でも生きていることに、そしていまだ奇妙に聞こえることにぼくは身震いし、復活したEP-4が「怒り」を込めてクラフトワークの「Radio Activity」をカヴァーしたことをぼくは嬉しく思っている。


(*)
正確に言えば、ジャン=フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件』は1979年(翻訳は1986年)、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』は1972年(日本語の完訳は1986年)、日本ではこれらの思想が若者文化のなかで読まれたのは1980年代のことだった。また、マルコム・マクラレンとジェイミー・リードがセックス・ピストル神話およびシド・ヴィシャスの死さえもパロディ化したのはバンド解散1年後の1979年、『The Great Rock ‘N’ Roll Swindle』と悪名高き『Flogging A Dead Horse(死に馬にむち打つ)』によってだった。


【追記】
以上の草稿を、ぼくは松岡正剛さんの訃報を知る前に書いた。佐藤薫さんはかつて『遊』の音楽欄を何度か担当し、そのなかでジョン・ハッセルどころか、ナナ・ヴァスコンセロスのようなブラジル音楽も紹介していた。そうしたリスニング術も、ぼくは佐藤さんに教えられている。あの時代、TG、P-FUNK、アフロ、イーノ、ハッセル、そしてナナまでフォローしているひとはかなり少数、いや、ほとんどいなかったと思う。こうした(ある意味先駆的な横断性をもった)リスニング術も『リンガ・フランカ-1』に活かされていることは付記しておきたい。

(インタヴュー・文/野田努  写真/地引雄一)



EP-4のライヴの様子。吉祥寺《バウスシアター》で

Text By Tsutomu Noda

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