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映画『ブラインドスポッティング』が教えてくれる、“盲点をなくすことはできない”というスタート地点

 
01 September 2019 | By Daiki Takaku

“信念バイアス”、“行為者・観察者バイアス”a.k.a.”責任転嫁ゲーム”、そして“ルビンの壺”。主人公コリンと、そのドレッドを編む元彼女ヴァルとの会話(心理学用語の暗記中)で登場するこれらの言葉は本作において重要なポイントをさらっている。要するに、我々は何を見て、何を見ていないのか。何を見ようとして、何を見ないようにしているのか。同時にこれらは本作で扱われている人種差別問題や銃社会、ジェントリフィケーションといった様々な社会的なイシューを海を渡った先のファンタジーではなくリアリティを纏った問題として目の前に立ち上がらせ、問いかけている。果たして我々は、見えるものと見えないもの、見たいものと見たくないものを、同時に見ることはできるのか、と。

舞台はカリフォルニア州アラメダ郡オークランド。60年代には公民権運動の最中、ブラックパンサー党の中心地となっていたように、元来リベラルな面の強い地域ではあったものの、近年は多数の(いわゆる意識の高い)移住者が流れ込み高級住宅が建ち並ぶ。そこに生まれるもともと住んでいた者たちとの(主に経済的な)差異と地価の上昇は地域コミュニティに亀裂を走らせ、今やオークランドはジェントリフィケーションの典型的な街となってしまっている。本作の中心となる、黒人でドレッド・ヘアの大柄な男コリンとその幼馴染の白人で血の気の多いマイルズの2人の生粋のオークランドっ子も、例に漏れずにその波の中で生活を送っていて、彼らの職である引越し業がある種その波に加担しているという皮肉も問題を別の角度から捉える意味で象徴的だ。

物語はコリンが指導監督期間(仮釈放と類する状態で期間中は門限を設けられ移動範囲も指定されている)から晴れて自由になる3日前からスタートする。つまり3日間だけ問題を起こさなければよい。だから冒頭から彼は厄介ごと、例えば銃の携帯やケンカに対して非常に敏感な状態だ。しかしマイルズはそれを承知しているにも関わらず配慮が足りない。ただ、これにも理由がある。白人である彼はオークランドが地元であるにも関わらず、つっぱっていなければよそ者扱いされる危険性があるのだ。たくさん彫られたタトゥーにも、口につけたグリルにも、耳にかけた1本の煙草にも、自らのアイデンティティを守ろうという本能が垣間見える。彼はそうすることでこの街を生き抜いてきた。いかに利己的で考えなしに見えようと、彼にとってそれは妻を持ち、子を育てるために、生きるために、大切にしてきたものだ。そのために彼は作中で最もジェントリフィケーションの波を真っ向から受けるカタチにもなっている。

無論、自由を目前に控えたコリンにとってそんな幼馴染は大きな壁となって立ちはだかるわけだが、コリンは自らの引き起こした事件を忘れてはいない。自分も即決重犯罪者であり、キレてしまったら何をするかわからない。それとともに門限を守ろうと道を急ぐ最中、信号待ちのあいだに警官が逃げる黒人を射殺する瞬間を目撃したことが彼を深く悩ませる。撃ち殺された黒人と自らを重ね合わせ、悪夢にうなされる日々。大柄な黒人でドレッド・ヘア、まさにオークランドのゲットー育ちを絵に描いたような自分も、いつか…と。だが一方で向上心の強いインド系の元恋人ヴァルの影響もあって、自分も他の市民と変わらずに生きているという想いも強くしていく。なぜ肌の色をはじめとする外見のみを見られ、こんなにも怯えて過ごさねばならないのか。自分からは見えない視点=盲点を知ることで、見えるものと見えていないもの、その両方を見ることができるのではないか。

本作のクライマックスは信号待ちのときに黒人を射殺した警官と偶然にも再会してしまうシーンだろう。コリンの鬼気迫るラップに観ている私まで胸ぐらを掴まれているような気分になる。そこでは、なぜ“ラップ”なのか、という疑問にも答えている。「ラップで言うのはみんな聞くから」。声なき者の声を掬い取るというコンシャスなヒップホップのマインドを感じて胸が熱くなる中、思い出したのは本作でコリンを演じているダヴィード・ディグスと同様に俳優とラッパーを兼業するドナルド・グローヴァーが主演したドラマシリーズ『アトランタ』(Season 1)だった。『アトランタ』(Season 1)でラッパーに求められているのはドラッグを売りさばき、銃を撃ちまくる、いわばステレオタイプの(まさにグローヴァーが昨年チャイルディッシュ・ガンビーノとして「This Is America」で指摘したような)黒人像で、差別や偏見を元にしたものだ。いわば本作でラップが果たす役割とは正反対で、ラップが全てマイノリティのためにあるわけではないことがわかるだろう。つまり、ここにも“ブラインド・スポッティング”がある。

そんなクライマックスを最たるものとして、いくつかのシーンで我々は“両方”を見た気になることができる。マイルズの幼い息子ショーンが銃を手に取るシーンで、その後マイルズがケンカをしてコリンと口論になるシーンで。しかしそれらのシーンはどれも電話でのヴァルの回答──直感的に盲点なのは変わらない──を重たくするばかりだ。実際鑑賞している我々ですらその瞬間瞬間はどちらか一方に感情移入しているし、その瞬間的な順序は2度や3度この映画を鑑賞した程度で覆ることはないだろう。結論を言ってしまえば、ヴァルは正しいのだ。我々は、同時に“両方”を見ることができない。

そんな絶望的な事実を突きつけられていながらも鑑賞後に残るのは重苦しい気持ちだけでないのがこの『ブラインドスポッティング』を名作と呼びたい理由だろう。これからよそ者が住むであろう建物を片付けながらコリンが当てもなく口ずさむラップやマイルズが散々罵っていたグリーンジュースを口に含む瞬間。普段はきつく締められている結び目がさりげなく、そして簡単に解けてゆく。本作は、どれだけ長い時間を過ごした友であれ、どれだけ甘くまどろんだ恋人でさえ、我々は別の人間であるということがスタート地点にあり、その距離は決してゼロにはならないが、少しずつ、少しずつ、歩み寄ることはできるということを丁寧に伝えているのだ。ときにプライドやアイデンティティを、差別や偏見を隅に置き、正直な気持ちを伝えることや相手を尊重することで我々は開いていた距離を縮めていく。それを絶えず続けていくことで、我々は限りなく同時に近い感覚で“両方”を見ることができるはずだ。スタート地点を忘れないために、歩み寄り続けていくために、私はこの映画をまた観るのだと思う。(高久大輝)

Text By Daiki Takaku


blindspotting

『ブラインドスポッティング』

(C)2018 OAKLAND MOVING PICTURES LLC ALL RIGHTS RESERVED
新宿武蔵野館、渋谷シネクイントほかで公開中
配給:REGENTS

http://blindspotting.jp

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