匿名から実体へ? それでも“考えずに作る”──バー・イタリア、不変の美学
バー・イタリアは、90年代オルタナ/インディの語彙や手触りをあからさまに呼び出してきた。にもかかわらず彼らは、それを「誰が、どんな背景で鳴らしていたのか」という物語、つまりわたしたちが求めてしまう固有名詞のドラマだけは徹底して伏せてきた。それは単なる照れやポーズではない。むしろ彼らは、ポップ・ミュージックとはそもそも(オアシス『Definitely Maybe』がそういう作品であったように)引用と継承を重ねてきたし、これからもそうであるべきだと宣言しているようにも見える。バー・イタリアにとってロックやポップスは、作者の属人性(個人史やカリスマ性)に回収されるべき私物ではない。引用の断片、質感、ノイズのざらつきといった要素のアーカイブを、いまこの瞬間の感覚でもういちど並べなおす行為そのものだ。だから彼らは自分たちの素性をなかなか明かそうとしない。その代わりにサウンドそのものを、決定的な自己紹介として機能するように提出する。そしてそれは「自分たちは何者か?」という名乗りではなく、「自分たちはどの系譜のどこに立っているのか?」という主張として聴かれる。
興味深いのは、ふつうロックにおける参照の多さはノスタルジックなものとして軽視されがちで、実際《Pitchfork》はバー・イタリアの『Tracey Denim』を「無神経なレコードコレクター・ロック」と手厳しく評しているにもかかわらず、バー・イタリアの音は“いま”のリアリティを伴うものとして聞こえることだ。荒(粗)っぽい演奏や録音、投げっぱなしのボーカルは、単なる過去の再現ではなく、むしろスナップ写真みたいな即時性として耳に届く。そしてそのスナップには、80〜2000年代UK/USインディーのリスナーなら即座にわかる具体的な質感が埋め込まれている。結果として聴き手は、「これは知っている」と同時に「でもこれは誰が、どういうふうに鳴らしているんだ?」という違和感にぶつかることになっただろう(少なくとも《Matador》移籍直後の『Tracey Denim』の時点ではそうだった)。この“知っているのに知らない”という感覚は、バンドに関する情報が少なくて謎めいているから惹かれる、といった表層的な話でもない。いまやポップ・ミュージックの歴史はほとんど共有財産=みんなの記憶のストックになっていて、そこにどう手を伸ばすか自体がミュージシャンの表現行為になっている。バー・イタリアはその前提を逆手にとることで、上述の引っかかりを意図的に立ち上げているようにも見える。
つまり彼らの匿名性は、ポストストリーミング時代的な「身元を伏せて神秘性を演出したい」という戦略レベルの話ではなく、もっと構造的な話だ。ポップ・ミュージックを「誰かが所有するもの」ではなく「継承し、再配列しつづける文化」として扱うための仕掛けとして、匿名性が機能している。いっぽうで属人性とは、生の人物像ではなく、ギターの歪み方やリズム・パターンといった参照可能な要素として提示される。天才やカリスマが次の天才へバトンを渡していくという物語、(ディアンジェロをめぐって語られてきたような)唯一無二の主体を神話化するロック史観的な回路があるが、バー・イタリアが差し出しているのはそれではない。誰かの部屋の再生ボタンから、また別の誰かの部屋の録音ボタンへと延々コピーされつづける、日常的で匿名的な所作の連なりとして音楽を捉えなおす視点だ。そのなかに彼らは自分たちの現在地を、乱暴だが正確に確保しようとしている。だから彼らの曲を聴くと、「これはソニック・ユースっぽい」「今回はザ・ストロークスだよね」と固有名詞を挙げたくなる衝動と、その名前をタイプした瞬間に決定的ななにかを取り逃すようなためらいが同時に起きる。その奇妙な引っかかりこそ、いまもポップ・ミュージックは引用で語れるし、引用で殴れるという感覚がちゃんと生きている証拠であり、バー・イタリアはそれを無意識に(あるいは意識的に)実践しているように思える。
というわけで彼らの新作だが、2000年代前後のUSインディー、ポストパンク・リバイバルやガレージロック・リバイバルの風合いをまとっており、乾いたギターサウンド、ちょっとダンサブルでスリリングなリズムに耳がいく。しかも今回は、これまでの彼らが得意としてきた平坦で抑制的なソングライティングから大きく踏み越えている。感情の振れ幅が大きく、展開にも起伏が見てとれる。正直、こんなにエモーショナルなバー・イタリアを聴かされるとは思っていなかったという驚きがある。ただしその変化がどこからきたのかについては、彼らはやはり明らかにしていない。引用元や参照を列挙してみせること、それ自体が作品の一部になってしまうような言い方は、最近公開されたいくつかのインタビューでも一貫して避けられている。
今回の記事でも、このバンドの“正体”そのものはやはり明かすことができなかった。だがそれを惜しいとは感じないくらい、彼らがなにを考え、どんな仲間とかかわっているのかについて、言葉を引き出すことができた。以下のインタビューが、読者のみなさまがバー・イタリアというバンドの輪郭を自分の手でなぞるための材料になることを願っている。
(質問作成・文/髙橋翔哉 通訳/原口美穂 写真/Rankin)
Interview with bar italia (Sam Fenton, NINA, Jezmi Fehmi)
──あなたたちはアートスクールのバックグラウンドも持っていますが、そこで実際に学んだことや当時取り組んでいたことについて教えてください。
Sam Fenton(以下、S):僕は伝統美術を学んでいた。伝統工芸だったり様々な種類の工芸を学んで、その後は絵画を専攻したんだ。
Jezmi Fehmi(以下、J):僕は音響芸術とデザイン。
NINA(以下、N):私は美術史。
──現在に至るまでつづけている活動や、バー・イタリアの音楽活動につながることはありますか?
N:私たちは全員いまでも絵を描きつづけているから……それかな。3人ともそれぞれちょっと違う描きかたのスタイルがあるんだけど、アルバムリリースに合わせて展示会をやったり、チラシやジャケットに自分たちの絵を使ってきたから。
──あなたたちのアルバムでは、過去にはジェズミの部屋(『Quarrel』)からマヨルカ島の一軒家(『The Twits』)まで、録音環境の空気そのものや偶然のざらつきが刻まれてきました。『Some Like It Hot』でも「the lady vanishes」のラストに象徴されるように、その偶然の空気が残っています。今回の録音はどんな環境で行われましたか?
S:今回はロンドンとメキシコシティ2か所のスタジオを使ったんだ。でも、以前の作品までで築き上げた雰囲気や精神は保つことができたと思う。2024年の1月にロンドンで始めて、12月にメキシコでレコーディングが終了したんだ。
N:「the lady vanishes」で軋んだピアノの音が入っているけど、あれはスタジオにあったちょっと壊れたピアノをそのまま使ったの。偶然の空気が残っていると感じてくれたのはその部分じゃないかな。それに、鐘の音もそのまま残したしね。外で鐘が鳴っていたから、メキシコのスタジオの屋上でそれを録音したの。
──「このテイクは残そう」と判断するのはどんな瞬間ですか?
N:単にその音の聴こえがいいときか、ある音が偶然できて、それの再現の仕方がわからないときだと思う。完璧な音ではなくても、再現が難しいように聴こえたり、その音自体に独特の感情や経験が込められていたらそのテイクを選ぶの。
──『Tracey Denim』のころはミニマルなサウンドでしたが、今作ではマキシマムというか、どのパートに何本のギターが鳴っているかわからない楽曲がいくつかありました。こうした“境界の曖昧さ”を保つことに、おもしろさを見いだしているようなところはあるのでしょうか?
J:僕たちはそれを意識してやっているわけじゃない。その手のことは、僕らはまったく考えないんだ。僕が考えてるのは、その音が曲を良くするのか、それとも悪くするのかってことだけ。誰かがこのパートをどう演奏したら曲が神秘的になるかみたいなことよりも、もっと文字通りのことを考えるだけだね。
──なるほど。では、今作では“境界の曖昧さ”が出ているという感想に関しては、自分たちでもそう感じますか?
S:必ずしもそうは思わないかな。僕は、むしろもっとミニマルになったと思う(笑)。
J:それについては、いろいろな見方があるんだよね。たとえばレコーディングの面だけを考えたら、このアルバムは他の作品とくらべてマキシマリスト的だとも言える。だって、ドラムキットには以前はマイクを4本しか立てなかったのに、今回は15本も立てたんだからね(笑)。そういう意味ではマキシマリスト的なんだけど、実際のサウンドが必ずしもそうとは限らないんだ。ある意味、メロディ的にはシンプルになったと思う。
S:そう。メロディもそうだし、すべてではないかもしれないけど、かなりの部分がシンプルに感じられると思うよ。
N:曲の構造が、よりポップで予測不可能なのよね。私はそこが大好き。レコーディングの方法やツアーの影響もあって自然と、知識不足や欠点をテクスチャーとして活用する手法を離れて、純粋に自分たちが心から気に入る楽曲を可能な限り高いレベルで作り上げることに集中するようになったんだと思う。スタジオに入ってからセッティングに時間と労力を奪われずすぐに演奏を始められたこと、ドラムに使う15本のマイクに関してもプロが面倒をみてくれたこと、そういう環境が曲の完成をむしろシンプルなものにしたんだと思う。
──「omni shambles」はこれまでにないキャッチーでアンセミックな曲だと思います。あなたたちにとってキャッチーなことはどんな意味をもっていますか?
S:なにかを瞬時に感じさせる音かな。たとえば興奮だったり引き込まれるような感覚だったり、あるいは少し説明しがたいなにかを感じさせるもの。でもキャッチーなものにはその一方で、常になにか常軌を逸した不思議な要素もあると思う。
──それはバー・イタリアの音楽においても重要な要素のひとつだと思いますか?
N:頭から離れない曲って私自身も好きなのよね。そういうプロセスや瞬間が好き。もちろん即効性のない曲にも好きなものはたくさんあるけど。クラシック音楽だって、たしかにポップスとは違うけど、特定の反復やメロディがすごくキャッチーだったりして、そういう要素があるからクラシックは私が一番好きな音楽ジャンルのひとつになった。
つまり、私は“反復”とか“頭から離れないもの”に興味があるんだと思う。それと同時に、アンダーグラウンドから飛び出して多くの人に届くという側面も好き。ヒップスター・コミュニティだけじゃなく、世界的に広がる現象って興味ぶかいよね。
──「I Make My Own Dust」、「rooster」は私が特に好きな楽曲です。どちらも荒々しさと、ざらついたグルーヴが同居しているように感じます。これらの楽曲に、自分たちのなかで共通する感覚やつながりはありますか?
S:荒々しさとざらついたグルーヴが同居してるって表現、好きだな(笑)。
N:その2曲は、どちらも幽玄でセクシーだと思う。
S:「rooster」にはドローンのような響きがあって、そこがすごく好きなんだ。その音がずっと鳴り響いている感じで、ギターやベース、ボーカルさえもこのドローンを軸に揺れ動いているような、そんな感じ。
J:その2曲はどちらも歪んだ感じなんだよね。しかもかなら強い歪み。音量も大きくなったり小さくなったりするし、すごくダイナミックなんだ。
──エンジニアのMarta Salogniとのタッグは今回で3作目になります。さきほど挙げた「I Make My Own Dust」のノイジーな立体感や「rooster」の重厚なグルーヴは、これまでと異なる迫力をもっています。今回、彼女とのコラボレーションで新たに得た知見はありますか?
N:彼女といっしょに仕事をするのはいつもすごく楽しい。それは以前から変わらないから、今回なにが新しかったか考えるのは難しいな。今回もいつもと同じくらい素晴らしかったから。彼女は本当に才能があって、彼女の技術にはみんな驚かされるの。
──彼女となにか新しい試みをしたりはしましたか?
S:今回は、ステレオ・スプレッドのプロセスをもっと深く掘り下げたんだ。たとえば、さっきジェズミがドラムキットに使ったマイクの本数について話していたけど、それも含めて、今回は音響的に整理すべき情報量が圧倒的に多かったんだよね。だから僕たちは楽曲の広がりについてもう少し深く掘り下げたんだ。そして彼女がその領域をどう扱うかを見ることで、多くを学ぶことができたと思う。
──Dean Blunt主宰《World Music》から匿名的に登場したころに比べて、いまは“バンドとしての実体”が強まったように感じますが、当時の匿名性の感覚はいまのバー・イタリアにも残っていると思いますか?
S:僕たちのことを知らない人がまだたくさんいるという意味では、残ってると思うよ。街を歩いていても、みんなが完全に他人みたいに感じられるから。でもそれが僕たちの音楽に影響しているとは思わない。自分たちを匿名とか神秘的な存在とは思ってはいなかったし、いまそれが明るみに出たみたいな感覚もないしね。僕たちは考えずに、ただ音楽を作っているだけなんだ。
──自分たちのまわりやシーン、またツアーやギグで出会うなかで、親近感を感じるミュージシャンやバンドはいますか? またそれはどんな理由からでしょうか?
S:ツアーを通じて何組か良いバンドに出会ったんだよね。ロサンゼルスにRocketっていうバンドがいるんだけど、彼らは本当に良い人たちで、彼らの演奏への姿勢をすごく尊敬してる。
N:それから、TriageってバンドとそのメンバーのOrazio。Triageはそろそろアルバムが出ると思うけど、観たとき本当にワクワクした。彼らはダークで陰鬱な雰囲気を持っていて、同時に圧倒的にクールな存在感を兼ね備えていると思う。Orazioのギターはボーカルと本当に調和している。
あと、今回いっしょにツアーをまわるxmalも。彼はアコースティックギターで演奏するんだけど、他にもさまざまなプロジェクトをやっているの。トリッピーでポップで囁くようなボーカル・スタイルを持っている。彼らのスタイルはは本当にかっこいいしサウンドもすごくクール、彼らが作りだすムードも最高だと思う。
──あなたたちが過去に共作したことがあり、Dean Bluntとも交流のあるミカ・リーヴィ(Mica Levi)は、映画音楽やソロ、プロデュースでも知られています。ミカのアプローチから共鳴する部分はありますか?
S:ミカ・リーヴィは天才すぎて、共鳴するのは無理(笑)。計り知れない天才で、ミカが加える小さなタッチのひとつひとつがあまりにも多くを語って深い意味を持っているんだよ。ミカは本当に素晴らしいと思う。
J:ミカがなにをしているかを説明できる人なんていないんじゃないかな。それくらいすごいんだよ。
N:ミカのギタープレイは私がこれまで見たなかで最高のものの一つだと思う。ミカがギターを弾くたびに、他のすべてを忘れてしまうくらいワクワクするの。
──ミカ・リーヴィや、ミカが在籍するグッド・サッド・ハッピー・バッド(Good Sad Happy Bad)、あるいはあなたたちのツアードラマーだったマーク・ウィリアム・ルイス(mark william lewis)の作品は、日本の一部のリスナーからも熱い支持を得ています。あなたがたにも彼らから得た刺激や、自分たちにとっての意味があれば教えていただけますか?
N:マークは、ドラマーでもあるけど素晴らしいギタリストでもある。
S:彼の演奏を観るのは本当に刺激的なんだ。彼はそういう意味でいまだにインスピレーションを与えてくれていると思う。
N:むかし、彼と二人だけでソロ曲を作ったことがあるんだけど、彼との作業で面白かったのは、彼がテープを使ってレコーディングしていたこと。あのアナログなやり方は私にとって初めてだった。
S:グッド・サッド・ハッピー・バッドは何度かライブを観たよ。驚かされたし素晴らしかった。最高のバンドだよね。
<了>
Text By Shoya Takahashi
Photo By Rankin
Interpretation By Miho Haraguchi
bar italia
『Some Like It Hot』
LABEL : BEAT RECORDS / Matador
RELEASE DATE : 2025.10.17
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【REVIEW】
bar italia『The Twits』
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