倒錯のポップ・ミュージック美学
僅か3分10秒。だが、その3分少々を構成している成分の、もはや「情報」などという言い方などあまりに安直に過ぎる音の濃密さにはただただ目眩がしてしまう。この1曲でアルバム1枚分……いや2、3枚分ほどの手応えだ。天才なんて言葉も安易に使いたくないが、この男に限ってはそれも許されるのではないか、いやどうか許していただきたい、と懇願したくなるほど、現代稀にみる天然石型のポップ・ジーニアスと言っていい。
カメラ=万年筆として活動開始してから既に10年以上は経過している佐藤優介は、現在、スカート、KID FRESINO、Kaede(Negicco)、町あかり、あるいは鈴木慶一やカーネーション……などなどライヴ、録音ともに鍵盤奏者/アレンジャー/プロデューサー/コンポーザーとしては枚挙にいとまがないほど様々な現場で大活躍を見せている。だが、こと自身の作品となるとこれが恐ろしいほど寡作で、年に1曲も発表されない、おまけにサポートではしょっちゅうステージにあがるというのに、単独でのライヴは滅多にやらないため、この男の音楽家としての素性を体験の“数”で深く知るのは極めて難しい。そもそも、今回リリースされたこの「UTOPIA」の前の作品なると5曲入りEP「Kilaak」まで遡るので、実に2年3ヶ月ほど待たされたことになる。その挙句に届いたのはたった1曲、3分10秒だ。
しかも、佐藤には山っ気がまるでない。今年1月に筆者が企画した京都でのイベント(w/ 鈴木慶一、山本精一)に佐藤には自身のソロのみならず鈴木慶一のバックでも出演してもらったのだが、その際、物販用に「Kilaak」の7インチ・シングルや参加作品を持参してほしいと強く頼んでおいたにも関わらず、当日丸ごと家に置いてきてしまったとケロリと告白する始末。商売っ気がないというより、作品を自ら販売するという作業そのものに積極的ではないのだろう。まあ、そういうところも魅力なのだから仕方がない。と諦めてしまうのも切ないが、もうこればかりはどうしようもない。
そんな男の新曲がこの「UTOPIA」である。しかし、寡作である必然をこれほど説得力をもって訴えかけてくる曲もない。最初に聴いてからもう何回リピートしているかわからないが、繰り返すたびに全く異なる位相を開示するだけではなく、まるで雲が幾重にもかかってくるような層の厚みを帯びる中で、明確な一つの命題を持っている曲である事実をクッキリと煌びやかにつきつけてくる。いや、この曲だけではない、佐藤の作る作品には、過去、カメラ=万年筆の時代から揺るぎない美学がある。“美”学ではなく“汚”学と言うべきか……美醜の価値観の再考を促すポップ・ミュージックへのかなりラジカルな批評性があるのだ。
この「UTOPIA」を構成しているサウンド面での特徴をいくつか具体的な例であげると、スクリッティ・ポリッティ『Cupid & Psyche 85』、細野晴臣『PHILHARMONY』、加藤和彦『パパ・ヘミングウェイ』、ロバート・パーマー『Riptide』、ピーター・ガブリエル『So』……あたりだろうか。このうちの2作、『パパ・ヘミングウェイ』と『Riptide』はバハマの《Compass Point》で、『Cupid & Psyche 85』はNYの《Power Station》などでレコーディングされており、いずれも当時としては最高の機材を搭載したスタジオで制作されている。しかしながら、『PHILHARMONY』だけは細野が自身立ち上げたばかりの《LDK》スタジオで、ほとんどの作業を自らこなすプロセスを経て完成させた作品だ。佐藤はその『PHILHARMONY』に感じる音の魅力を先ごろ公開した原稿で細かく記述しているが、『Cupid & Psyche 85』などに散見されるシャープでメタリックな音質を、ただ今の技術でなぞるのではなく、言わば自ら音をグシャっと潰すような作業で再現しようとしたのではないか。まだサンプリングも粗い音でしかできなかった時代の、でも、そのラフな音こそがいいと感じる音質の価値観を、今デジタルで再現させたらどうなるか……。この「UTOPIA」は、そんな倒錯した美意識の上に成り立っている曲だ。このあたり、ミックスは佐藤自身だが、マスタリングを手がけたイリシット・ツボイの手腕も大きいだろう。
そこで、音を「汚す」「潰す」にあたり、打ち込みのビートのアイデアとしてファミコンのノイズチャンネルを使用している。音から推察するに、単にサンプリングによるノイズの再現ではなく、CPUの動作周波数で起こるノイズを拾って利用しているのではないかとも思えるのだが、さておき、そこから16ビートのダンス・オリエンテッドなリズムを創出させただけでなく、曲自体のイメージを19世紀末から20世紀にかけて全盛期を迎えたアメリカのヴォードヴィルの風合いへと昇華させているのがこの曲のさらに厄介な……いや、抜群に面白いところだろう。
つまり、この曲はあくまで音楽的には、ユリウス・フチーク「剣闘士の入場」のストリート・オルガン編曲、スコット・ジョプリンのようなラグタイム・ミュージック、あるいはサーカスや大衆娯楽、遊園地のメリーゴーラウンドなどで使用されるような曲のオモチャっぽさがベースになっている。そこにスカートの澤部渡と、岡田徹(ムーンライダース)やKaedeのサポートで佐藤と共演してきた森達哉がそれぞれギターを入れバンドっぽさを加えているのも興味深い。ただ、それをファミコンのノイズチャンネルを大胆に使用することで、ヴォードヴィルへのノスタルジーに陥ることから逃れ、さらに80年代のサウンド・プロダクションへの憧憬を自らの手で鮮やかに潰してみせた。なのに、レイヤーなんだか層の厚みだか、パッと聴きではよくわからない混沌とした機密性高い音の中に、それでもハッキリとポピュラー音楽の歴史と構造をスパッと1本の槍で貫くような鋭さがある。まこと驚くばかりの批評性だ。
今回もまた歌詞はもとより声でさえほとんど潰れていて聞き取れない(というより聞こえないようにしている)が、これが高橋幸宏や加藤和彦あたりの影響だということはさておいても、佐藤は自分の肉声をもペシャンコにしてしまうことで、そこに作り手の温度感やそうした指向性、属性でさえも持ち込まないようにした意図が感じられる。
綺麗とは何か。美しいとは何か。楽しいとは何か。あるいは、そうした安っぽい言葉に引きずられて整然と歴史を重ねてきた末に、つまらないエンパシーを浴びせられて生き延びてしまったポップスへの一部優生思想的な解釈を今一度巨大なふるいにかける。この曲はそんな側面を持った重要な1曲だ。このあとまた再び2年ほど佐藤から新曲が届かなかったとしても、物販を丸ごと家に置いてきてしまったとしても、私はもうまったく不安になることも、怒ることもないだろう。もちろん、もっと早く新曲が届いてほしい気持ちはあるが、そうした矢継ぎ早のスピード、ルーティーンがなんら意味を持たないということもこの曲はおしえてくれるのである。(岡村詩野)
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