LAの“ロフト”で鳴らされたリコンストラクション・ミュージック
《Rough Trade》内レーベルで主にフォーク系の作品にフォーカスする《River Lea Recordings》からのリリースとなる本作で、サム・アミドンはとても象徴的な2つの楽曲をとりあげている。一つはルー・リードの「Big Sky」(アルバム『Ecstasy』収録)、もう1曲がオーネット・コールマンの「Friends And Neighbors」なのだが、この2アーティストに繋がりがある事実(というより、ルーがオーネットの熱烈なファン)を、今、これほどラディカルに、フォークやジャズのコンテクストを壊しながら再構築できる人もサム・アミドンくらいではないかと思う。最初に断っておくと、その2曲だけではなく、このニュー・アルバムも全10曲が彼の自作曲ではない。伝統的なフォーク曲の再構築が中心だ。カヴァー、というよりリコンストラクションが非常に多いのがアミドン作品の特徴であることは言うまでもない。
さて、ルー・リードがエドガー・アラン・ポーの作品をモチーフにしたアルバム『The Raven』(2003年)の「Guilty」でという曲でオーネット・コールマンと共演していることは知られているが、そこから遡ること24年前の1979年にリードのアルバム『The Bells』で両者は既に“間接的”な共演をしていた。このアルバムにはコールマンとは昵懇のドン・チェリーが参加しているが、中でもタイトル曲は、チェリーがコールマンの「Lonely Woman」のリフを吹いた音源を、エドガー・アラン・ポーの詩集を読みながら聴いたリードが思いついて出来た曲、と言われている。フリー・ジャズのようなセッションが刻まれた「The Bells」という曲のこのエピソードを、サム・アミドンが知っているかどうかはわからない。けれど、アミドンが今は亡きリードとコールマンの、“次なる邂逅”を自身のアルバムで実現してみせたことは特筆に値するだろう。それが本作における「Big Sky」と「Friends And Neighbors」、リード、コールマンそれぞれの曲の再構築である。
しかも、本作でその故人たちの”次なる邂逅”をサポートしたのが、プロデューサーも兼ねたサム・ゲンデルと、そのゲンデルやエリック・シュノーらの作品で注目を集めてきたパーカッショニストのフィリップ・メランソンであるということがさらに興味深い。アミドンを加えた3人はLAにあるゲンデルの自宅で本作の録音を敢行したそうだが、ここで一つの参照点として見えてくるのが、まさにコールマンが70年代初頭に自宅をスタジオ《Artist House》として録音、制作の現場としていたこと、そしてそうした活動を一つの起点として発展した、当時の新しいジャズの動き=ロフト・ジャズだろう。アミドンとゲンデルがそこを意識していたのかどうかは定かではないが、コールマンがまさに友人や隣人たちを《Artist House》に集めて「Friends And Neighbors」を録音したように、ゲンデルが馴染みのメランソンを連れてきて自宅でセッションを行った本作は、現在のゲンデル周辺のコミュニティ讃歌の一つと受け取ることができる。これはもちろん、アミドンとゲンデルという、リアルな隣人同士ではないものの(アミドンはロンドン在住)、アミドンのアルバム『The Following Mountain』(2017年)、『Sam Amidon』(2020年)での共演を筆頭に、10年来の付き合いを重ねてきた二人のフレンドシップから派生した、ジャズやフォークの“再文脈化運動”に他ならない。アミドンは本作について「このアルバムはキャンプファイヤーだ。それはサム・ゲンデルの機材を取り囲んでいる」と綴っている。まさに、ゲンデルを軸とする、現代のロフト・ジャズ……いや、ロフト・リコンストラクション・ミュージックといったところだろうか。
それをさらに象徴するのが、伝統的なフォーク曲の再構築を中心とする本作の中で、さらにもう1曲、ヨーコ・オノの「Ask The Elephant」が選ばれていることだ。この曲自体はヨーコ・オノが息子のショーン・レノンやホンダユカ、コーネリアス、あらきゆうこらとNYで制作した2009年のアルバム『Between My Head And The Sky』に収録されているが、ヨーコは生前のオーネット・コールマンと交流があり、『Yoko Ono / Plastic Ono Band(ヨーコの心)』(1970年)の「AOS」にはコールマンが参加している。つまり、オーネット・コールマンとヨーコ・オノは、70年代前後からニューヨークの“友人であり隣人”の関係であってきたのだ。
本作でアミドン自身はいつものようにヴァイオリンやバンジョーを弾き、自らも哀しみを滲ませたスモーキーな歌声で言葉を燻らしている。そこにゲンデルによるシンセサイザー、エレクトロニクス、メランソンによる乾いたパーカッションが呼応し、自宅ならではの生活音やノイズなども無造作に挿入される。Sarune Bolon(オーボエに似た古いインドネシアの民族楽器)の素朴な音色と、ニューエイジのような透明感あるナイロン弦の響きが一体となったり、アメリカの伝統的なフォーク・ソングをエネルギッシュなビートを重ねて聴かせたりと解釈は自由だ。先の3曲以外について記しておこう。1曲目はアメリカでアイリッシュ・フルートやティン・ホイッスル奏者として活動するグレイ・ラーセン。2曲目は伝統的な讃美歌。4曲目はアメリカのトラッド曲。5曲目はトラディショナルなアパラチアン・フォーク。6と8曲目は19世紀のアメリカ南部のシェイプ・ノート歌唱曲。10曲目はアイルランドのフィドル奏者で作曲家だったJunior Crehan。これらの中にルー・リード、オーネット・コールマン、そしてヨーコ・オノの曲が混ざり込んでいること、そしてこれがLAの“ロフト”たるゲンデルの自宅で制作されたことは、単なる偶然であるはずもない。
マライア・キャリー、ティム・マッグロウ、アーサー・ラッセル、タジ・マハール、そしてもちろん作者不詳のトラディショナル・フォークなどこれまでに数えきれないほどの“自作ではない曲”に向き合い、時には丸ごとトラディショナル・フォークの曲で占めたアルバムを発表してきたアミドンは、どこまでがオリジナルで、どこからがカヴァーなのか、というナンセンスな線引きそのものを退けてきた。しかも、自身はフィドルやバンジョーを主楽器としつつも、サンプラーやルーパー使いにも寛容で、キーボードなどの電子音をアレンジの要とすることにも積極的で……と、アラン・ローマックスやハリー・スミスが収集してきた音源への熱心なアプローチを柱にしつつも、これまでの数々のコンテクストを洗い直すかのような活動を展開している。本作はそのようにさまざまな文脈から解き放たれようとするラディカルなアーティスト、サム・アミドンが明らかに一つの大きな成果を得たことを証明するものだ。もちろん、これもまたアミドンの活動の、一つの通過点でしかないのだが。
ところで、アルバム・タイトルの“Salt River”はアリゾナ州を流れるヒラ川の支流の一つで、もともとは合衆国の辺境住民、特にケンタッキー州の人々を指して使用されていたのだという。「to row (someone) up Salt River」は「(誰かを)政治的に敗北させる」というスラングにもなっているとのこと。アノ人が大統領に再度就任した2025年、本作はその事実にもかけているのだろうか。(岡村詩野)