一日1曲の異物
アーティストの新作のレヴューに、レビュワー自身のことや個人的な生活のことを書いてあったりするのは、別に読みたくはない。海外のアーティストの本とかにはたまにあるが、まずお前は誰なんだよという感じがして、何か嫌だ。しかし、筆者自身、音楽活動をする身として、生活の中で、この作品に影響を受けた。今となっては、海外レヴュワーのその気持ちがわかる気がする。人の作品のレヴューで自分のことをどれくらい書いてもいいのかわからないが、失礼を承知で書かせてもらおうと思う。
この作品自体が、ラジカルでありドキュメンタリー的なので、レヴューも多少ドキュメンタリー的になるのを許してほしい。
それで、いきなり個人的なことなのだが、8年間付き合い同棲していた恋人が出て行った。私は一人で住むには少し広い家に取り残された。生活のハリは完全になくなり、ただでさえ怠惰な上さらに怠惰になり昼夜逆転し続け退廃した日々を過ごした。深夜に自転車で川に行くことが日課になり、走りながら思い出したりあれこれ考えたりした。日々がどこに辿り着くのか、わからない。川は海につながっているらしいが、そこまで行ったことはない。
こういうことは誰にでもあることらしい。私には初めてなので、何だか人生がまるで変わってしまったような感覚で、毎日過ごしている。
そんな中で『ピアスとギター』を聴いた。
この作品は、一日1曲作って、それをYouTubeにあげ翌日消すということを2024年の6月から7月初頭まで一ヶ月ほど続けた、その32曲が収録されたアルバムだということだ。
一日ずつ、気分が違う。この日は歌、この日はインスト、この日はやる気なかったのか、適当だったのか、湿っぽい気分だったのか、踏切に行ったのか、宅録セッションしたかったのか、朗読してみてみたのか。などなど。どの曲も一筋縄ではいかない。よくわからない謎の音が入っていて、関係のないモノたちの出会いがある。踏切と風鈴の出会いのような詩がある。よく聴くと、どうやって作ったのかよくわからないような瞬間が多く、豊田道倫のアーティストとしての瞬発力とその場、その瞬間のセッションを決めるアイデアのスピードが存分に発揮されているんじゃないかと思う。
何度も聞くうちにそのテンション・コードとメロディが必然的に思えてくる。
「学校で誰かがいじめられたらちょっと安心した」「悲しむことなんて何もない 苦しむことなんて何もない」「一同介して 一同介護してお茶会したいわ」と、なんだか元気になるようなパンチラインに溢れた歌が並ぶ。
アルバムの歌詞カードの最後に豊田がコメントを残している。「本当の旅に出れたと思っている」とそこにはある。
曲作りとは、旅なのだろうか。
この作品を初めて聴いた時、パッと聴いた感じで思ったことを正直に書くと、こんな感じだったら俺にもできるんじゃないか、ということだった。
一日1曲作るというアイデアは、曲を作っている人なら一度は思いつくもので、実際にやってみたという話は周りからもちらほら聞いたことがある。昔、私が曲を作り始めた時は、学校から帰って一日1曲作っていたような気がする。いつからかやらなくなってしまった。拘りが増えたのか。それか感動がなくなってしまったのだろうか。ただこの作品を聴いて、作ろうと思えば作れるんじゃないか、とも思った。
そして、実際に一日1曲くらいのペースで作ってみた。色々あったこともあり曲がたくさんできた。今まで私はほぼ全て曲を先に作り後で歌詞を考えていたのだが、よほど言いたいことがあるのか詞先になった。クオリティに関してもさっぱりわからない。適当なメロディでも、このアルバムを思い出すとまあいいかと思うようになった。今後バンドでやれるような曲なのかもよくわからないし、音楽性がまるっきり変わってしまったかもしれない。豊田さんがどういう気持ちでやっていたのかわからないながら何となく自分なりに追体験したような気にもなった。
このアルバムのようにちゃんと毎日録音を重ねて形に残すということができたら良かったが、そこまでの集中力は続かなかった。そこは実際にやってみて、本当にアイデアを実行して30曲以上も録音してアルバムの形にしてしまうという豊田さんの凄さがわかった部分でもある。
ここのところ毎日、日記を書いている。毎日結構書くので、なんだか日記を書くことが、日々の唯一生産的なことなような感覚にさえなってくる。以前、日記を頻繁に書くとマイナス思考になっていくように思い、心が曇るのでやめていたが、むしろ今は日記によって何かが引き出されていくこと自体が自分を引っ張ってくれるような気で過ごしている。ただ内容は毎日同じようなことを書いている気もする。日記を書くように曲を作る、と言う人もいる。一日1曲というのも近いのかもしれない。同じようなことをずっと曲にし続けそこから何か導かれていく。
一日1曲続けて、次第にネタはつき、内面に潜り込んでいくのだろうか。いや、もしかしたらむしろ、意識的にたどり着ける安易な内面を越え、身体的な部分が強く現れていくのか。
そもそも曲作りとは何だろう。
自分の内面を探っていくことなのか。探るとは何だ。自分が本当は何を思っているのか、考えても結局よくわからない。いきなり腑に落ちることもある。何か別のことをしていると、思ってもみなかったものが、現れることがある。いきなり現れたその新鮮な響きに驚くこともあるのかもしれない。その響きによって何かが変わったりする。それは、自分が自分に対して、セラピーをしているということなのだろうか。
精神分析とは、内面の探究というよりも、内面にあるいろいろな要素を取り出し外在化して状況を動かすことであり、内側における外在性の探究である、とどこかで読んだ。内面から出てきたものを何となく並べたり、自由に繋ぎかえていくという意味では、作曲やアルバムを作ることもそれに近いところがあるのではないかと思う。
曲を作る中で、自分の中の思い出や今の思いに新たな色や景色が加わったり、無関係な言葉が人生に持ち込まれて異物感を放ちながら脈絡を作ろうとしていく。その中で発見をしたり、自身を取り巻く状況や景色が変化し、また次に生まれるものも変化していく。それを「旅」と言うならそうなのだろう。
それは日々を生きていく中で「何かをする」ということ自体も、結局は同じことなのかもしれない。
豊田道倫は、どんな旅をしたんだろう。
アルバムで聴ける、こんな旅をやってのけた、というのは凄いことだ。最後の曲では「もう、スクワイヤーしか弾かない」という結論に達したらしい(スクワイヤーとは廉価版ギターの代表)。
俺も少しは旅ができたのか。いや今も旅をし続けて景色が変わってきている。海は案外近いのかもしれない。
本当はみんな、人生の中で毎日旅をしているはずだろう。
そんな当たり前のことをラジカルに教えてくれる、このアルバムを聴いてみて欲しい。(岩出拓十郎)
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