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Philip Glass: Philip Glass Solo

2024 / Orange Mountain
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彼の音楽の上にも、多くの時間と文脈と批評が降り積もっていることだろう

19 March 2024 | By Shoya Takahashi

フィリップ・グラスが過去の作品をソロピアノで再録した『Philip Glass Solo』は、グラス版『1996』(坂本龍一)であり、彼の楽曲と彼自身の、流麗さや力強さと出会い直させてくれるようなアルバムである。

私がフィリップ・グラスの音楽を初めて聴いたのは『The Photographer』(1983年)であった。これが19世紀の写真家=エドワード・マイブリッジをテーマにした劇に当てて書かれた作品で、曲中の言葉はあのデヴィッド・バーンが書いたことを知ったのはずいぶん後になる。グラス自身が演奏する電子オルガンの音色が奇妙な「Act I, A Gentleman’s Honor」が好きだった。

次に聴いたのは『Solo Piano』(1989年)だった。今回の『Philip Glass Solo』の7曲中5曲はこの『Solo Piano』の曲目の再録であり、彼のキャリアの中でもコンセプトや雰囲気を一にするアルバムである。『Philip Glass Solo』を聴く上ではどうしてもこの『Solo Piano』と比較することになるので、これについては後ほど述べようかと。

そして彼が初めて映画音楽を手がけた、監督=ゴッドフリー・レジオ、撮影監督=Ron Frickeによる映画『コヤニスカッツィ』(1982年)。映画自体は、ビル群の鳥瞰やスーパーマーケットの陳列棚、工場のラインなどの映像群。その画面の強度や社会へのつぶさな視線は、セルゲイ・ロズニツァの『アウステルリッツ』(2016年)などを思い出しもするが、そのカメラのフォーカスが群衆の顔や流れに向いているセルゲイに比較すると、レジオのカメラは産業プロダクトや街の様相を切り取っており、『コヤニスカッツィ』はテクノロジーや生活様式の変化を皮肉った作品「とされている」(監督はこの作品のメッセージ性を半ば否定している)。なるほど街や建物や生活について歌い続けている上述のデヴィッド・バーンとの不思議な共通点を指摘できなくもない。しかしなんと言っても、スローモーションや低速度撮影を多用した、グラデーションを描き徐々に変化する景色や、ミニマルな繰り返し構造が強調された俯瞰映像は、フィリップ・グラスの音楽を映像化したら?という多くのリスナーの素朴な疑問を具現化したものと言えよう。

そういったいくらかの蓄積を経て、今回の『Philip Glass Solo』と対峙する。リリースの5日後に87歳を迎えたグラス。パンデミックを迎えた2020~2021年、フィリップ・グラス・アンサンブルを率いて年に数公演おこなっているツアーの予定をキャンセルし、ニューヨークの自宅で愛用のピアノによって録音された。そういう意味では坂本龍一『12』(2023年)や小瀬村晶『88 Keys』(2021年)とも比較できる作品かもしれない。

ソロピアノというシンプルな編成から、改めてグラスの作風を感じることができる。彼の楽曲はとても心情喚起的、あるいは映像喚起的だと思う。例えばテリー・ライリーが『Persian Surgery Dervishes』(1972年)でフラクタルな幾何学模様を描いたのに比べると、グラスの音楽はミニマルなフレーズながらその中にわずかなエモーションや機微を、アタックの緩急には生命力を、パターンの切り替わりにはしなやかさを感じ取ることができる。

本作のリリースに合わせて、1曲目「Opening」のライヴ映像が公開されている。これは彼の代表作の一つ『Glassworks』(1982年)に収録の楽曲。この映像は素晴らしい。彼にとってのミニマリズムが、決して機械的だったり幾何学的だったりするものではなく、とても有機的で細かな陰翳に富んだものであることを示している。テンポは一定でなく変動し続ける。8分を刻む右手と左手をよく見ると、互いにリズムがずれていることに気づく。そういった少しのずれや変化を丹念に丹念に積み重ねることで、寡黙かつ雄弁な物語を紡いでいる。

2曲目「Mad Rush」から6曲目「Metamorphosis 5」までが、1989年作『Solo Piano』からの楽曲だ。「Mad Rush」は「Opening」に似た構造をもった楽曲。これが流れ始めると、『Solo Piano』オリジナル版に比べいくらか風通しがいいのに気づく。テンポが落とされているのもそうだが、演奏環境の空気が感じられるような録音といい、音が耳に近くなく頭がすっと軽くなるような清々しさがある。「Mad Rush」はコンサートでの演奏頻度がもっとも高い楽曲の一つである。30年の時を経て切迫し張り詰めたようなストイシズムは消え失せ、グラスはこの楽曲を身体と一体化させている。

少し余談だが、私はフィリップ・グラスが1970年代までタクシー運転手を兼業していたことを最近になって知った。直近でタクシーが登場する映画をいくつか観た。映画におけるタクシーは、『タクシードライバー』(1976年)やダリオ・アルジェント版『サスペリア』(1977年)に例を見るように、場面を映画的に駆動させる装置となりうる。(乗用車とは異なり)受動的なクルマ移動、運転手や同乗者との緩いコミュニティ形成、窓から見える景色の移ろい、車内から目撃してしまった事件、運転手の後頭部やバックミラーに宿る不穏さ、など。

『Philip Glass Solo』を聴いていると、アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』(1997年)を思い出す。これは主人公が路上で出会った相手を車に乗せ、自殺ほう助を依頼する映画なのでタクシーものではない。だが見知らぬ二人がクルマに同乗し、些細な会話や対話を互いの視点で映し続ける状況はとてもタクシー的である。この映画での「窓」の使い方は印象的。世間話をしているときには市街地を走っていたはずのクルマが、自殺ほう助をほのめかすころには土色の山や草原を走っている。映画中盤まではハゲ山や埃のまろやかな溶けるようなピンクオレンジ色が窓の外を支配していたが、ある出来事をはさんだラストシーンでは、花や女性の衣類の華やかさが窓の外を彩っている。

主題やテーゼをわかりやすく提示するのではなく、ゆるやかなグラデーションによってほのめかす。なんとなくの色合いの変化は、時に静止画や言葉よりも細やかなニュアンスを伝える。フィリップ・グラスがこのアルバムを録音している間、ふと窓の外を見やったりクルマでいくつかの町を廻ったりしたかはわからない。でも『Philip Glass Solo』からは彼が演奏した部屋の空気や、皺が刻まれた彼の指が動いて音をつなぎ続ける様子が、確かに浮かんで見えるのだ。

時代もテクノロジーも社会も個人もあらゆる状況が変化し、彼の音楽の上にも、多くの時間と文脈と批評が降り積もっていることだろう。そんな中で再びピアノの横に腰かけ、数十年前の自分が作った音楽を再演すること、当時と異なる景色を今の枠組みでとらえなおすことは、彼のプレイヤーとしての矜持と鑑賞者としてのまっすぐな感動を共有し、歴史の同乗者としてシートに座ることを私たちに促している。(髙橋翔哉)


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