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Lantern Parade: あなたが思い出すための / 記憶の中の海辺

2024 / self-released
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いつかの失望、余計な一言、何も忘れさせてくれない

28 May 2024 | By Shoya Takahashi

昼過ぎのまどろみというか、深夜の静けさというか。ランタンパレードの新作『あなたが思い出すための / 記憶の中の海辺』は、そんなひとり時間に聴くのに適している。しかし、サウンドトラックなどというにはあまりに情報過多だ。ランタンパレードこと清水民尋がみずから述べている通り、「どこの国のものか分からない不思議なダンスミュージック」として仕上がっていて、音楽から感じられるムードは終始ドリーミー。ではあるのだが、サウンドにしてもリリックにしても、聴き手を簡単には酔わせてくれない意地悪さがあると思う。

歌詞をいくつか挙げてみる。

繰り返しの繰り返し 気だるさだけが友達さ
愛されてるいつもノットサティスファイ 愛されてるいつもノットサティストファイ
「笑っています」

一生非を認めない人もいるね
憂鬱な人の方がまともさ
「ひとり道徳授業」

響きだけ良くて 実はグロテスクな言葉が好きな人が多い
すり替えとごまかしだらけだから すり替えてごまかしてますよなんて誰も言わない
「定義付けてから論じましょう」

いったい他人や社会に対してどれだけの失望や諦念や不信感を溜めこめば、こんなにも晴れない言葉ばかりが口をついてくるのだろう。世の中で常識とされているものから逃げる。自分が信じていたものは幻だった。はじめから期待してないと言いつつ、少し期待した自分はやはり間違いだった。このアルバムにおさめられた言葉たちには、そんなフィーリングが充満している。

いや、わたしが失望しているから、耳が言葉を消極的にとらえるのだろうか。例えばランタンパレードを社会派だとのたまうあなたはきっと社会派だし、このアルバムの歌詞を愚かだなあ、めんどくさいなあと思うわたしは愚かでめんどくさい人間なのだろう。聴き手の写し鏡として機能する『あなたが思い出すための / 記憶の中の海辺』を、あなたはどう聴いただろうか。ほら、ランタンパレードを意地悪だと上に書いたように、わたしだって意地悪じゃないか。

そうは言っても、聴いているとほんとうに穏やかな気持ちになるアルバムだ。楽曲にはインストゥルメンタル部分の比重が大きく、一曲の中に感情の機微や移ろいはあまり介在しない。感情が移ろう前に、ビートは鳴りやんでしまう。本作は二部構成で、1〜7が『あなたが思い出すための』、8〜19が『記憶の中の海辺』だそう。特に『記憶の中の海辺』では、楽曲が2分前後で突然鳴りやんでしまう傾向が顕著である。まるで、記憶の断片をつかみきれず見失ってしまったように。本作はタイトル通り、記憶についてのアルバムだ。聴き手の写し鏡として作用するのも、音楽にあなたの記憶を掘り起こす要素があるからだ。

上に挙げたようなかなり印象的なラインの中には、歌詞を正確に聞き取れない箇所がある。清水が自分の記憶を少しずつ溜めていったのがこのアルバムだとすれば、言葉に不明確で曖昧な部分があるのは当然のことである。そもそも独り言に正確さは必要ないし、わたしにとって重要な悩みをあなたに正確に伝えることもきっとできない。

『あなたが思い出すための / 記憶の中の海辺』では、前作『love is the mystery』のバンドサウンドはすっかり後退しており、代わりにヒップホップ〜ジャズの色合いが濃くなっている。中には70年代ビージーズばりのディスコあり(「煽情」)、カリブーばりのUKハウスあり(「私有」)と、様々な変奏も聴かれる。しかし全編を通してフィルターのかかったように淡さのある音像や、レコードやラジオのようなグリッチノイズは、SAINT PEPSIやTsudio Studioとは別の形で、また昔の記憶/記録を無理やりわたしたちに傍受させるだろう。

こんなふうにランタンパレードはいろいろな手段を使って、彼自身やわたしたちの記憶へのアプローチを試みる。清水の、露悪に満ちた言葉を聞いていると、皮肉や嫌味によって失った友人の記憶を思い出したりもする。むろん皮肉や嫌味なんてものは友人間にとどめておく分にはまだ安全で、ましてや社会的パーソナル・スペースの外部へと投げかけていくのはとても無謀なことである。ソーシャルメディアではユーモアの欠如した間抜けが次に袋叩きにする標的を探しているし、かつてあなたが愛した誰かだって無自覚な暴力性を持っていたことを思い出せ。いや、そもそもユーモラスかどうかを決めるのは受け手であって、そうじゃなかったら世の中にハラスメントは存在しないわけですよ。それはわかっている……脱線した。でも10年前の今ごろ、こんなにもわたしやみんなはなにかを発言することに怯えを感じていただろうかと、たまに思う。さいわい、誰かを袋叩きにしようとするカジュアル暴漢はここに書いてある文章を読もうともしないし、それはインディペンデントな音楽や映画についても言えることだろう。

「気休めでない言葉でも探そう」(「薄明かりの中で 」)、「高尚なものにしようとしないのさ」(「すてきな宵に すてきに薫る」)。うんうん。彼やわたしはこれからも隣人を愛するために、正直な言葉の投壜通信を、必ず誰かは傷つけるとわかっていながら投げかけ続けないと生きていけないね。たまに破壊光線を吐かないと暴走してしまうゴジラみたいに。あなたが思い出すための。わたしが思い出すための、言葉そして音楽。大切なのは忘れたり、なかったことにしないことだよ。もう少しめげずに頑張ってみよう。(髙橋翔哉)

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