ラヴソングのためのラヴソング
2003年からソロ・シンガーとしてのキャリアがあり、今はレイク・ストリート・ダイヴのメイン・ヴォーカリストとして活動するレイチェル・プライスがニューイングランド音楽院時代の学友ヴィルレイ・ブレア・ボールズと2015年にはじめたデュオ、レイチェル&ヴィルレイ。彼らの2019年の初作を聴いたときに思ったのは、これだけノスタルジックなアメリカン・ポピュラー・ミュージックのスタイルに取り組みながらも、趣味性があまり感じられないということだった。強い趣味性をまとった懐古は時として厭世や異議の表明になり得る。かつてジョージ・メリーが英国のポップ・カルチャーについて述べた「反逆から様式へ」の瞬間的な逆パターンとして、ある様式に強烈に特化することが世への反逆として機能することは今までに何度もあった(レイチェルとヴィルレイが生まれた頃に東京で興ったネオGSなどは忘れがたいその一例)。しかし彼らの場合は愛する20世紀前半から半ばにかけての米国大衆音楽の大前提である「主役はあくまでも楽曲」ということを当然のように踏襲しているので、その表現からはスタイルや意図ではなく、ソングそのものの魅力がダイレクトに伝わってくる。そして多くの人々の耳に届き、唇に愛されてきたかつてのエンタテインメントとしての歌の在り方にも間違いなく影響されているはずで、彼らの音楽に常に溢れている、聴き手を選ばない親密でオープンマインドな雰囲気がスタイルへのこだわりを良い意味で見えにくくしているのだ。
ヴィルレイのソングライティングはこのセカンド・アルバムでも文句なしに冴えている。私的な心情の吐露ではなく、曲中に人物を登場させて、やるせない想いを語らせていく。メロディやコード進行の妙、押韻やパーカッシヴな子音の配置といった様々な技巧を凝らしながら、あくまで軽妙洒脱に、皮肉やユーモアもたっぷりと込めて。
「Just Two」を聴いてみよう。
ヴィルレイ自身のライナーノーツにあるように、この曲のメロディはほぼ2音節の連なりだけで構成されている。それを2人の歌手がドリーミーなアレンジに包まれながら(イントロのピアノのワン・ノートもたまらなく愛おしい)、同時に2音ずつ歌っていく。歌われるのは恋人2人だけの世界。さらに歌詞はこのように……。
Of all
The lips
I know
I’ve kissed
I can
Recall
Just two.
(略)
In all
The world
No boy
And girl
In love
As just
We two.
一行に2語ずつ表記されている。パーフェクト!
こうしたヴィルレイ楽曲にとっての最高のインタープリターをレイチェルは余裕をもって務めている。テクニックを感じさせないほどの歌の巧さとディクションという言葉を使いたくなるような発声の良さ。意味よりも先に発音が耳に心地よくてたまらない。彼女は10歳の頃からエラ・フィッツジェラルドの完コピをしていたという恐るべき歌い手なのだ。
今作の録音はLAにて行われ、鍵盤のラリー・ゴールディングスを含む腕利きのミュージシャンたちが参加し、ホーン4管が加わった9人編成による小規模のビッグバンド・スタイルを実践している。ジェイコブ・ジマーマンによるホーンを含めた編曲の素晴らしさは特筆すべきもの。声と楽器の鳴りや曲全体の音質への気遣いも見事で、ヴィンテージ録音をレファレンスにしつつも、あくまでフラットに接することのできるポピュラー・ミュージックとして今の世に出したいという作り手の意志が感じられる音に仕上がっている。このあたりは録音やミックスを担当したプロデューサー、ダン・ノブラーの手腕だろう。
アルバム・タイトルの『I Love A Love Song!』はヴィルレイが魅惑的なクルーナー唱法を披露する曲「A Love Song, Played Slow」の歌詞から取られているが、トートロジー的な表現のこの一節がそのまま彼らの音楽に対する意識や態度を表しているように思える。ヴィルレイは「『音楽が好きだ』という音楽」を作っている。往年のアメリカン・スタンダード・ラヴソングへのラヴレター・ソングとでも言えるだろうか。彼のラヴソングは常にそういった二重の意味が込められているように感じられる。
前作のコーヒーハウスが似合うデュオから今作でのボールルームに登場するダンスバンドのスタイルへ。となれば次作はやはりウィズ・ストリングスを期待したい。ヴィルレイの頭の中には、すでに様々なアイデアが渦巻いているはずだ。所属レーベル《Nonesuch》にはぜひ妥協のない経費の予算計上をお願いしたい。すべてはソングのために。(橋口史人)