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Mustard: Faith Of A Mustard Seed

2024 / 10 Summers / BMG
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路上から明かりを奪わせないために

29 September 2024 | By Tatsuki Ichikawa

今の町に住んで2年の月日が流れたが、最近、家までの帰り道の通りは、右を見ても工事、左を見ても工事、といった具合に、次々に高層マンションが建てられていく。天井は高く高く積まれていき、手の届かなそうなところに明かりがつく。その向かいには、居酒屋や雀荘、ガールズバーやスナックなどが並んでいる。その通りの居酒屋の店員の話だと、人が住み始め、近隣から苦情が来るということで、立ち並ぶバーやスナックのカラオケ設備が取り除かれてきているらしい。確かに、私はこの町で生まれ育ったわけでもないし、仕事帰りのオヤジの、酔っ払った歌声が聞こえなくなること自体は、そこまで大したことではないかもしれない。

いや、でもそうやって店の明かりの中から夜な夜な響き漏れるオヤジの歌声が通りから消えることは何かの手始めなのではないだろうか。それは例えば、公園が潰され、子供達の遊ぶ声が町から消えること(幸い、私のアパートの周りの公園は今のところ無事で、週末には元気に遊ぶ子供達の声が外から聞こえる)とも関係しているはずだし、それは酔っ払い道に倒れて上を見た時に、灯りが手の届かない場所でついていることとも、決して無関係ではないはずなのだ。そういえば、引っ越してきたばかりの時に少しの間通っていたラーメン屋はとっくになくなって、今ではその一区画もマンションの建設予定地として旗が立てられている。いずれ、酔いどれオヤジの歌声同様、深夜の通りを彩る幾つかの明かりも消されていくのだろうか。明かりがどんどん高いところに位置していくのを横目に、自分の中に得も言われぬ不安が宿っていくのを確かに感じる。

2024年のテーマはローカルだ。いや、2024年と言わず全てのひとが持ち続けていいテーマだろう。この社会で生活していれば、他人のことや場所を思いやる心を忘れてしまったとしても無理はないかもしれない。だが、それらが時に何倍も力強くその連帯を発揮することは忘れてはいけないし、そういうことを思い出させてくれるのも表現物の役割だったのではないだろうか(だから今日も大切なことを忘れないために音楽や映画に浸る)。肥大化した産業と加速主義を前にして、そこに留まり生活を、連帯を、熱狂を、光を見つめる。ヒップホップはいまや“売れる音楽”だが、数字を稼ぎ、ブランド品を着飾り、自分のモノのデカさを自慢するように「俺は稼いでいる」と言い張ることなんかよりも、そのことにこそ価値があったはずなのだ。

例えば、数字を稼いだケンドリック・ラマー「Not Like Us」が見せつけたヒップホップのローカル性は強烈だった。ケンドリック・ラマーとドレイクによる苛烈なビーフの中で、一発の大砲弾として撃ち込まれたこの楽曲は、今や2024年を代表するビッグ・アンセムになり(この経緯については塚田桂子さんによる素晴らしいコラムが参考になるのでぜひ)、様々な場所で象徴的に流されている。6月にケンドリックがLAで行ったイベント《The Pop Out: Ken & Friends》のパフォーマンスは、地元の団結、そして、どこにいても同郷のために、地元のために帰ってくるという繋がりを見せつけ、(これは勝敗の話ではなく)今回のケンドリックとドレイクのビーフがローカル性と商業性の戦いでもあったという側面を何よりも明確にした。

今年のもう一つのヒップホップ・アンセムである千葉雄喜「チーム友達」だって、“友達”という身近でカジュアルな人間関係を表す言葉を、“チーム”という内的な枠組みに括っていることでローカル性が強調されている。それはインターネット的にすべての人が繋がる(ことで不用意な争いだって大いに起こりうる)こととは真逆の身内性に溢れる。アルバム『チーム友達 (The Remixes)』は、まさに点在するローカルを一枚に収めた作品だった。

これらのローカルは、外部からここぞとばかりに利益を得ようとやってくるものや、相反する価値観の間で、自分たちから何かを奪おうとするものを決して歓迎しないはずだ。そういう甘くない排他性も持ち合わせている。その場所の人間ならばその場所の利益を、自由を、人々を尊重し、支え合う。奪うのではなく、与え合う。そうでない奴の側には立たない。

「Not Like Us」のトラックを作ったLA出身のマスタードによるニュー・アルバム『Faith Of A Mustard Seed』は、自らのローカルの物語をエモーショナルに綴った傑作だと思う。その様相は、例えば前作『Perfect Ten』(2019年)と比べても、よりゴージャスだが、よりパーソナルでもある。

まずはアルバムの構造から。カーク・フランクリンが客演する「Show Me the Way」から始まる本作は、ゴスペルのループ・トラックに乗った独白が10分間に及び続く「Pray For Me」で幕を閉じることで、祈りのテーマを一貫(または一周)させる。

信念を奪われるな、という言葉で一曲目を締めくくり、そこから前半では、様々なものが奪われていくハードな現実の語り部として、42 Duggやヴィンス・ステイプルズ、スクール・ボーイ・Qらが登場する。トラヴィス・スコットが登場する「Parking Lot」とその次に連なるスキット「7 to 7」を転換点として、作品はメロウな展開を見せていく。タイ・ダラー・サインやチャーリー・ウィルソン、エラ・メイらが登場し、艶やかなラヴソングを歌い上げる。クライマックス手前の「Ghetto」ではヤング・サグとリル・ダークが登場し、ゲットーのハードな現実を再び歌いながら、ローカルの助け合い、サポートについて詩情たっぷりに歌う──俺がお前の手助けをするのは、お前を金持ちにするためではなく、お前が他の誰かを手助けできるようにするためなんだ──。そして、最終曲「Pray For Me」で、自らの幼少期の記憶を語りながら、家族や参加アーティストなど、様々な人々に対して祈りが捧げられる。ローカルは祈りを与えられ、これでアルバムは一周する。

全体を彩る、ストリングスの強調やソウル・ミュージックからの声ネタのサンプリングは、作品を甘美な色に仕上げる。そのサウンドには、エラ・メイやティナーシェなどのR&Bシンガーの代表曲の数々や、ロディ・リッチと組んだ「High Fashion」や「Ballin’」における精細なサンプリング・トラックなど、そのメロウな感触のマスタードの過去仕事を思い起こさせるような“記憶”も当然のように散らばっているし、同時に、「Song For Mom」のサンプル元が、彼の母親が好きだったというマーヴィン・ゲイ&タミー・テレル「If This World Were Mine」であることなど、マスタード自身のパーソナルな“記憶”が散らばっていることも見逃せない。

ハードな一方で、ストリートの物語を甘美と鮮やかさで綴る本作が持ち合わせている叙情は、まるでバリー・ジェンキンスやショーン・ベイカーの映画が、決してクリーンな場所ではない場所や路上をポエティックに捉えることと、似たような感覚すらある。

つまり、このアルバムは“奪われていく現実”を時折ギャングの視点で捉えながら、路上がロマンチックな灯りに照らされていることも映し出す。これは本当に大切なことだと思う。幼少期の記憶や恋愛のロマンと、格差や暴力が同じ地平線に存在すること。マスタードは自らのローカルを様々な角度から接写し、複数の感情を引き出すことにアルバムを通して成功している。

そこには新自由主義の虚しさも横たわっているはずだし、その中で生きることの苦さも内包している。例えば、今までセレブなライフスタイルをラップしてきたフューチャーは「Mine」というラヴソングで、愛する人を手に入れるために、高級車やブランド品など、何もかもを手に入れ、与えようとする願望を儚く歌う。貧困にしろ、恋愛にしろ、奪われることと手に入れることの厳しさを時折挿入しながら、アルバムはローカルに立ち返ること、サポートすること、そして与え合うことの重要性を説く。そのために(まるで「Truth Is」にてロディ・リッチが歌うハイビームの如く)路上に明かりを照らす。

『Faith Of A Mustard Seed』は、数字と偽善に塗れた世界で何をすべきか、どこにロマンの可能性があるのかを、メインストリームの中からローカルに立ち返り、追い求めた作品である。マスタードの音楽的な成熟の中に、聴くべき主張、見るべき明かりが確かに備わっている。

資本主義にどっぷり浸かった世界は、そんなに甘くはないだろう。奪われるかも、という不安は常に付き纏う。だから、せめて、いざという時にクソの側に立たないためにも、路上の物語を、通りに灯っているその明かりを、しっかりとこの目に焼き付けておこう。(市川タツキ)

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 ケンドリック・ラマーによるディス・ソング「Not Like Us」が歴史的1曲になるまで
http://turntokyo.com/features/not-like-us-kendrick-lamar/

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