かつてないほどの「素の姿」
ジギー・スターダストを名乗ったデヴィッド・ボウイがディスコやドラムンベースを経由し、ジャズと共に黒い星となったように。あるいは細野晴臣がある時はエキゾチカ、ある時はトランス/アンビエントに傾倒し、近年はアメリカーナを追求しているように。創造性に富んだアーティストのキャリアには、作風、志向、活動形態によって区切られたいくつかのピリオドが存在する。
コーネリアスこと小山田圭吾の30年以上におよぶ輝かしいキャリアもまた、数多くのピリオドで区切ることができる。フリッパーズ・ギターから『The First Question Award』(1994年)までの、日本のメイン・ストリームの真ん中で海外インディー・ミュージックと共振したキャリア初期。90年代の東京・渋谷の絢爛をコラージュを駆使して総括した『69/96』(1995年)、『FANTASMA』(1997年)。そして脳内の閃きと好奇心の隆起そのものを音と映像で具現化した『Point』(2001年)、『Sensuous』(2006年)。そして坂本慎太郎という盟友を得て日本語による歌と禅的な世界へと踏み込んだ『Mellow Waves』(2017年)。
こうした変遷は、先人たちと同じく、小山田自身のアーティストとしての主体性に基づく変化や成熟の結果である。しかし6年ぶりとなるニュー・アルバム『夢中夢-Dream In Dream-』は、本人の意思とは関係なく、あるピリオドの境界線上に置かれることを宿命づけられた作品と言わざるを得ない。線が引かれた地点は言うまでもなく2021年7月。小山田圭吾という一人のアーティストの実像を超えたあの狂騒についてここでは踏み込まない。だが社会的にはもちろん、おそらくは身体的な生存をも脅かしたであろう重大な事象を経て、コーネリアスの表現がどう変わったのかという視線から逃れることは難しいだろう。
しかし、あの騒動の真っ只中である2021年7月に行われたMETAFIVEの無観客ライヴ、活動再開後のフジロック、ソニック・マニアなどのライヴ・パフォーマンスを通じて彼が私たちに示したものは、巨大なパブリック・プレッシャーにも折れない強靭なプロフェッショナリズムと、どこまでも真摯なミュージシャンシップに他ならない。その姿を目の当たりにし、心を強く動かされたファンの一人として、レコーディング・スタジオの外側で起きた出来事とこの作品を安易に結びつけたくはない。そう思いながらこのアルバムを聴き始めた。
が、それがどこからもたらされたものかはいったん置いておいたとしても、この作品はこれまでの小山田が一貫して回避してきた領域に足を踏み入れていることは認めざるを得ない。
全10曲、インストと歌モノの割合は約半分ずつ。静謐なギターとアンビエント・ミュージックを基調としたサウンド。今作の外形を俯瞰すれば、前作『Mellow Waves』の延長線上にあるようにも思える。しかしここには、かつてのコーネリアス作品において不可欠だった、諧謔性の高い目配せや宇宙空間を顕微鏡で覗きこむような無邪気な実験精神はほとんど存在しない。その代わりに浮かび上がってきたのは、ポツンとした一人の男性の肉体と魂である。
そもそも小山田圭吾/コーネリアスの表現は一貫して、アーティストとオーディエンスの役割を厳格に分けた上で、完全にパッケージされた完成品として提供されてきた。
例えば2010年代以降のインディーシーンを牽引するceroが絶えず作風を変えながらも、オーディエンスの存在を大きな物語に取り込んでいるあり様や、小山田とほぼ同時代を生き抜いてきたサニーデイ・サービスがロック・バンドとしての生き様をさらけ出し、ドキュメンタリーの中にファンを巻き込んでいく姿とは対照的である。細部に至るまで綿密にデザインされた作品を寡黙に届け、その力だけをもってオーディエンスを驚かせる。このやり方こそが、小山田圭吾の矜持であり、シャイネスからくる絶対的な額縁だったのだろう。
しかしアルバム冒頭を飾る、2021年7月にオリジナル・ヴァージョンがリリースされた「変わる消える」と続く「火花」の暗示的な歌詞と、まるで小山田が耳元で歌っているかのような生々しいヴォーカル。さらに高橋幸宏の姿を感傷と共に思い出さずにはいられないMETAFIVEの「環境と心理」のセルフ・カヴァー。この前半の3曲をもって、ついにコーネリアスの楽曲はリアルな肉体性を伴って額縁から飛び出した。そしてスタジオの外の光景、つまり社会というものと結びつきながら、リスナーの感情をダイレクトに刺激する。これこそが本作最大の驚きであり、新たなピリオドの到来を感じさせるポイントだろう。この変化に至った彼の心中を想像すると胸が締め付けられるが、結局のところ、心の中に残るのは、聴き手が感情を預けたくなるメロディーと甘く柔らかいコーラス、それらを最も効果的に鳴らすべく設計されたサウンド・プロダクション。つまり音楽家・小山田圭吾が才能と経験、技術を注ぎ込んで作り出した楽曲そのものに他ならない。もしこれらの曲たちが騒がしいサイドストーリーが存在しない世界で聴かれたとしても、研ぎ澄まされた音楽的要素と普遍的な歌詞が、今・ここで聴かれた時と同じだけの光を放つということは断言できる。
このアルバムは、上述した3曲のように、現実の世界と接触し、摩擦熱を放つポップ・ソングが配されている前半と、『夢中夢』というタイトルそのままに、聴き手をもう一つの世界に引きずりこむような、緩やかで抗いがたい重力の存在を感じさせる後半、LPで言えばA面とB面で、その表情が大きく変わる。
6曲目に収録された「Night Heron」の重い足音のようなベース、探査機の機械音のようなプリミティヴなシンセサイザー音。続く「蜃気楼」の不可逆的に進む時の流れを小さな窓から眺めるようなグルーヴは、海底へと潜行する小型艇に乗っているような感覚をもたらす。
これまでのコーネリアスが作りだしてきたアブストラクト・サウンドは、あたかも宇宙空間に向かって広がっていくような、重力から解放された奔放な驚きに溢れていたが、今作はフレーズの配置、残響と定位のコントロールによって、面的には狭く、より深度を増した音の世界が広がっている。その外界と隔絶した空間の中で、自らの中へ深く潜り込んでいく音像は、ニューエイジ・リバイバルに連なるものとして受け取ることも可能だ。だが、
“現実 軌道修正 綺麗な結末が 来ればいいのに”
といった希死念慮すら感じさせる言葉がそれを許さない。これはスタイルやジャンル、一定のフォーマットありきの音ではなく、極めて切実で、極めてパーソナルな無意識と意識のあわいの記録として受け止めるべき楽曲だろう。近年の作品で言えば、新型コロナウィルス感染による隔離の下で録音された曽我部恵一『Memories & Remedies』(2022年)、あるいは坂本龍一が闘病中の日記代わりにスケッチしたという『12』(2023年)にも通じる、音楽家による自己治癒のための音楽と言ってもいいのかもしれない。
その深く長い潜水の果てに行き着いた世界は、電子音と生楽器と生の声が光合成するように混じり合うチェンバー・ミュージック「Drifts」と、もはや言葉すら存在しない「霧中夢」の胎内のように穏やかなシェルター。ようやく訪れた安眠、夢の中の夢の世界。
このあまりにも美しい着地に、ここをアルバムの終着点とすることも可能だったようにも思うのだが、そうはならなかった。
“地水火風空 諸行無常 始まり 終わり 繋がり 巡り”
と、宇宙の成り立ちや万物の循環を確かな体温を感じさせるメロディに乗せて歌う「無常の世界」を最後に置いたのは、「現実→夢→現実」という円環をアルバムの中で完成させようというストーリーテラーとしての意思なのだろう。そしてタイトルとは裏腹に、エモーショナルなメロディとギター、どことなく高橋幸宏のプレイを彷彿とさせるフィルインからは、現実を飲み込んでもう一度シーンに戻っていこうという決意のようにも響く。
このアルバムがこれからのコーネリアスのキャリアにおいてどう位置づけられるかはまだ分からない。しかしかつてないほど「素の姿」を露わにしたことで、ソングライター、サウンド・プロデューサー、そしてシンガーとしての、全方位的な力量を改めて認識させる一枚となった。そしてフリッパーズ・ギターを初めて聴いてから30年以上の時間が経ち、こんな感想を小山田圭吾の作品に対して抱く日が来るとは思っていなかったが、この作品を通じて描かれた一人の人間の再生のプロセスは、彼自身のみならず、このアルバムを手にした誰かを救うことになる。社会の中に生きる命に直結する力を持つアルバムだ。(ドリーミー刑事)