不器用で武骨な愛
ポストパンクの炎は青白くダブリンで燃えていた。暗くロマンティックな衝動の炎は他者の心に映し出されそうして広がる。あるいはその過程を見て人はシーンと呼ぶのかも知れない。18、19年サウスロンドンのウィンドミル・シーンが盛り上がる中、ザ・マーダー・キャピタルはフォンテインズD.C.と共にアイルランドの首都ダブリンから現れた。最初のシングルが出る少し前の「More Is Less」のセッション(ブラック・ミディのNTSセッションもそうだがこの時代のバンドは曲よりも先に映像が出るというのが流儀だった) を見て僕はサウスロンドンのバンドよりもその前のコペンハーゲン・シーンのアイスエイジのような爆発するエネルギーを感じた。そして同時にYouTubeのコメント欄にあったアイドルズのワナビーだろという誰かの言葉は間違っていると思った。なぜならアイドルズよりももっとダークでロマンティックな感情を抱えていたからだ。それよりかはずっとフォンテインズD.C.、そしてシェイムに近い。契約の為に何度もロンドンと行き来したとバンドが語っているように、この時期のダブリンのバンドはサウスロンドンのインディー・シーンの拡大解釈だと言ってもいいような側面があったのかもしれない。しかしそれすらも少し異なる。接続されるが違うもの、次から次へと現れる将来を期待されるポストパンク・バンドの中でザ・マーダー・キャピタルは暗く輝く自らの存在を世に問うたのだ。
彼らのファースト・アルバム『When I Have Fears』(2019年)はジョイ・ディヴィジョンの名が引き合いに出されインディー・ロック・ファンを中心に確固たる評価を得た(そこでライヴが凄いらしいという話を何度も聞いた)。そのあとパンデミックが起き、ライヴができなくなった時期を経てのセカンド・アルバム『Gigi’s Recovery』(2023年)で質感の凄みを増した。ポストパンクの枠を超え、電子音が散りばめられたサウンドはより内省的になり、自身の内側にある宇宙を表現したかのように響いたのだ。
そしてそこからこの3枚目のアルバムに繋がる。インタヴューによるとパンデミックによってできた時間でアレンジを練り上げて収録に臨んだセカンド・アルバムの路線を離れ、もう一度ファースト・アルバムのような衝動を持ったアルバムを作ろうとしたのだという。セカンド・アルバムと同じプロデューサー、セイント・ヴィンセントなどを手がけたジョン・コングルトンの元、その時とは違うやり方でアルバムの制作に臨む。彼らは正式なデモを作らずスタジオでの変化を受け入れられる余白を作った。狙いは丹念に編み上げた叙情詩のような形ではなく、もっとエネルギーをダイレクトに伝えること。それは熱くうごめく観客の前で再びライヴを重ねる日々を経ての気付きだったのかもしれない。
そうして、再生ボタンを押した瞬間にうなりをあげるザ・マーダー・キャピタルの音楽が目の前に現れる。フィードバックのノイズの向こうで低く沈み込むヴォーカル、むせび泣くギター、手数の多いドラムにベース、否が応にも胸が高鳴る。「Moonshot」は狂おしいほどの熱を帯びたこのアルバムの完璧なオープニング・トラックだ。だが決して衝動だけの音楽ではない。アレンジの端々でセカンド・アルバムで培ったテクニックや内省のフィーリングが顔を覗かせ一本調子にさせることはない。たとえば「Can’t Pretend To Know」ではファースト・アルバムの延長線上にあるアートロックのエネルギーの中に入り込む鍵盤の音がクライムサスペンス映画の劇伴のようなフィーリングを振りかけるのだ。ともすれば安っぽいメロドラマになったかもしれないが、不器用な艶を持ったジェイムズ・マクガヴァンの低いヴォーカルとシーンを切り裂くようなギターがそうではない感情を連れて来る。2枚目を経ての1枚目、このサード・アルバムのザ・マーダー・キャピタルは理想的にその針を戻し、そうして進めた。それは「Love Of Country」や「Swallow」などのスローに落とされた曲により顕著に現れている。抑え込まれたノイズに抑え込まれたヴォーカル、その抑制された衝動は痛みと熱を伴って炎の中に返っていく。
それは武骨で、ロマンティックで、優しく、悲しい愛に溢れている。『Blindness』の音楽は痛みと衝動のその先にある感情を掴み取ろうとしているように僕には思える。衝動が誰かの心にまた衝動を生み出す。そうやってこの火は瞳の中に映し出されていくのだ。(Casanova.S)
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【REVIEW】
The Murder Capital 『Gigi’s Recovery』
https://turntokyo.com/reviews/gigis-recovery/