今、ここの世界を生きていくために
ceroのサポートなどでも知られるシンガー・ソングライター、古川麦が4年ぶり3枚目のフル・アルバムをリリース。今年の夏が本気を出し始めたある昼下がりに、この作品を聴きながら家の近くを歩いてみた。際限なく上昇する気温を諭すような「Angel」のギター、高い湿度の中に潜んでいる悦楽を見出していくような「Ritual」のコーラス。どうしようもない熱気にまとわりつかれる身体とは対照的に、心はひたひたと清涼感に満たされていく。そして住宅街を抜けて川辺にたどり着いた時には角銅真実が歌う、精錬されたブラジルの香り豊かな「Why」が流れていた。対岸から吹いてくる風が汗ばんだ肌に触れた瞬間、この音楽が細胞の一つひとつにまで沁み込んでくるような感覚を覚えた。ピアノは川面に輝く陽光と、ギターとベースは岸辺で遊ぶ鳥たちと、ストリングスとコーラスは穏やかにそよぐ草木と、完全に接続されてしまったのである。見慣れた平凡な景色が印象派の絵画のように彩度を高めていくのを感じ、私はしばしその場に立ち尽くしてしまった。大きな美しさの中に包み込まれている、というスピリチュアル体験一歩手前のような状態になってしまったのだ。これはきっと、古川自身によるギターと千葉広樹のベース、田中佑司のドラムを中心とするたおやかなアンサンブルが、自然の摂理や人間の生理に完全に調和し一致するほどまで、精緻かつ丹念に練り上げられたということなのだろう。
しかしこのアルバムの素晴らしいところは、この稀有な美しさが、ただ美しくあることを目的に存在しているのではなく、今の現実を生きる私たち聴き手の存在を意識し、語りかけるために作り上げられている点にある。
本作のアルバムの核を成すのは、2020年に配信されたEP『each night, each morning』(から2曲が本作に収録)を始めとするパンデミック下でリリースされた楽曲たち。その中心に据えられているのは、2020年6月のインタビューで語られているように、開かれたメロディーとてらいのないまっすぐな歌。特に「見つからなかった」「Ritual」などはヒットチャートの真ん中で鳴らされても多くの人を惹きつけるほどの強い訴求力と親密感がある。そして歌詞に目を向けてみても、他者との関係から生まれる喜びや葛藤、コロナ以降の空白感が示唆され、この歌が今、ここの世界を生きていくために書かれたものであることが伝わってくる。また「Weep」でフィーチャーされたラップや、曾稔文(DSPS)をゲストに迎えた「Town of Light」のファンキーなリズムの向こう側にも、都市のざわめきとそこに生きる人々の営みが存在することを感じられるのである。
抽象芸術としての高みを真摯に追い求めながら、多くの人々に愛され口ずさまれるというポップ・ソング本来の役割もまっとうしたこの作品。2022年屈指の傑作と言いきってしまいたい。(ドリーミー刑事)
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【INTERVIEW】
物語のある歌が聞こえる〜古川麦のSSWとしての身体性〜
http://turntokyo.com/features/furukawa-baku-interview/