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【未来は懐かしい】Vol.15
「周縁」から再構築するラテン・ミュージック
「和レアリック」名盤『トゥデイズ・ラテン・プロジェクト』を聴く

16 November 2020 | By Yuji Shibasaki

ここ最近の和モノブームを牽引する「和レアリック」。昨年にはele-king booksから『和レアリック・ディスクガイド』が刊行され、あの作品もこのレコードも「和レアリック」というキーワードのもとで今日的な魅力が見いだされるようになっている。今回紹介するToday’s Latin Project(トゥデイズ・ラテン・プロジェクト)による83年作も、この流れの中でCD再発に至った一枚だ。

ラテン・ミュージックの日本への浸透史を振り返ると、その起点は1931年のドン・アスピアス&ハバナ・カシーノ・オーケストラによる「南京豆売り」の国内リリースに求めることが出来る。その後もレクオーナ・キューバン・ボーイズ、リコス・クレオール・バンド、ザビア・クガート楽団などによるルンバのSPが国内発売されるなど、地道な人気を保っていったものの、本格的な流行ということでいうと、戦後、よりきらびやかに進化したサウンドが隆盛を極める50年代を待たねばならなかった。発端となったのはザビア・クガート楽団とペレス・プラード楽団によるマンボのレコードだ。53年と56年にその立役者たちが来日すると、ラテン・ブームは更に盛り上がり、まさに大衆的な支持を得ていくのだった。もちろん国内にもそうしたフレッシュなラテン・ミュージックを演奏する楽団が多数生まれ、中でも1949年に結成を遡る東京キューバン・ボーイズ(以下TCB)こそは、そういった状況を国内から盛り上げた最重要の存在だった。様々な娯楽文化の写し鏡ともいえる当時の日本産映画を観ると、パーラーやキャバレーで演奏するラテン楽団の姿を多く確認できるし、1953年の初出演以来TCBの主要な活動の場に労働者向け鑑賞団体である大阪労音主催のコンサートがあったことに鑑みると、いかにラテン・ミュージックが広く大衆から愛されていたかがわかる。

しかし、その後60年代末ころから、洋楽受容において徐々にロックなどの英米産ポップ・ミュージックの覇権が大きくなっていくことなどと連動し、日本ではラテン・ミュージックは冬の時代を経験することなる。もちろん、ラテン・ロックをはじめニューヨーク・サルサやディスコ文化と結びついたサルソウル系の米国での興隆、あるいはもっと局地的にはハイチのコンパなどが取り沙汰されたこともあったし、国内でも例えば松岡直也らの華々しい活躍があったり、その受容が完全に遮断されたわけではないが、かつてのように大衆的メイン・ジャンルとして復権することはなかった。つまり、「洋楽内の周縁」的存在として弁別されてしまったわけだ(これはおそらく現在に渡るまでそうだろう)。

この『Today’s Latin Project』は、そうした「日本におけるラテン・ミュージックの周縁化」の後しばらくしてから(1980年には第一期TCBの解散という象徴的出来事もあった)企画されたレコードだ。プロデュースを努めたのはTCBのリーダー見砂直照と、ラテン・ミュージックの啓蒙に尽力し続けてきた音楽ジャーナリストの竹村淳。ラテン界のドンと名番頭の陣頭指揮のもと多くの手練ミュージシャンが集められ数々の名曲がカヴァー・レパートリーに上げられたが、ラテン・ミュージックに今日的生命力を賦活せんとするこの企画の本懐としては、なによりも新規アレンジメントが最重要視されているふうだ。TCBの編曲を努めた経験もあるベテラン植原路雄と、ドラマ『俺たちは天使だ!』や『探偵物語』の音楽でもおなじみのSHOGUNの元メンバー大谷和夫がアレンジを分け合ったオリジナル・アナログ盤A面にあたる①〜④は、当時流行していたフュージョン・マナーの横溢するごく実直なもので、その演奏クオリティーの高さをとってもみても、なかなかの聴きものとなっている。

しかし、現在の視点からより重要なのは、オリジナルB面収録の⑤〜⑧だろう。これらのアレンジを担当したのは当時マライアを中心に活動し、客演や編曲を通じて各所にその先鋭的な音楽センスを刻みつけていた鬼才サックス奏者、清水靖晃だ。同時期にリリースされたマライアの『うたかたの日々』(1983年)やソロ名義での『案山子』(1982年)が近年世界的な再評価を集め一躍人気盤化したことを知る読者も多いであろうが、彼には、このトゥデイズ・ラテン・プロジェクトのような外部仕事にも非常に優れたものが多い。

清水のアレンジメントを特徴づけているものを端的にいうなら、(当時の)最新機器と先端的感性を駆使した、アヴァンギャルドかつある種ポスト・パンク的な方法論だろう。ラテン・リズムの躍動を解体/再構築し、シンセサイザーの未来的音色とオーセンティックなブラス・アンサンブルをゴツゴツと整合したような⑤「Hindu」のスリル。レゲエ〜ダブや、ビル・ラズウェルら当時のニューヨーク・アンダーグラウンド・シーンの先鋭性にイージーリスニング調ラテンの甘さをいびつに鋳込む⑥「Danza Lucumi」。のちの<マーク・リーボウと偽キューバ人>によるアプローチを思わせるオルタナティブ・エキゾ⑦「Quiereme Muscho」。これぞ清水節というべき鋭角的な電子音と痙攣的リズムが融合し、リキッド・リキッドやコンク、ピッグバックなどとの共振を強烈に感じさせつつより汎世界的な志向を織り込んだ清水オリジナルの⑧「Pygmy Land」。そのどれもが、まさしく「和レアリック」の芯部をヒットする名演揃いだ。

こうした清水サイドの成果は、いかにも突然変異的に聴こえる一方で、上述の通り同時代の先端的な海外シーンの動向とも密接な連関性を感じさせるものでもある。欧米において「ロックの後」を志向した新しい担い手達にとって、おそらくラテン・ミュージックは(自明的に彼らを取り囲んできたロック・ミュージックに内在化されているブルース等のエッセンスよりもむしろ)明示的に周縁的なもの(=アクセスしやすい周縁)であって、その「オルタナティブ」の実践においては、その周縁性こそが援用されたということなのかもしれない(御存知の通り、より大々的に援用されたのが、広義のラテン音楽へ含めることの出来るレゲエ〜ダブだったわけだが)。その援用的手法の源流を探るなら、レス・バクスターやマーティン・デニーらによる「エキゾチック・サウンド」にまで遡るべき話であろうが、ポスト・ロックの時代にその周縁性に再度回帰しようとしたアーティストが多かったというのは、非常に興味をそそる話だ。ニューヨークのオーガスト・ダーネル(キッド・クレオール)と彼が率いた脱ジャンル的で多民族的なグループが人気を博したのもこの時期で、オルタナティブな視点からのラテン・ミュージックの再解釈が様々な形で表層化していたとみることができる。

もちろん、この「周縁性の援用」という事態は、エキゾチシズムやオリエンタリズム批判、文化収奪批判の文脈からいって、ポリティカリーに正しい振る舞いだったかというのは厳しく振り返られなければいけないものだろう。しかしながら一方で、ラテン・ミュージックの受容史と発展史を見ていくと、逐一英米などの「中心」産音楽との相克的影響関係が存在し、それが新たな音楽的果実を産み落としてきたことも事実ではある。とするなら、この相克的関係の中にあっても粘り強く脈動しつづけてきたラテン・ミュージックの本来的伝播性とダンス音楽としてのフォームの強固さに思いを馳せてみることも意義のないことではないだろう。

そう考えていくと、そもそものはじめから(西洋覇権型文化観からみて)周縁たるここ日本において(ブーム鎮静後の)周縁としてのラテン・ミュージックを再び奏でるということの二重化された異質性が、自ずとあぶり出されてくるようだ。雑食的な関心のもとに覇権的な舶来物をローカライズして再提示する方法論(往時のTCBもこの優れた例としていいかもしれない)というのは、歴史的にも日本という文化圏が得意とする技法とされてきたわけだが、それゆえにこそ、再周縁化した舶来物を更にローカライズしようとするとき、この二重化された異質性を意識せずに済ませることはできないだろう。その問いにぶつかったとき、おそらくラテン・ミュージックを時の流行様式であったフュージョン系のアレンジメントで再提示するという(本作のA面に聴かれるような)道筋こそが、もっとも分裂的でない(思考/実践上において摩擦の少ない)行き方だったろうことも想像できる。

しかし、本作で清水靖晃が行ったように、この時代にあってはいまだ新奇な実践であった英米の非覇権的音楽=ポスト・パンクやオルタナティブへ密着した編曲を施すというのは、周縁にあって周縁を折り込みつつ、さらにそこへ非正統的な味付けを施すという「三重化された戦略」とでもいうべきものであり、その三重の掛け算は結果的に、ポピュラー・ミュージックがその発展のうちに隠匿してきた地政学的/文化的ポリティクスの歪さと偏りを転倒的かつ鮮烈に暴き出すことになっているのではないだろうか。これは、のちの清水がさらに自覚的にグローバルな路線へ踏み出し、(これもまた転倒的であるが)ヨーロッパを拠点に活動することを考えると、かなり自覚的に意図された戦略だったようにも感じる。

ちなみに、そういった脱西欧的音楽を指して旧来では一般に「ワールド・ミュージック」と呼称してきたが、その西洋中心主義的視点が批判され、近年急速に反省されつつある(じっさい、単に周縁的意匠をまぶした「収奪的」音楽も多く作られたことは事実だろうが、まずは「ワールド・ミュージック」というジャンル用語を退けて、新たに「グローバル・ミュージック」と呼ぼうとする動きがある。もちろん、その呼称も果たして適切なのかという問題はありうる)。清水の音楽も、世界各地他多くのアーティストによる自覚的取り組みと同じく、ときに「ワールド・ミュージック」と単に名指されてきたようにも思うが、このトゥデイズ・ラテン・プロジェクトを始めとして、その本質は明らかに「グローバル・ミュージック」として捉え直すべきものだろう。

現在的視点からすると、どうしてもフェイク性やイミテーションというクリシェを付与することで片付けてしまいがちなこうした実践の中に、いかに優れた批評性をもった音楽表現が隠されているかを再考するというのも、かつて産み出されや音楽作品を「発掘」するものの楽しみだと思う。その視点こそは、特定の作品を微視的にじっくりと味わってみる際にも、あるいは様々なレコードを渉猟しながら当時の文化状況を想像してみる際にも、携えているに越したことはない「歴史のオペラグラス」とでもいうべきものだ。(柴崎祐二)


Today’s Latin Project

『Today’s Latin Project』



2020年 / P-Vine(オリジナル・リリース:1983年)

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Tower Records / Amazon / HMV / disk union


柴崎祐二リイシュー連載【未来は懐かしい】
アーカイヴ記事

http://turntokyo.com/?s=BRINGING+THE+PAST+TO+THE+FUTURE&post_type%5B0%5D=reviews&post_type%5B1%5D=features&lang=jp

Text By Yuji Shibasaki

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