PJハーヴェイでお馴染みのジョン・パリッシュと再び組んだ『Designer』は思考と幻想の間をフラットにするか。ニュージーランド出身のオルダス・ハーディング、新作を語る
英『ラフ・トレード・ショップ』の年間ベスト・アルバムに選ばれた前作『Party』で、初めてこのニュージーランド出身の女性シンガー・ソングライターのことを知ったという人も多いだろう。パフューム・ジーニアスとのデュエット曲も収録したその『Party』は、PJハーヴェイやスパークルホースなどのプロデュースで知られ、自身もソロとして活動するジョン・パリッシュが手がけた1枚。ジョンに全幅の信頼を寄せるポーリー・ジーン・ハーヴェイがそうであるように、このオルダス・ハーディングというアーティストも、歌い手、ソングライター、ミュージシャンというより、繊細かつ大胆な表現者と言うべきかもしれない。確かに出発点は伝統的なフォーク・スタイルを基調としたアーティストではある。ただ、届けられたばかりのニュー・アルバム『Designer』——引き続きそのパリッシュと組み今度はウェールズでレコーディングを敢行したものだが——を聴けば、素朴、牧歌的、長閑…といった言葉などは断じて出てこない、むしろ厳しく強く凛々しく、幻想的で謎めいた人物像さえ浮かんでくる。あるいはそうした評価に甘んじない批評性も……。
オルダスは下記のインタビュー中、何度か「イメージ」という言葉を使っている。果たしてその真意はどういうものなのだろうか。ミステリアスでユーモラスなPVからミュージシャンである彼女の母親まで多岐に及ぶ話をしてくれた最新インタビューをお届けする。(取材・文/岡村詩野)
Interview with Aldous Harding
――収録されている「The Barrel」のPVが非常にユーモラスで示唆的、批評性のある内容ですね。クラシカルなドレス姿、奇妙なお面、下着とTシャツ、そして最後はまるでお母さんのお腹の中の胎児になったような……このPVにはそもそもどのようなイメージ、狙いがあったのでしょうか?
オルダス・ハーディング(以下、A):あのビデオが公開されてから、多くの人から連絡が来て、ビデオの意味を知りたがっていた、というか知る必要に迫られていたみたいで興味深かったわ。ビデオを撮影した部屋について私が制作スタッフに伝えたイメージは、まさに“胎児みたいな感じ”だったの。その現場で私が知らない力が働いていたとしたら別だけど、そんな変なことは起こらなかったと思うわ。とにかく私は、興味深いスペースを作って、興味深い衣装を着たかった。スペースの使い方には色々あるということを表現したかったの。ビデオの始めに、布の中を通ってくるシーンがあるでしょう? 子供の頃、父とカーニバルに行った思い出があって、そこにはおとぎ話をしてくれる女の人がいた。2ドル払って、産道のようなトンネルを通ると、そこに女の人がいておとぎ話をしてくれたの。あのシーンは、その思い出からきているの。当時は両親が離婚したばかりだったから、私も感傷的で詩的になっていたのだと思う。ビデオでは、1つのスペースを使って、たくさんの使い方があるということを見せたかった。狙いはというと、別に隠されたメッセージというものは特になくて、ただ興味深いものにしたかったというだけ。最後は、全てを一掃するというか、ロウソクの火を消すみたいに吹き飛ばすの。すると、そこには偏見のない喜びがある。それを観た人に感じてもらいたかった。あとは、人々に、物事をそう真剣に捉えすぎないで欲しいという思いもあったわ。効果的な表現方法はたくさんあるということを伝えたかったの。
――あのPVの監督のMartin Sagadinはスロベニア出身ながら現在はニュージーランドのクライストチャーチに暮らすディレクターですね。あなたの音楽も、確かにフォーキーではありますが、地域性を超えた……例えば少し東欧やアイルランド音楽などの要素さえも感じられますし、クラシック音楽の気品、アシッド・フォークやゴシック・フォークとしての翳りやサイケデリアもあります。あなたの音楽的なバックボーンを、今、改めて整理したいと思うのですが、あなたの作品の音楽成分の割合はどのようにミックスされていると思いますか?
A:それに答えるのはほぼ不可能よ(笑)。私のサウンドに影響を与えているのは、音楽的なものとは限らないでしょう。私はいろいろなスタイルの音楽を聴くわ。だけど音楽をたくさん聴いているわけじゃないの。新しい音楽を常に聴いているというタイプの人間じゃない。自分の音楽を、こういうようなサウンドにしたい、という願望もない。自分が興味深いと思える音楽を作りたいだけ。そして自分に対して、優しくも厳しい批評家であれば、他の人も私を理解してくれると思っている。分かるかしら? だから、「これは私が興味深いと思うのか?」「これは私にとってバランスが取れているか?」という問いを常に自分にしている。バランスと言っても、それが何を意味しているのか自分でも分からないからそれを説明するのは難しい。私は曲作りをすると、聞かれるのはその曲の影響だったり、作り方だったりする。つまり材料を知りたいのよね。でも、それは言葉で説明できるものではないのよ。母親は赤ん坊の体温が高すぎるとそれが分かる。赤ん坊が、お腹が空いていたり眠かったりすると、母親はそれが分かるでしょう。それは内側のサークルにいないと分からないことなの。それと同じで、自分の音楽を作っているときも、具体的な直感が私にも感じられる。私が自分の音楽を聴くときは、他の人の聴き方と全く違うから、私に自分の音楽がどんなサウンドかを聞いてもまともな答えが返ってこないわよ。この部分は世界のこの国の影響を受けている、とか、このヴォーカルのスタイルはどこからの影響を受けている、というような専門知識は私にはないから。私は天才じゃないし、専門用語も知らない。アートと音楽について私が知っていることは基礎的なことだけ。音楽を作っている時は、自分にとってバランスが取れていると感じるまでやるだけなのよ。
――では、あなたのお母様でありミュージシャンでもあるLorina Hardingからの影響についてはどうでしょう? あなたが小さな頃、お母様とは音楽をめぐってどのような交流があったのでしょうか?
A:母は私が今持っている全てをプレゼントしてくれたわ。彼女は私の母親であり、唯一の真実の愛だもの。母と私はいつも一緒に歌っていた。母も真っ先にこう言うと思うけど、私は自信のあるシンガーではなかった。だって、シンガーになりたいと思っていなかったから。彼女と同じようなことをやるのが私にとっては怖かった。私が7歳か8歳の頃、母は私にギターをクリスマスに買ってくれたの。けれどそれは埃をかぶったままでほとんど弾かなかった。私の父も義父もミュージシャンだったから音楽は私の人生の一部だったの。ニュージーランド人は、自分の国以外の国に夢中でね。自分たちの国がエキゾチックな国だと言う自覚がないの。ニュージーランド以外の国の方が断然興味深いと思っている。私も音楽以外のことをしたいと思っていたから、ニュージーランド人特有の考え方をしていたのかもしれない。自分の家が音楽一家だったから。当時、私が聴いていたのはラジオの音楽くらいだった。母親はレコードコレクターでも音楽ジャンキーでもなく、大好きな音楽がいくつか選定してあって、それをいつもかけていた。その点は私も似ている。子供の頃はそう言う思いもあって反抗していたけれど、母はいつも私と一緒に歌っていた。私がどこまでできるか、どこまでやりたいか、というのを知りたがっていた。母は非常に芝居じみた人なの。操り人形師でもあり、女優でもあり、ピエロもやっていた。 ラグビーの試合のハーフタイムにピエロとして出ていたわ。週末はそんな仕事をしていたの。今となれば明白だけど、そういう母の影響が全て私に伝わっている。だから彼女からはたくさんのものをもらったわ。父親からも。父親は詩人なの。父親には、母親のような自信がなかった。けれど言葉には長けている人だった。そして私はそんな2人の血を引いた娘よ。自分が何をしているのか分からない時もあるし、何をやっているかを自覚している時もあって撤退したくなる時もある。それは全て親からの影響なのだと思うわ。
――あなたは13歳の時に最初の作品『Clean Break』を世に出していますが、その後はすぐにソロ・アーティストの道に進んだわけではありませんでした。今となってはNadia Reidら仲間アーティストとの交流や作業をした経験が今に生かされているのかとも思いますが、その頃の活動は今のあなたにどのようなプラスを与えてくれたと考えますか?
A:母とあの曲をレコーディングした時、私がものすごく幼くて、不安定だということが、聴いた人は分かると思う。言葉を出すので精一杯だった。当時の私にとって歌うということは自然にできることではなかったの。そこまで歌うことに集中しなくても、自分は歌えるんだということを、当時の私はまだ知らなかった。あの曲をレコーディングしたのは12歳の時だったけど、あの曲を今聴くと私はこう思うの。「これは、まだ本人がシンガーだという自覚が無い人が歌っているわ」と(笑)。ナディアと歌った経験は、彼女は最初、大変なあがり症だったの。彼女は当時から、個室などで音楽をたくさん演奏してきていた。彼女と歌ったのは、彼女が人前でパフォーマンスできるようになるためだったの。彼女はそれを1人でやるのが怖かったから。今となっては、本当にやって良かったと思うわ。彼女を助けてあげられたことが私も嬉しかったし、それは私にとっても良い経験だったから、私も音楽をやりたいな、とその時思ったの。でも私の中には葛藤があった。そのライフスタイルを受け入れたくなかったから。自分が育った生活環境というものにね。私は反抗的で頑固だった。だから遊び半分でやって、またやめて、また遊び感覚で音楽をやって、またやめて、というのを20歳くらいの時まで繰り返していたわ。もちろんこれは大切なことでそういう経緯が私を形作っているのだけど、それを伝えるために私が選んだ言語は音楽なの。今までの影響を伝えたり、私が何をしたくて、何をしたくなくて、何に傷ついて、何に助けられたかは全て私の音楽に入っている……一所懸命、説明しようとしているんだけれど難しいわ。
"私は現実と想像の境目というのはないと思う。感情は本物よ。だけどそれは私が本当に感じたから本物の感情なの。偽り、幻想の世界で生み出された本物の感情かもしれない"
――Aldousというあなたの名前はAldous Huxley(オルダス・ハクスリー)からとられたのでは? と昔から噂されていますが、それが事実にせよ、そうではなかったにせよ、あなたの楽曲はハクスリーの作品同様に神秘的な側面を強く持っていますね。また、そのハクスリーの作品同様に、主観と客観のどちらの目線も歌詞には感じられます。ハクスリーを始め、ティモシー・リアリーのような幻覚文学、思想からの影響はどの程度ありますか?
A:断っておきたいのは、私がインテリであると言う誤解は招きたくないってこと。私は本当にそうではないから。私が持っている知性を何とか駆使して、私は音楽を作っている。確かに読書はするわよ。そして読んでいた本を参考に、音楽を作る時もある。だけど、今言われた作家について考えが念頭にあるわけじゃないの。それは私の活動に直接的に関わっている時だけ。私は個人的な時間を使って物語を読んだりする。だけど、それが私の制作活動に関与しているわけではないの。けれど1つ言えるのは、私にとってイメージするということは昔から容易なことだった。子供にとって想像するのは難しいことじゃないでしょう? 私は物事をイメージで記憶している。高校生の時、課外活動で科学のクラスを受けていた。その時に、単語を何ページも覚えなくてはいけなかったの。生物って、全く新しい言語を覚えるみたいじゃない?どうやってこれを全て覚えようかと悩んでいたけど、教科書を閉じて、頭の中で、自分が観ることのできる映像に全てを変換したの。そうしたら全てが覚えられるようになった。その逆もするのよ。当たり前に聞こえるかもしれないけど、頭の中のイメージを使って詩を書く。だから何かをイメージして、それが興味深いものであれば、それを言葉にしてみんなに説明できるようにするの。私が読む本は、私の音楽活動に、みんなが思うほど影響を与えていないのよ。
――では、あなたは自身の作品を通じて、幻想、想像とリアリティの境目や価値観をどのように伝えていると言えますか?
A:音楽に関しては、幻想、想像とリアリティの境目が本当にあるか分からない。音楽に論点なんてないのよ。論点にしたら、他のたくさんのものが除外されてしまう。論点に辿りつきたいのなら、なぜそれ以外の行動をする必要があるの? なぜテレビを観たり、音楽を聴いたり、他の人と一緒に時間を過ごす必要があるの? これは個人によって違うと思う。誰かに、正しい学習の仕方を教えているようなものよ。そうすると多くのことが制限されてしまう。だから私は現実と想像の境目というのはないと思う。感情は本物よ。だけどそれは私が本当に感じたから、本物の感情なの。偽り、幻想の世界で生み出された本物の感情かもしれない。私は、幻想の感情というものを思い付くことができない。あなたはできる? 全ては思考なの。思考はあらゆるところで発生し、意識のあらゆる状態で発生する。私たちが読んだり観たりする物語やファンタジーも、思考から発生している。だからその境目についてはよく分からないわ。
――2017年に発表された前作『Party』はあなたにとっても大きな節目となる高い評価を得た作品でした。それは、すなわちあなたの作品が決して幻想の産物、一瞬の神秘を絶賛するものではなかったということを証明していたとも思います。一方で、ジョン・パリッシュとのコラボレートも奏功したと感じていましたが、まずジョンとはいつ頃どのように出会い、どのような流れで一緒に作業をすることになったのかおしえてください。
A:2015年の大晦日に友達の家にいて、ローラ・ジーンの『Laura Jean』を手に取って、「これは何?」と聞いたら、その友達が「気に入るかもしれなから、それをかけてみなよ」と言ってくれたの。私はその晩、ずっと家にこもってそのアルバムを何度も聴いていたわ。そしてそのアルバムはジョン・パリッシュがプロデュースしていた。そこで、彼の今までの作品で好きなものを思い返してみたの。そして自分の曲を彼に送って、一緒に何かできないかな?って相談をしてみたの。あ、その前にローラ・ジーンはメルボルン出身だったから、彼女と先に知り合いになり、彼女からジョンの連絡先を教えてもらったんだったわ。そして彼にメールとデモを送ったってわけ。でもどうなるか分からなかった。彼が「イエス」と言ってくれるか分からなかったわ。でも彼はOKしてくれたから、その2ヶ月後にブリストルに行ってレコーディングを始めたのよ。
――ジョン・パリッシュはPJハーヴェイとの仕事が有名ですが、彼のソロ作品の持つ繊細かつ骨太な作風にこそあなたの作品と共振するところがあるように感じます。
A:その通りね。繊細かつ骨太な作風というのは、ジョンの作品を説明するのに素晴らしい表現だと思うわ。ジョンと私はよく意見が一致するの。私が自分の音楽を彼に演奏すると、彼が近いところにいる、という感覚があるの。彼の表情は、自分もその曲を聴いたらするだろうと想像している表情なの。もちろん意見が合わない時もあるわ。これは、制作が上手くいくように自分に言い聞かせたことかもしれないけど、多分違うと思う。私たちには、どんな作品にしようというヴィジョンに関して近いものが確かに描けていたと思う。共有したイメージを説明するのは難しいわ。だってそれがアルバムから聴こえるものだもの。そのイメージは元々私のものだったかもしれないけど、私とジョンは一緒に働くという義務があった。制作過程において、ジョンが正しいときもあったし、私が正しい時もあった。でも多くの場合、私たちは一緒に作曲をした。そこに摩擦はあまりなかった。人はストーリーの上にさらにまたストーリーを欲しがるのね。前者のストーリーはアルバムという意味よ。誰かにこう質問されたの。「レコーディングの最中に起こった一番面白かった時のことを教えてください」って。私はこう答えたわ。「(ため息)面白いことはないわ」と。そういう感じで仕事をしているわけではないの。もしかしたらジョンは他の人とはそういう風に仕事をしているかもしれないけれど、私の制作方法はそういうやり方ではないの。私が喜びを感じるのは、作品を作った人たちと一緒にそれを聴くときなの。一緒に作った音楽を聴いて、その人たちが頷いたり、音のバランスに気付いたりするときなの。それは簡単なことではないの。興味深くてリアルなものを作ることは簡単なことではないのよ。トリッキーなことなの。だから、その後にみんなと一緒に完成したものを共有できた時に、喜びを感じる。だから制作プロセスについてどうだったかというのはジョンとも話さないわ。きっとジョンも「ああ、良かったよ」しか言わないと思う。私たちは集中的に仕事をするタイプで、レコーディングも15日間で終わった。レコーディング以外のところで別の生活があったら、レコーディングに100%関与していないことになるでしょう? 私たちの仕事はとても直接的で集中的なものだった。正しいサウンドを引き出すことが私にとって、私たちにとって重要だった。そうやって私たちは仕事をしてきたの。アルバムで聴こえるものこそが、私たちの仕事のやり方で、それ以外には何もないのよ。アルバムで聴こえる以外には特に何も起こっていないわ。
――今回のアルバムはウェールズで録音したそうですね。アーシーでヒューマンなタッチのバンド・サウンドが新鮮ですし、あなたの持つ生命力、確かなリアリティのようなものが伝わってくる力作だと思います。このようなバンド・アレンジを持ち込んだ、そのアイデアの元はどのようなイメージでしたか?
A:『Party』 の後、最初に書いた曲が「Weight of the Planets」だったの。作曲をしている時に、色っぽい、ボサノヴァの時計仕掛けの音が聴こえたの。とても大きな音を出す濡れた時計。だからそこにパーカッションとテクスチャ、レイヤーが入るなと思った。その後に「Heaven Is Empty」を作曲した。そこには何も入らないと思った。で、その後に「Fixture Picture」を作曲した。その時は大きな音にしたいと思った。うるさい音というよりも、比較的大きな音という意味よ。大きな音で、ストレートで、強い。私の今までの作品は結構殺伐としているものが多かったから、今回は今までやったことがない作品を作りたかったの。「The Barrel」と「Designer」を書き上げてから、今回のアルバムで、私は違うスペースに行ったという自覚があった。音楽的に違うスペースに現時点でたどり着いた、という意味よ。それは問題ない。それに対して私はパニックにならない。「他の人はどう思うだろう?」なんて心配はなかった。気になったのは、作曲家としての自分の能力をどこまで引き伸ばせるかということだった。だから今回の作風がこうなったことに対して、私は早い段階から受け入れていた。今回作ったメロディーなどには紛れもないグルーヴがあったから、コンゴを入れたいと思った。もし私が、 ダークな細々したピアノ・ソロから、こういったバンド・サウンドへの、新たな一歩を進むことに対して、「これが本当の私かしら?」とか「これはみんなが私に期待していることかしら?」と考えて心配するようなタイプの人間だったら、このサウンドは上手くいっていなかったと思う。だから曲の言う通りにした……なんて言うと魔女みたいに聞こえるけれど、サウンドが自然に発展するのに抗わなかった。そこにあったグルーヴや作曲の最中に起こっていたことを受け入れていったの。それをベースにしておこなっただけなのよ。
■Aldous Harding Official Site
https://www.aldousharding.com/
■ビートインクHP内アーティスト情報
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10124
Text By Shino Okamura