【From My Bookshelf】
『エチオジャズへの蛇行』
川瀬 慈 (著)
鳥のように思えてくる、聴者との間で何かを生み出し続ける音楽
自室のCDラックを確認してみたら、“エチオピーク Ethiopiques”シリーズが17枚あった。各盤色違いの背表紙には印象的なEthiopiquesのロゴとナンバリング、そしてエチオピア語が配置され、17枚が並んだ17cmほどの幅が存在感を放っている。それを眺めながら、今までの自分にとって、エチオピア音楽とはこの幅分のものでしかなかったのかもしれないと思った。今では全30タイトルのほとんどがストリーミング配信されているこのシリーズが始まったのは1997年。そして日本盤として発売され始めたのが2001年。自分が初めてこの音楽に触れたのもおそらくその時期。シリーズ1番の『Golden Years of Modern Ethiopian Music 1969-1975』に独自に付けられた日本語タイトルは『エチオピアン・レア・グルーヴ』で、当初の自分の接し方も、この副題どおりのものであったはずだ。レア・グルーヴの中の、より趣味性の高い変種を見るような眼差しがそこにはあったかもしれない。このシリーズのキュレーションやイメージの打ち出しは実に見事で、現象や流行の一つとして享受した面も大いにあった。だから、という言い方もおかしいが、ムラトゥ・アスタトゥケの楽曲が使われ、“エチオピーク”が全世界に向けて広がるポイントになったとされるジム・ジャームッシュ監督による2005年の映画『ブロークン・フラワーズ』を当時観たときも、実に即物的に「今頃?」という反応をしてしまった記憶がある。
以上、評者としての懺悔の時間はここまで。
本書の帯の背表紙部分には「本邦初! エチオジャズ入門」とある。しかし、ここには使えるディスクガイドがあるわけでもなく、この音楽についてのわかりやすい定義付けがなされているわけでもない。むしろ、定義付けができないということが述べられ、そのこと自体をこの音楽の特徴や魅力であるとしている。
著者の川瀬慈は映像人類学者。調査のフィールドがエチオピア北部の都市ゴンダールや首都アジスアベバであり、現地での体験を通してエチオピア音楽が語られていく。アジスアベバの定宿を共にしていたエチオピーク・シリーズの編纂者であるフランス人プロデューサー、フランシス・ファルセトとの交流。アジスアベバでのムラトゥ・アスタトゥケとの対話。伝説的サックス奏者、ゲタチョウ・メクリアの演奏の様子。2000年代以降、ポップミュージックとして世界的に広がってからの、新たな演奏家たちの登場や、著者本来の研究対象であるエチオピア北部の吟遊詩人アズマリ、ラリベラといった伝統芸能とのリンク。現地/現場での目線は自然と東京へと移り、エチオピア移民たちの集いの響きに可能性を見いだそうともする。
とにかく本書では、狭義の解釈ではムラトゥ・アスタトゥケ個人による音楽ヴィジョンであるとされる「エチオジャズ」という語を、より広く、大きな容れ物として考え、様々な意味や可能性を孕む余地のある、懐の深い、包容力のあるものとして使っている。また、音楽に限らず、何かについて考えるためには、その到達が不可能であることを自覚しながらも、「蛇行」「旋回」「逍遥」することによって近づいていく手立てしかありえないという態度もここにはある。なんといっても書名からしてそうなのだから。
本書中盤までの各章を、対象と目線が近い、いわば「鵜の目」的であるとするならば、後半に置かれた、文化人類学者、鈴木裕之との対談は「鷹の目」的だ。現象としてのエチオジャズ~エチオピークの概観を中心に語られるこのパートから浮かび上がるのもやはり、エチオジャズというのは、定義を与えられ固定化されたものではなく、常に生成され続けていくものであるという考えである。先に述べた容れ物自体に、もはや定形すらないとでもいうような。そしてそういった性質こそがジャズ的であると述べられている。「エチオジャズ」に「ジャズ」の語が入っていることの意味は深いのだと。
音楽に対するこういった見方は、著者の根本的な考えから来るものであって、それは過去の著作にも多く登場する。
「ストリートは、私のなかで交響し、私を通して顕現し、その姿かたちを永続的に変化させていく主体でもある」(『ストリートの精霊たち』2018年)
「そんなアズマリが、生と死をめぐる観念の世界に人々を誘う。そこに一元的で、固定的な答えや、わかりやすいメッセージは待っていない。人々はゼラセンニャを聴きながら、広大なイメージの海を、自らの想像力のみを頼りに、深く、深く潜行していくのだ」(『エチオピア高原の吟遊詩人 うたに生きる者たち』2020年)
「イメージは生きている。私の内側の感覚や記憶と溶融し、様々なかたちで世界にあらわれ出ていく。それはまた、あなたのまなざしや息吹を受け、新たに芽生え、時空を超え、自らの生命をはてしなく拡張させていく」(『見晴らしのよい時間』2024年)
著者は詩人でもあり、『叡智の鳥』という詩集も刊行している。様々な方向へと飛翔することにより、あらたな局面を生じさせ、常に過渡の状態を保つというここでの鳥のイメージは、本書で述べられている音楽のそれとも重なってくる。宙へと放たれ、拡散し、その先々で聴者との間で何かを生み出し続ける音楽が鳥のように思えてくるのだ。ゲタチョウ・メクリアがサックスの演奏中に聴衆へと投げかける「『あんたたちどこへ行っちまうつもりだい?』という、お決まりのせりふ」も、「よりわかりやすく説明するならば、『俺の奏でるサックスのメロディに乗って、あんたは何を追想しているんだい?』ということになる」ようだが、詩集を読んでしまった後では、まるでどこかに飛んで行ってしまう鳥=音楽へ向けられた言葉のようにも思えてくる。音楽はどこか思わぬところへと飛んでいってしまうものであって、背表紙やアルバムジャケットとともに部屋やクラウド上に収まるだけのものではないということだ。
「叡智の鳥は母なる大地を想いつつ、それにふれることも着地することも許されず、歓びと哀しみの歌を歌いながらはてしなく世界を周遊し続ける。しかしその飛行の軌跡には様々な物語がおのずと胚胎し、また新たな世界を芽吹かせていく。この鳥の果てしない旅を想う」(『叡智の鳥』2020年)
多くの章にはQRコードが付いており、関連する映像を観ることができる。その中のひとつで、著者の映像作品である『吟遊詩人ー声の饗宴ー』の中で、アズマリが、小さなクラブであるアズマリペットで演奏中に観客たちに向けて「さあさあまだこれからさ 詩を投げてちょうだい詩を」と語りかけるシーンがある。そして観客の投げた「詩」がその場で新たな音楽として生成されていく。こういった現場を目の前で何度も経験してきたであろう著者の音楽観が本書で述べられているようなものになるのは、ある意味当然のことだろう。(橋口史人)
Text By Fumito Hashiguchi

『エチオジャズへの蛇行』
著者 : 川瀬 慈
出版社 : 音楽之友社
発売日 : 2024.11.13
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