ただそこにいる気配を残すアジアン・エキゾチシズム
ファンカデリック、アーサー・ラッセル、J・ディラ、マッドリブ、ジョアン・ジルベルト、フィッシュマンズ、坂本慎太郎……様々な名前が浮かんでくる。そのどれでもないのはもちろんだが、そのどれにも足がかかることを厭わない大らかさもある。どちらかというとチープで室内的なサウンドなのに安っぽくないし、それどころか情緒豊かでメランコリックだ。一聴すると昨今のシティ・ポップやAOR、ニューエイジ再評価の潮流の中にいるようだが、実際は全く違うバックグラウンドを持っていそうな気配もある。名もないどこかの島から流れついた得体の知れないミュータント・ポップ・アマルガム、といったところだろうか。
唐突に登場したこのイサヤー・ウッダ、おじいさんが台湾人(日本統治下で第二次大戦中に徴兵されて日本へ従軍していたようだ)、おばあさんが日本人、その間の子供が彼のお父さんで、つまり本人は台湾と日本の血を引くクォーターということになる。日本生まれで現在は京都に暮らしているという31歳。確かにこの半月ほどの間に京都のいくつかのお店でカセットである本作を見つけることができたし、実際に私は京都の人気中古レコード店である『100000tアローントコ』で買った。セレクト書店の『ホホホ座』にも置いてあったし私が訪ねた時には店内でかかってもいたが、その時に、静かな店内の空気とフィットしているなと感じつつも、ふと、さて、今ここはどこなのだろう?と錯覚してしまうような、言わば時間軸や空間を捻じ曲げてしまうような作風であることにハッとさせられたものだ。「息づかいが聞こえるような音楽とエドワード・ヤンの映画(!)が好き」とのことで、なるほど、その場の匂いにサラリと溶け込んでしまうさりげなさ、順応性があるのに、すぐ耳の後ろあたりで鳴っているような確かな存在感がある。でも、振り返るとそこには誰もいない。ただ、ただ、何かの気配がある、そんな音楽だ。
ヒップホップ、ダブ、ファンク、MPB、ジャズなど多様な音楽性がクロスする。だが、それらが均等にミックスされていたり、何かが軸になっていたりということはなく、音の断面はあくまで曲ごとに異なるし展開も曲次第。テンポやリズムについても決してジャストではなく、むしろ揺れ動いているし、曲と曲の境目も、もちろん厳密にはあるが、気がついたら最後まで通して聴いてしまうようなシームレス感ある仕上がりになっている。最高級の機材に頼っていないためか音質は悪いが、それこそ東南アジアの露店で売ってる古いカセットで聴くサイケ・ロックのような伸び縮みのあるタイム感が魅力だ。だから、確かに起伏や抑揚は傍目にはわからない。これを聴いてチルという人もいるだろうが、私はむしろジリジリと網の上で焼かれているようなリアルな危うさのある作品だと感じている。でも、どっちだってきっといい。「feel」「dream」「something in blue」「more」「ever」などオブスキュアなタイトルの曲が多いのも、あるいは聴き手によるナンセンスな位置付けを曖昧にしておきたい思いの現れなのかもしれない。
LowでRawな室内型ポップ・ミュージックはヴェイパーウェイヴ世代では決して珍しくない。だが、カセット(と配信)でいきなり発表してきたこのアジアン・エキゾチシズムは、どこともコミットしないまま生まれ、そしてこれからもコミット不能なまま、ただ確かな気配だけを残しながら存在していくのではないかと思う。今年初めて出会った様々な音楽の中でも圧倒的に不気味で圧倒的にチャーミングなファースト・アルバムだ。(岡村詩野)