食べて出すだけの日々にも名前は必要で
SSWとは自身の生活をウロボロスのように噛み千切るような人々だ。外来する窮状──電気料金が払えないとか、酒を飲む金がないとか──と、それによって乱反射する自意識にどう落とし前をつけるのか。その全てを跳ね除けて「俺はここから成り上がる」という階級上昇への虚勢を張るのが『ラップスタア』などに観測される今日的な態度なのかもしれないが、半世紀ほど前に生まれた四畳半フォークを聞いてみると、曲中で純白の未来を夢想こそすれど(吉田拓郎「結婚しようよ」)、狭い自室で即物的な生活を送ることに安住したがっているようで、それはそれで新鮮に感じられる。
自身の尻尾を齧って咀嚼して生やして、また齧って咀嚼して生やして。そんなウロボロスを前にして「お前も階級上昇したいだろ?」と問い詰めることだけが、果たして幸福なのだろうか。目の前の尻尾を極上の代物としてその都度口に含める、それ以上の幸福を階級上昇は用意してくれるのだろうか? ニュータウンV──ここからは僕と彼との関係性を踏まえて“小山くん”と呼ばせてほしい──を聞いていて思い出すのは、目の前の生活の美味なる魅力に気づいた者のみが醸す、痛いほどの感動だ。
一昨年に発表した『ニュータウン宣言』という初作のリブートと新録によって構成されたアルバムは『天才の友達』というタイトルだ。この時点で小山くん自身の自意識が発露しているようにも見える。半分謙遜なのだろうが、実際に『天才の友達』には彼の師匠(誇張ではない、本当に弟子入りしたらしい)の吉田靖直(トリプルファイヤー)が参加しているし、Cruyffやニトロデイをはじめ、現在はART-SCHOOLのサポートも務めるyagihiromiがノイズ・ギターを添えている。彼らだけじゃなく、小山くんはこれまでの人生における身の振り方まで遡って『天才の友達』を自称しているのかもしれないが、そういう柔らかい部分を自分の一部としてタイトルに差し出したことを、一流のウロボロスとしてまずは歓迎しよう。
松屋のなんてことない風景が据えられたジャケットからも、彼自身の生活の柔らかさを感じ取らざるを得ない。「朝定食」という楽曲で、それこそ吉田靖直が〈五時を待ってまで食いたいものなのか?〉と問うように、目の前の景色を積極的に褪せさせてまでも小山くんは内省を止めない。「天才」の〈フリッパーズな曲ばっか/俺もお前も才能ない/で、さっぱり。ダメね、やっぱ/超ストレス!〉という一節や「kan coffee」の〈缶コーヒーを買おう(飲もう)、と思っていたんだ/外に出るための理由はそれしかないと気づいた〉という箇所に至るまでの逡巡は、「俺はこれからどうすれば良い?」という問いに明確な答えを用意しない。しかし、用意せずに日常の最中に滞留することを選ぶからこそ、無駄に物だけの多い自室に差し込んだ陽の光を素朴な希望として感動するような、そういう精神的な安住を許可してくれる。これらの言葉がほの明るいコード進行と絡みあって、極端にポップな形として射出されるからこそ、小山くんに宿っている体温に多くのものを仮託できる。
生活の柔らかい箇所──より踏み込んで“不細工な箇所”としてもいいだろう──にこそ自分の体温が宿っていること。あまり指摘したくはないが、確かにそうらしいことを、小山くんは指摘している。松屋で自分らしさを見出すなんてバカげている。でもあなたが無意識に紅生姜を乗せた丼をかき込んでいるその姿こそ、自分の尻尾を食べて腹を満たしている最も滑稽な姿なのかもしれない。そのおかしみに気づいた時点で、小山くんは表現者における賭けに勝ち続けている。(風間一慶)

