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Cwondo: Tae

2024 / Cwondo Cwondo / Tugboat Records | SPACE SHOWER MUSIC
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勇気ある曖昧さ

02 May 2023 | By Suimoku

なぜCwondoの音楽に惹かれるのだろうか。実のところ、わたしは彼がヴォーカル、ギターおよび全楽曲の作曲を務めるNo Busesというバンドについてはあまりよく知らなかった。その「Girl」(18年)や「Pretty Old Man」(19年)といった楽曲が日本国内を超えて世界的な注目を浴びたとき、わたしが中心的に追っていたのはアメリカのR&Bやヒップホップで、バンド名と楽曲数曲ぐらいは知っていたものの、“ガレージ・リバイバルっぽいカッコいいギター・バンドがいるんだな”というぐらいの認識だった。したがってそのフロントマン、近藤大彗がCwondoというプロジェクトをやっていることを知るのも遅く、おそらくは2021年の終わりぐらいだったように思う。

そこでまず聴いたのは、『Hernia』に収録された「Kochi」という曲だった。たしかに、No Busesの音楽と共通点を見出せるようなオルタナティヴ・ロック/ギター・ロック的な要素があったが、それ以上に、00年代エレクトロニカやエモの影響をトラックメイカー的にまとめたような質感が印象に残った。ハイパーポップやY2Kといったトレンドとの同時代性も感じたが、なにかそれだけではないと思わせるものがあった。たとえば、印象に残ったのはそのヴォーカル処理である。No Busesではメイン・ヴォーカルとして中心に鎮座するヴォーカルもそこではオートチューンで加工され、サウンドの一部として混ぜられていた。その声をはじめとして、ギター、リズムマシン、シンセといった各トラックが分離せずにぼんやりと溶け合うような質感があり、そのラフな雰囲気に惹かれるとともに、自分が愛聴していたVegynのトラックと共通するものを感じたのも覚えている。

そもそもCwondoというプロジェクトはどうやって始まったのだろうか。過去のインタビューを読むと、近藤はNo Busesではバンド・メンバーとともに時間をかけて楽曲を練っていく過程が必要になるため、それとは別に自分が毎日(!)制作している音楽を発表する場、自分のモードをダイレクトに反映させる場としてCwondoが必要になった…と語っている。つまりバンドとは別に、日々の心境や音楽的好奇心(インタビューでは100gecs、Vegyn、Dominic Fikeなど最新の音楽への関心をたびたび語っている)をよりリアルタイムに盛り込めるのがCwondoだったのだろう。それと同時に、“あまりに整えてしまうと、その整然とした部分に耳がいってしまう”“丁寧なだけの音楽が好きではない”とも話し、楽曲に心地よい“揺れ”を持たせることを大切にしているとも語っている。こうした、個人の感情やそのときの興味を素直に表現するような雰囲気、そして、どこかゆらぎを残したようなCwondoの音楽に、わたしはしだいに惹かれていった。

周知のとおりその後の活躍はめざましく、No Busesとしてのサード・アルバム『Sweet Home』を発表するかたわら、21年末にはセカンド・アルバムの『Sayounara』を、22年7月にはサード・アルバム『Coloriyo』をリリースし、その合間にはyonige、Maika Loubté、MINAKEKKEのリミックスを制作。そしてuku kasaiとの「LookBlue」や、PAS TASTA「sunameri smoke」といった楽曲に客演する……など、(超)精力的な活動を見せることになる。そのなかで彼のユニークな声とサウンドは、音楽ファンに強い印象を残していった。こうした活動を見ていると、ある時点からCwondoはNo Busesのフロントマンによる課外活動という域を大きく超えたものになっていたことが分かるし、今回リリースされた『Tae』はそんな21年末からの活躍を経てソロ・アーティストとしてのパワーと注目を高めた、その”先“の地点で作られた作品ということができるだろう。

そんなアルバムを聴いてまず印象に残ったのは、その“声”の扱いだ。Cwondoは今作で息を混ぜたファルセットを中心に使っているが、そこでは本来の発音をときに崩しつつ、自由に単語を伸び縮みさせている(たとえば“既存ファイルは上書かない”という歌詞は一聴、きーぞんふぁーーはうわーがーーない……という風に聞こえる)。そのヴォーカルはさらに多重録音され、いくつかの曲ではあたかもCwondoが何人も同時に存在するような、重層的なヴォーカリゼーションが生まれている。また、その声はときに加工・変調され、「Ononon」では逆再生によるユーモラスな響き、「Baby Kasutera」では引き延ばされた動物の鳴き声のような耳慣れない響きが聴く者をおどろかせる。こうした声を使った実験は前作『Coloriyo』の楽曲、たとえば「Sarasara」や「Hoyoy」といった曲でもなされていたように思うが、今回はさらに自由に、大胆に推し進められているように感じる。

そんなヴォーカルと呼応するかのように楽曲そのものの自由度も上がっており、『Tae』の曲を聴いていると、いたるところに思いがけない展開や意外な音の挿入、唐突な切断があり驚かされることになる。たとえば「Minuma No Yujin」は、ギターを叩く音や弦を擦るノイズを含んだアンビエント的な楽曲だが、曲の中盤ではそのアンビエンスをグリッチ・ノイズが引き裂き、次いで刻まれたCwondo自身の声がトラックを攪乱する。その次曲の「Humidii」は、水音のような音が定位を変えて動き回るなか、不明瞭な声とギター、そして”Oh Yeah……“という低音の声が繰り返される。こうした曲構造・音色の面白さに加えて本作はリズム的にも面白く、「Ike Suisui」「Tettroni」といったトラックでは上モノでゆるやかなギターやシンセがループされる一方、ビートはその倍のテンポでせわしなく刻まれ、異なるアクセントを持ったリズムがずれつつ並走する…という重層的なリズム構造が見られる。こうしたリズムはIDMやUKのベース・ミュージックを思わせる一方、シカゴの先鋭的なダンス・ミュージックであるジューク/フットワークを連想させたりもする。最近のライヴ映像では、Cwondo がKORGのkaossilatorを使って過去曲を大胆に変化させる姿を見ることができるのだが、もしかしたらこうしたトラックを解体するようなライヴ・パフォーマンスも、今回の楽曲制作には反映されているのかもしれない。個人的には、同じくkaossilatorを駆使しながらIDM、フットワークの影響を受けた音楽を作るプロデューサー、ロレイン・ジェイムスとの類似を感じる点でもある。

このように『Tae』には、さまざまなサウンドやリズムの実験があり、その楽曲の自由度もそうとうに高い。これまでCwondoの楽曲がさまざまな試みをしつつも、あくまで歌ものポップスの枠組みを保っていたように思えるのに対して、本作はときにその領域を踏み越えているようにも感じられる。しかし同時に、そこではわたしが「Kochi」を聴いたときから感じている、個人的で親密な感覚もたしかに保たれている。そこには相変わらず人懐っこさやユーモアがあり、だれかの親密な会話を聞くような雰囲気が漂っている。『Tae』はそんなパーソナルな感覚を失わないまま、音楽的には複雑かつ、不定形な方向に進化した作品と表現できるだろう。そして、その音楽はときに、先に触れたロレイン・ジェイムスのような、自らの柔らかな肉声を使いながら過激にサウンド、リズムを革新していくアーティスト、あるいは細野晴臣やレイ・ハラカミといった、パーソナルでありながらなおかつ逸脱を恐れないアーティストと似たところも感じさせる。それはあたかも自分のベッドルームにいながらなおかつ世界に向けて大きく開けているような――そんな両義的な感覚である。『Tae』にはそんな複雑で魅力的な雰囲気があり、なにより、そんな世界を作り上げたCwondoの“勇気”が、わたしをつよく惹きつけるのだ。(吸い雲)


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