あらかじめ損なわれた生活のために
かつて、ベル・アンド・セバスチャンのスチュアート・マードックはこのように歌った。「朝の最初のコーヒーに洗剤の味がしたとき、彼女はもう失っている」(「She’s Losing It」)。ドライ・クリーニングのフローレンス・ショウはこのように歌う。「色々な場所に一日中頭をぶつけてる」(「Hit My Head All Day」)。そこにあるのは、生活の中であらかじめ損なわれているなにかだ。「こころ」とか「きもち」とか「感情」とか「精神」とか色々な言い方があるけど、とにかく私の中の情緒機能は、理由もなく失調している。なにも生産的な活動をしていないのに疲労感だけがあふれ、社会から押しつけられた宿題が見えない壁となって立ちはだかる。絶対に終電を逃さない女が『虚弱に生きる』で描くような、まともに生活を整えることも決まった時間に労働することもままならない、病気でもないのに体力だけが奪われている状態。
体力があったところで、事態は簡単に解決しない。ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』におけるエマも、有島武郎の『或る女』における葉子も、存分に活動的な存在だろう。しかし、彼女たちは満たされとは無縁の精神状態のまま、自分の毒気に殺される。ままならなさから逃れようとして窮地に陥る。
第二次大戦中、ドイツ支配下のパリを舞台にした映画『主婦マリーがしたこと』(1988年)で、イザベル・ユペール演じるマリーはひょんなことから堕胎を請け負う仕事をはじめ、やがて罪に問われて処刑される。マリーはダンスが好きな快活な人物だけど、満たされない心に導かれ、やがてギロチン台へと突き進む。解放を望むアクションが、破滅に似てしまう。
ドライ・クリーニングのサウンドは、平熱を保っている。ビートは淡々と、ボーカルは抑揚を抑え、しかし同時に不機嫌だ。ポストパンク譲りのギターが吐き気に似たままならなさを鳴らす。生まれてこなければよかったのに。そう思わざるを得ない不調の感覚が、淡々と鳴らされている。
肩は重く、目は痛く、気持ちは沈んでいる。眠りも浅い。早く寝たいのに気づいたら深夜を過ぎている。そんな日々が繰り返されたことを、ドライ・クリーニングを聴いていると思い出す。ベースだけがファンキーに暗躍するバンドサウンドは、自分なりに奮闘しているはずなのに何にも届いた感じのしない、耐えられない一日の平板さと重なる。エリカ・エアーズによって描かれたグロテスクなジャケットも、耐えがたい日々の連続に結ばれる。
そのままならなさは、成功しようが失敗しようが顔を出す。現代の人間が生きている限り必ず空く穴のようなものだ。AIともソーシャルメディアとも付き合わなきゃいけない。ない方がいいなんて思わない。あったほうがいいに決まっている。でも時々、すべてにうんざりするときがある。テクノロジーに追いつかなきゃいけないことが嫌になる。私の体はだれにも大事にされていないのだと、虚しさに溢れるときがある。無理しても休んでも、結局何度も頭をぶつけてる。すべてはあらかじめ失われている。
ドライ・クリーニングの音楽は、なにかを変えたりしない。むしろ、変わろうとしたのに、なにも変わっていない事実を突きつけてくる。私にとってはそう聞こえる。ザ・スリッツやヤング・マーブル・ジャイアンツを思わせる「Cruise Ship Designer」のようなポップでかわいい曲も、スワンズやメルヴィンズを思わせる「Evil Evil Idiot」のような不穏でヘヴィな曲も、これからも続く不調の日々の再現に聞こえる。そこに希望はない。失望もない。ただ、得体の知れない不快感の散りばめられた日々が、今まで通り続くだけだ。焦げたトーストをかじりながら、時間を噛みしめる。面白みに欠けた時間を、誰とも接続せず、一人で噛みしめる。
自分の体と心をただただ確かめる。そんな時間が、私には必要なのだと思う。退屈さを楽しいと思えるまでの、時間が必要なのだと思う。そこにしか、ままならない不快感の先はないのだと思う。もっともドラムが軽快なアルバム最後の曲「Joy」は、退屈と不快感の末の楽しさに、よく似ている。(伏見瞬)
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