純潔スレスレで向き合う正義なき世界
正しさを求めることに疲れ果てている。「善」の対義語は確かに「悪」なのだろう。だが、「正義」の反対にあるものもまた「悪」なのかと言えばそうではない。正義は強いのかと言えば、果たして全くそんなことはないし、正しさを強さに強引に置換して旗を振りかざすのなら、間違った弱さをそっと抱えて生きていく方がよっぽどいいとさえ思ってしまう。いくぶん楽観的な私でさえ、皮肉と冷酷と自意識と陰湿で世の中ががんじがらめになっているこの時代に生きていることは確かにしんどい。それなら弱いままでいいやと思う。でも、さて、「弱い」とは? 「間違い」とは? もしかするとそれもまたそれぞれ「強さ」「正しい」の一種類ではないのか?
ただ、とはいえ、しかしながら、そうは言いつつも、けれども、今を生き抜くためには、洒脱であれ! 粋であれ! ヒューマンであれ! ではダメなのか、それではあまりにも非現実的なのか、と我が身の無力を実感しつつも、まだどこかで能天気なギアが入ったままの私は思うのだ。ポップ・ミュージックは、音楽は、こういう時のためにあるのではないのか? と。ここに届いたファイベル・イズ・グロークのニュー・アルバムのタイトルに首を傾げ、でもふとその意味に気付いた時、「正義」もへったくれもあるか! 間違っていることを誰が一体「悪」と呼ぶのだ? と、少し心が軽くなったのである。“Rong Weicknes”、そんな表記は実際にはない。隠されている意味はこうだ。“Wrong Weakness”=間違った弱さ。
とんでもない新作が届いてしまった! あらゆる音、あらゆる音楽から、ポップになりうる要素を……いや、あるいはそれがポップになりうるとは意識せずして抽出したような……もちろん計算なのかもしれないが、計算じゃないかもしれないし、ひらめきのような気もするが、思いつきでここまでの音作りはできないだろう。この混迷の資本主義社会の時代、このアルバムは間違いなく「正解」「正義」「強さ」を一次元的に求めようとする人々に飄々たるほんの少々の冷や水を浴びせることになるかもしれない。ポップ……というのがそもそも一体なんなのかはまだ誰も解明できていないと思うが、とりあえず本作は「正しき強さ」に疑問を投げかけることだろう。
マルチ・プレイヤーのZach Phillipsと、シンガーのMa Clément(Amelie Clement-Bollee)によるニューヨークはブルックリン(とベルギーのブリュッセル)を拠点とするデュオ。二人は2018年にブリュッセルで出会いこのユニットを結成した。最初のアルバム『God’s Trashmen Sent to Right the Mess』(2021年)はカセットに(モノラルで)ライヴ・レコーディングされたもので、その後、ライヴのフロント・アクトを務めることになるステレオラブやイノセンス・ミッションなどにも似たエスプリが効いた1枚。素敵なアルバムではあるけれど、今聴いてももう一捻りが欲しいと思ってしまうのは、その翌年に出た初のスタジオ録音作『Flaming Swords』で急速にアレンジにメスを入れ、リズムにも大幅なヴァリエイションが備わったから。エクスペリメンタル・ポップとかジャズ風サイケデリックなどと喩えられたこのアルバムで、彼らが視野に入れていた音楽にトロピカリズモ時代のオス・ムタンチスやカンタベリー時代のケヴィン・エアーズなどが含まれていただろうことは想像に難くなく……もちろん、それは事実ではないかもしれないけれども、カラフルな音像で描く奇妙な室内ポップを表現してみせたのは間違いないところだった。
本作はそれ以来となるアルバムで、スタジオ録音作としては2枚目となる。音の方向性は前作とほぼ同じ。アレンジとリズムで徹底的に色彩を与え、こっちにくるぞと思わせてあっちに行く、あっちに行ったと油断をさせておいて、気がつけばこっちにいる、というような、まるで予測のつかない展開を数々の楽器によって演出している、そんな作品だ。管弦楽器、パーカッションが今作においても多く含まれていることからオーケストラル・ポップのような位置付けとして評価することもできるが、表向き二人組のこのユニットは実際にはサポートで非常の多くのミュージシャンが関わっており、その多くが実はギター。そんな中で今作では8人のメンバーを固定させているのも重要な事実だ。
さらに、前作との大きな違いは音の造形的な面白さと立体的な配置だ。アルバムのスタジオ制作がまだ2作目ということもあるのだろうか、レコーディングのいわゆるセオリーを無視しているのではないか? と思える瞬間が一つの曲の中にも多く顔を出す。管楽器の音が前に極端に出たり、さっきまでなかった音が突如聞こえてくるようなイビツさは、もしかするとミックスでの狙いなのかもしれないけれど、録音においては生のバンド編成でレコーディングし、そのテイクをクリックなしでオーバーダビングし、それをもとにまた演奏する、という面倒くさくて手間のかかる、そして着地点などまるでわからないまま行う作業を繰り返しやったのだという。できる限り典型的な流れや構造的な作業に反発する、それが今作の柱になっている姿勢のようだ。これで正しいのか、間違っていないのか、という正確なジャッジに疑問を呈して、誰がなんといおうと、これでいく、という我流なやり方で録音してみた結果がこれ、ということなのかもしれない。この作品を解体してスタジオでそれぞれのパートの波形を見たら、なんじゃこれとのけぞってしまうようなヘンテコな位相になっているような気もする。加えて、この音はどの楽器が奏でているのかを全て特定することもなかなかに難しい。なんというか、作曲物に涼しい顔をして演奏者と録音者が反発しているようなアルバムだ。もちろん、すべて彼ら自身なのだが。
にも関わらず、できあがった作品は、もちろん明後日の方向に行ったり来たりするようなアレンジではあっても、あらゆる音、あらゆる音楽から、ポップになりうる要素を抽出したような結果になっている。メロディそのものやヴォーカル自体は極めて軽やかで心地良いのに、その音の作りの断面は不気味なまでに難解、という倒錯が起こっているのも面白い。がめつさのカケラもない、ある種「間違った弱さ」を孕んだ音なのに、世の「正しき強さ」に静かに喧嘩を売っている音楽として成立させているようにも聞こえる。
メンバーのZachがかつて参加していたバンド、Blanche Blanche Blance時代の曲を改めて新録で収めた「Love Weapon」や、ケヴィン・スミス監督映画『ドグマ』(1999年/ベン・アフレック、マット・デイモン)をモチーフにした「As Above So Below」などキリスト教思想、神秘主義、オカルトなどをテーマにしつつも、どこか自嘲したような歌詞が多いのは、現代社会に向けたアイロニーなのだろうか。それはわからない。ただ、「⚫︎⚫︎は正義」というような、「正義には誰も文句を言うまい」的な論調が社会を窮屈にさせていることにみな気づいているはずであり、少なくとも今、ポップ・ミュージックに求められているのは、徒花と対峙したタフネスであり、また、純潔スレスレの無邪気さではないか、ということだけはよくわかるのだ。(岡村詩野)