Review

Ethel Cain: Perverts

2025 / Daughters of Cain
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憑在論のポップ・アプロプリエーション

22 January 2025 | By Rishi

ノイズまじりのローファイな録音。ドローン・ミュージックと亡霊じみたスポークン・ワード。Ethel Cainの新作『Perverts』を一聴した誰もが過去の音楽性との乖離ぶりに驚くと同時に、「憑在論」というある音楽的カテゴリを想起せずにはいられないだろう。

「憑在論」とは哲学者のジャック・デリダが自身の著作において初めて使用した言葉で、その後評論家のマーク・フィッシャーによってベリアル、ザ・ケアテイカー、ウィリアム・バシンスキーといった一連のアーティストに共通する傾向を言い表す用語として再解釈された。「もはやないもの」と「いまだ起こっていないもの」という時間軸上の二つの見えない潜在性が、今現前するものに先立ち、取り囲み、基礎づけている。そんな哲学的な思索をもとに、LPレコードなどのアナログな記録媒体につきまとう物質的な劣化をノイズの導入といった手法で再現、前景化する作品群が、「過去に録音された音」と「現に鳴っている音」との間に亀裂をもたらす憑在論的な音楽として論じられてきたのだ。

ここでマーク・フィッシャーが前提としていたのは「ポピュラー・モダニズム」の消失という事態だった。つまりポップ・ミュージックをはじめとするポピュラー・カルチャーにおいて、前時代の表現を乗り越え拡張し続けるような先進主義的な傾向がとうとう失われ、ノスタルジックな過去の様式の再生産ばかりが幅をきかせているという状況である。このような問題意識のもとに、過去のテクノロジーや記録の時間性に着目する憑在論的な音楽が、ポピュラー・モダニズムの消失に対する自覚的な表現として理解されたのだった。

憑在論をめぐるこれらの議論を踏まえたとき、『Perverts』はいかに解釈出来るのだろうか。

冒頭で述べたように、とりわけサウンド面での特徴において憑在論的な音楽との共通点が多いのが今作だ。例えばオープナーの「Perverts」の冒頭に挿入された賛美歌の蓄音機を思わせるローファイさと、ザ・ケアテイカーが多用するLP盤のクラックル・ノイズは確かに通じ合うように思えるし、そういった物質的な劣化の感覚とドローン・ミュージックを巧みに組み合わせ、亡霊的とも言える独特の情感を生み出すという大枠の発想において両者は共通している。

しかしながら、憑在論的とされるアーティストの多くが録音を通じて立ち現れる時間性に強く関心を持つのに対して、Ethel Cainの関心がむしろ人間心理の表現に向けられているという違いは大きい。リード・シングルの「Punish」が小児性愛者の自罰行為をテーマにした楽曲であることが彼女自身から語られているように、人間存在のダークサイドに貫かれた『Perverts』全体のトーンは著しく暗くホラー・ムービー的ですらある。そして憑在論的な諸々の意匠がそれを補強するために効果的に援用されているというわけだ。

加えて『Perverts』のハイライトをなす「Punish」や「Vacillater」といったラナ・デル・レイをさらに抽象化したような「歌もの」の楽曲の存在も、そのようなアプローチを回避する傾向にある過去の憑在論的な作品群と一線を画している。幽玄美を極めたような歌曲と禁欲的なドローン・ミュージックの間の繊細なバランス。これによって鋭いコントラストと緊張感の持続が生まれ、異形のポップ・アルバムとしての高い完成度が生まれていることは重要だ。

このような意味で同作は、YouTuber出身のシンガー・ソングライター、クアデカ(Quadeca)が憑在論的意匠と実験的なラップ・ミュージックを組み合わせて感傷的なゴースト・ストーリーに仕立て上げ、TikTokユーザーが「The Caretaker Challenge」に耽り、コーチェラの大舞台でラナ・デル・レイが華々しく彼の楽曲を引用した、近年の一つの流れの極北にして集大成だと言えるだろう。表層の意匠として憑在論的な音楽が解釈され脱文脈的に援用されること。憑在論のポップ・アプロプリエーションとも言えるこの潮流は、ベリアル、ザ・ケアテイカー、ウィリアム・バシンスキーといった一連のアーティストの批判性すらノスタルジックな過去の様式の再生産のプロセスに組み込まれたことを意味するのだろうか?それとも別の可能性を示唆しているのだろうか?──何にせよポップ・ミュージックがまだ死に絶えていないのかどうか、『Perverts』という作品が一つの試金石になることは確かだ。(李氏)

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