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ザ・クロマニヨンズ: MOUNTAIN BANANA

2023 / Ariola
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意味と無意味のあいだ

20 June 2023 | By Shoya Takahashi

最近気持ちが沈んだ時期にザ・クロマニヨンズの音楽を聴いた。甲本と真島という二人のリリシストによる着飾ることを知らない歌詞や、甲本の無垢でまっすぐな発声は、蔦の絡みついたわたしの心をときほぐしてくれたのである。「こたつねこ」(2007年)の「みかん、食べよう」という素朴な言葉は、ぼーっとなにをするでもなく目的もなく時間をただ過ごした夜を思いださせた。「炭酸」(2009年)の「ブロンズの景色に/そこだけがシルバー/いかれちゃう」のラインは、退屈や倦怠を炭酸飲料の刺激でなんとか誤魔化そうとするわたしの日常そのものだ。あまりに純粋なうたと、生まれて初めて観たライヴでもある彼らの演奏する姿とが重なって、ちょっぴり感傷的にもなってしまう。


そんな彼らのうたの力は、最新作『MOUNTAIN BANANA』でも保たれている。1曲目「ランラン」から、そのコーラスの歌詞に耳と心を奪われた。

夜明け前の公園で 世界はまっすぐだった
夜明け前の公園で 世界はすこやかだった
夜明け前の公園で 世界はまっとうだった
夜明け前の公園で 世界は正直だった

「だった〜」と歌う語尾のあとに残る、寂しさにも似た余韻たるや。ポジティヴな形容詞を並べることによる現状の不健全さや不条理さへの逆説的な叫びは、「永遠です、永遠です、永遠です」と歌うことでむしろ刹那的な激情をふるわせた「突撃ロック」(2012年)を思い出させる。「公園」と「世界」を対置することで語り手の孤独を感じさせる言葉は、「ハンマー(48億のブルース)」(1987年)で「外は春の雨が降って/僕は部屋で一人ぼっち」と歌ったザ・ブルーハーツ時代から薬籠中のもの。

少年のような純粋さで実存的な問いを投げかける手つきは、「よくあることだけどみんな欲張るからよく失くす大切なもの」と「Be Me」(2015年)で歌ったKOHHにたとえることもできるが、甲本と真島の言葉はその問いをあくまで、表層に浮かべておくことに終始している。

語りを表層的なものにすること。彼らの歌詞はしばしば“何か言っているようで何も言っていない”と捉えられる。それはひとつの側面では正しいとしても、もう一方ではキャリアを重ねるほどに意識的に、歌詞から意味をはぎ取っていったともいえる。ザ・ハイロウズとしての再始動以降はナンセンスに突き抜けながら、声や言語にまとわりつく装飾を解体した二人のリリシストは現在、ついに“うた”すらも分解しつつある。

うたとかけ声のあいだ。意味と無意味のあいだ。その境界をザ・クロマニヨンズは裸足で踏み越え、ただひとかたまりの声で咆哮する。先述の1曲目「ランラン」でも「ランラン走る ランラン走る」のラインは、走るの“run”と擬音としての“らんらん”とを行き来する。3曲目「ズボン」では「ボンボンボン ズー ボンボンボン ズー」と体裁を保てないほどに言葉を音に分解。さらに「結婚式 ズボン/葬式 ズボン/お寺にズボン/お座敷 ズボン」と連ねながら、ナンセンスなユーモアを原動力に、言葉の意味をむしろ過剰に増幅させていく。11曲目「さぼりたい」に至っては、「さぼりたい」という言葉をほとんど繰り返すばかり。執拗に。うたとギターとベースと太鼓をユニゾンさせるように打ちつけるリズムは、うたを意味のないフロウだけの声に変質させ、言葉が音のかたまりでしかないことに気づかされる。


ザ・ビートルズのデビューと同年に生まれた甲本は今年で還暦を迎えた。38年のキャリアを経てもいまだに毎年アルバムを発表するタフネスには脱帽するし、ますます無意味になっていく歌詞を指して洗練されていると表現することもできるだろうか。サウンド的にはストレートなパンク・ロックのほか、「イノチノマーチ」や「さぼりたい」のレゲエや、「もうすぐだぞ! 野犬!」や「キングコブラ」のポストパンク的な鋭いカッティング・ギターなど幅もある。ただメロディーのヴァリエーションも含めてどこか聴き覚えのあるモチーフも少なくなく、アイディアが尽きないというよりは、芸としてのロックンロール〜パンクを必死に守り続けているようにも見える。

真島と同い年である町田康はかつて、狂人と“いい人”、うどんと世界を並べることで「犬とチャーハンのすきま」、すなわち両極端の事物のあいだにどろどろと溜まった世間や個人的な感情の膿みのようなものを歌った。しかしザ・クロマニヨンズは「公園」と「世界」を並べることはしても、むしろアプローチは真逆である。つまり、そこに町田が歌ったような二項対立や、怒りや苛立ちに基づいて書き殴った記憶のメモはない。彼らはハッピーなヴァイブスしか残さない。「心配しても していなくても/時間はすぎる 同じだけ」(「心配停止ブギウギ」)なんて周囲の大人に言われたらムカつくけど、このアルバムの最終曲として聴いたらなかなかその気になってしまうね。

うたなんて声でしかない。言葉なんて音でしかない。意味なんて無意味の集積でしかない。音楽は思考や議論やマスゲームの道具ではない。ザ・リンダ・リンダズによる「リンダ リンダ」の演奏でのアイコンタクトのように、軽音楽部の部室から漏れ出ていたチャットモンチーのように、ちょっと感傷的でエモーショナル。それだけ。やはり意味や未来を考えすぎてしまって、彼らの言葉が必要になるときがこれからもあるでしょう。気持ちが弱っているときには彼らの音楽を聴くのもいいでしょう。なぜなら1987年の甲本がたしかに歌っていたように、パンク・ロックはやさしいから。(髙橋翔哉)


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