Review

MJ Lenderman: Manning Fireworks

2024 / ANTI-
Back

“弱さ”をただ、そのまま認める

01 October 2024 | By Yasuyuki Ono

ロックはいつも、僕の味方だった。味方になってくれたロックは誰しもが憧れるような輝きを持ったものでは必ずしもなかった。むしろ、ある種の“ダサさ”のもと、ナードな自分をときに嘲り、ときに弱さを眼前に提示しながらも生きるのだと歌う姿に、私は彼らを自分の味方なのだと思ってきた。ウィーザー『Weezer(Blue Album)』(1994年)が、アジアン・カンフー・ジェネレーション『マジックディスク』(2010年)が、ブルース・スプリングスティーン『The River』(1980年)が、バーティーズ・ストレンジ『Live Forever』(2022年)が、私を惹きつけてきたのは、ただ日々を生きているだけなのに、いつの間にか“ふつう”とされているルートから逸れ、“ふつう”の世界から、時代からこぼれ落ちていくあなたに対して、何か明確な答えを用意するのではなくただ存在を認めるというその一点にあった。それが僕にとってのロックだった。

ウェンズデイのギタリスト、MJ・レンダーマンのソロ・ワーク最新作である本作はまさに上述したような音楽と同じように私に届いた。おおらかで朴訥としたカントリー/フォークと、鋭利に磨かれ、爆発を繰り返すオルタナティヴ・ロックを巧妙なバランスで組み上げた滋味深くふくよかで、軽やかに駆けるサウンドと飄々と漂うチャーミングなヴォーカルに心奪われたのは間違いない。批評的な全面的バックアップをまるで約束したかのように作品がリリースされるたび、高得点を連発してきた《Pitchfork》が前作『Boat House』(2022年)についてオルタナ・カントリー的手法と、ファジーなギターをフィーチュアしたオルタナティヴ・ロックの幸福な混交を評価したように、本作においてもその傾向は顕著だ。しかし、それと同じくらい、いやそれ以上にレンダーマンの作品をレンダーマンの作品たらしめているのは彼のリリシズムにこそある。

イーグルス『Hotel California』(1976年)に収録され、新たな世代の台頭に取り残されていく人を歌った「New Kid In Town」の歌詞の一節、あるいはスティーヴ・アールの楽曲名を競走馬の名前として引用しながら、賭け事に霧中になるダメな嫌われ者について歌った「Manning Fireworks」。バットマンに登場するジョーカーを自らに重ね合わせた臆病な男が他人から嘲笑されながらも、日々をなんとか過ごしていく様を歌う「Jolers Lip」。悪夢のような、暗闇のような生活に対して膝を地面につきながらも耐えて生きる人間について歌う「On My Knees」。さらに「Wristwatch」では、Apple Watchを付けた中身のない孤独な男の姿を描き出す。

MJ・レンダーマンは繰り返し、繰り返し、人間の“弱さ”や“後ろめたさ”を歌う。そこでは弱さを哀愁や憐憫に収斂させもせず、その弱さを克服するのだとパターナリスティックにエンパワーメントするのでもない。解決策は何も提示されない。そこで歌われることは、負けたことをただ負けたと語りながら、何かを失ってしまった、もう後戻りできない生それ自体の存在をただ認めることだ。そのままではこの世界の端から足を踏み外してしまいそうな人間に対して、あなたを私は見ているよ、と語りかけながらレンダーマンは一人一人をこの世界へと繋ぎとめている。それこそが、レンダーマンの音楽を私にとっての“ロック”として掴んだ理由だった。その優しさと厳しさが同居したようなリリックは、彼が影響を公言するザ・バンドから、ニール・ヤングから、そしてボブ・ディランから受け取ってきた音楽のバトンなのだとも思う。(尾野泰幸)

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