都会の雑踏の中でも埋もれない頼もしさ
Kiss the gamblerの歌は、手強い。
人間として最も無防備でプライベートな部分にスルッと入り込んでくる。その結果、感想として出てくる言葉は、あまりにも純粋で、あまりにも素朴なものになってしまう。子供の授業参観やかわいい猫の動画を観た時のような。
そんな無垢なエネルギーによって、ほがらか、ファニー、自然体といった形容詞と共に語られることも多い彼女の歌だが、やはりそんなに単純なものではなかった。真偽と天地が絶えずひっくり返り続けるタフな現代社会に放り出された繊細な若者の絶望と、それをなんとか生き抜こうとする勇気、葛藤の中でも失われることのない優しさ。新作『Relax!』は、彼女の歌にはそうした切実な物語が含まれていることを、より明確な形で示している。
音楽に限らず、2020年代のカルチャーを見回してみると、これまでの社会の中では名前がついていなかった現象、目を背けてきた感情、いないとされてきた人々。あらゆる種類の不存在をじんわりと浮かび上がらせていく表現が、静かな波のように、同時代的に進行している。
その代表例をあげるなら、PMS(月経前症候群)とパニック障害をテーマにした三宅唱監督『夜明けのすべて』になるだろうか。また、自らのトラウマ治療のプロセスを克明に描いた写真家/文筆家の植本一子のエッセイ『愛は時間がかかる』、何者にもなれない非正規労働者を主人公にした冬野梅子のマンガ『まじめな会社員』なども、同じ文脈の中に位置付けることができるだろう。
商業映画から自費出版のZINEに至るまで、もはや一つのムーヴメント(といった大仰な看板は似合わないが)と言ってもいいこの流れに対する音楽からの回答として、このアルバムほどふさわしいものはないのではないか。若者たちを取り巻く経済的な問題とそれに伴うメンタル・クライシス。これまでのポップ・ミュージックにおいて取り上げられることのなかったテーマに向き合った作品のように聴こえるからだ。
診療時間外になんらかの精神的不安定になりクリニックへたどり着くまでの過程を歌った「ひとりで決めない」はその最たるものだし、「Winter of 96」の“君を苦しめる人から離れて”というサビも、精神的な緊急避難を切実に呼びかけているように聞こえる。「与えてばかりの僕に」の“いつもあたたかい愛情を受けて育ったから 君にあげるよ”というフレーズにしても、そうではなかった誰かがいなければ成立しないだろう。
それらの不安や問題を誘発した原因が直接的に語られることはないが、“フルーツパーラーを食べようね/僕が払ってあげるから”(「ひとりで決めない」)という具体的な(かつ少額の)金銭のやり取り、“駅のベンチでサラダを食べる女性”という若者のポップ・ソングにはなりえない光景を切り取った「サラダステーション」の描写は、地価ばかりが高騰する大都会に生きる名もなき人たちの経済的・社会的な困難を示唆しているように聴こえる。
そんな長い前置きを踏まえて、もう一度先行配信された「かっこよくなんかならなくていい」を聴いてみたい。最初に聴いた時に感じる、NHKみんなのうた的な無邪気さとぴったり重なるように、のっぴきならない状況にいる誰かを救うための言葉を、懸命に紡いでいる姿が見えてこないだろうか。こんな重い解釈は彼女の意図したものではないかもしれないが、この曲をアルバムの中で聴いて、私はKiss the gamblerというシンガーの頼もしさを初めて理解できたような気がしている。ほがらかでファニーでプライベートな彼女の歌は、彼女だけのものではなく、今を生きる彼ら/彼女らのものであり、もしかすると私のために歌われているのかもしれない、と。
メッセージ性を増した楽曲に呼応するように、鈴木正人(LITTLE CREATURES)、石井マサユキ(TICA)、Shingo Suzuki(Ovall)といった手練のアレンジャーを迎えたサウンドも、親密な質感を保ちつつ、都会の雑踏の中でも埋もれないだけの輝度をもたらしている。この歌を必要とするすべての人に届けるための準備は万全だ。(ドリーミー刑事)