Review

Jake Xerxes Fussell: When I’m Called

2024 / Fat Possum
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バラッド──それは歴史のカケラ、現在の風景、そして警告

16 July 2024 | By Shino Okamura

「銃を街に持っていくことが男の証明になると考えるのは、ちょっと待った。そうはならない可能性も考えておくほうがいい──まだ時間が残っているうちに」

これはボブ・ディランによって書かれたジョニー・キャッシュ「Don’t Take Your Guns To Town」についての文章の一節だ(ボブ・ディラン著『ソングの哲学』より)。ディランはここで「警告のうたである」と書いているし、そして実際にその通りの歌ではあるのだろうが、そもそもなぜここで若き主人公の“ビリー・ジョー“は銃を持って出かけたのだろうか、ということを私はこういう“事件“があるたびにふと思い出して、歌詞に目を落とす。

さきごろ、ドナルド・トランプが演説中にライフルで狙撃された。前大統領に向けて銃を放ち、逆に警察に銃殺された犯人が20歳の青年だと知った時、やはりふと頭に浮かんだのが「銃を街に持ち込むな」という邦題がつけられたジョニー・キャッシュの1958年のこの曲だった。タイトルは繰り返される歌詞の一部で、母親が外出しようとする息子“ビリー・ジョー“に泣きながらかけた言葉が「街には銃を持っていかないで(Don’t Take Your Guns To Town)」。歌詞の顛末は、それこそディランが書いているように「始まった時から終点が見えている」もので、ビリーはバーであおった強い酒が命取りになってカウボーイに先に抜かれて死ぬ。もちろん、今回のトランプ狙撃事件とはそもそもの動機や状況、時代が全く異なるわけだが、まるで民間伝承として歌い、語り継がれることを想定したかのようにキャッシュによって書かれたバラッド……そう、ある種の警告、教訓をも含んだマーダー・バラッドを、ライフルを手にして家を出る前にあの20歳の青年が聴いていたらどうだっただろうか、と思ってしまうのだ。あるいは、今頃青年の母親は号泣しているだろうか、と。

平野敬一の『バラッドの世界』には、「(バラッド)は本来社会の被疎外者たちが好むもの(だった)」と記されているが、その点で言えばまさしくジョニー・キャッシュは社会の被疎外者でありアメリカのバラッド・ミュージシャンそのものであり、そしてジョージア州コロンバス出身のこのJake Xerxes Fussell(ジェイク・ゼルクセス・ファッセル……ミドルネームの正式な読み方はイマイチ不安なので各自確認してください)は間違いなくその継承者、系譜上に位置する人だ。《Fat Possum》移籍第一弾となる本作は彼にとって5枚目のアルバムだが、これまでも一貫してアメリカの田舎……とりわけ南部の民話をモチーフにしたような曲を歌ってきた。民俗学者だった彼の父親の影響もあったのだろう、キャリアの初期には音楽史家のジョージ・ミッチェルや民俗学者のアート・ローゼンバウムらと南部の伝承音楽を多数録音したりもしている。2015年に発表されたファースト・アルバム『Jake Xerxes Fussell』はアメリカン・プリミティヴ系ギタリスト/シンガー・ソングライターのウィリアム・タイラーがプロデュースしていたし、折に触れてトラッド・ソングをカヴァーしてきた末に、ボニー“プリンス“ビリーも参加した前作『Good And Green Again』(2022年)では約半数をトラッド・ソングのカヴァーで占めた。

この新作においては、どこまでがトラッド、バラッドのカヴァー(引用)で、どこからがジェイクのオリジナルなのかの境界がいい意味で曖昧だ。実際に英国の童謡でマザー・グースの一篇である「Who Killed Cock Robin’(クックロビン)」にオリジナルで曲をつけたものもあるし、あの「Twinkle, Twinkle Little Star(きらきら星)」の歌詞を書いたとされる詩人のジェーン・テイラーと、作曲家のベンジャミン・ブリテンといういずれも英国出身の二人の名前がクレジットされた「Cuckoo!」もある。「Going to Georgia」や「Leaving Here, Don’t Know Where I’m Going」あたりは、2022年に亡くなるまでジェイクが師事していた前述のアート・ローゼンバウムが蒐集したオムニバス『Folk Visions & Voices: Traditional Music And Song In Northern Georgia』がインスピレーションの起点となっている。ジェイムス・テイラーの歌唱でも知られる「One Morning in May」も17世紀の英国でトレースされた有名なバラッドの詩がもとになっているのだろう。映画監督のレス・ブランクによるドキュメンタリー『The Maestro』で聴ける「Andy」(アンディ・ウォーホルをモチーフにしたもの)や、歌詞においてブレイクダンス(!)が出てくるタイトル曲など時代もマチマチだ。サウンドも、いわゆるアパラチアン・フォークからシーシャンティ系、ロンサム・ロード系の曲まで、クレジット上で作り手を特定することがもはや不可能とさえ思えるような曲が並ぶ。そういえば、現在、TikTokではシーシャンティ系の海の歌、海の労働歌がバイラルになっているようで、全く時代の動きは読めない。不思議な現象だ。

動植物が育む力強く美しい風景、そこから窺い知ることができる神秘と謎、そして人間もまた自然界の一部であらんとする謙虚な目線で描かれた物語……これらにおいては一貫している。しかしながら、バラッドこそが幻のエル・ドラドであらんとするかのごときジェイクの作品は、一聴すると浮世離れしているようで、これが意外に世相を反映したもの、現代との連続性が感じられるものが多い。例えば「Going to Georgea」は、男性がほとんどいなくなってしまったこと、若き女性たちがそこに残されていることが刻まれた歌詞だが、これなどは現在のウクライナやイスラエルの状況を鑑みるまでもなく、戦争によるシリアスな現実を扱ったものだろう。

プロデューサーは前作同様、ジェイムズ・エルキントン(ジンクス、イレヴンス・ドリーム・デイ、ブロークバック他)。彼がすべての弦楽器アレンジを行い、管楽器のアレンジもジェイクと共同で仕上げたという。その際参考にしたものの一つにペルーのワイニョ音楽もあるそうだ。作者不詳なバラッドが世界各地で歌い継がれてきたことが転じて、時代を超えて現代社会を描く風刺となっていることを、ジェイクは理解しながら、ジェイムスと共に曲の断片をパッチワークのように繋いでいって完成させていったという。ゲストとしてなんとブレイク・ミルズ、ジョーン・シェリー、ロビン・ホルコムらも参加。ミックスはタッカー・マーティン、マスタリングはジョシュ・ボナティが担当、カヴァーの線画はケヴィン・マクナミー・ツイード、レタリングと表紙デザインはジュリアン・アレクサンダー、パッケージのレイアウトとデザインはマックス・タウシェルが受け持った。

数々の蒐集家たちによって集められたフィールド・レコーディング作品を、単なる歴史のカケラ、バラッドの化石と思ってはならない。そして、フォーク音楽と切り捨てることにも抵抗を持て。これは生々しい現在の風景であり、警告、批評である。ジェイクは自身の活動を通じて、そんな今も生きうるラディカルな音楽の断面を伝えようとしている。(岡村詩野)



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