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SEVENTEEN AGAiN: 光は眩しいと見えない

2025 / only in dreams
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“普通”の歌

09 July 2025 | By Yasuyuki Ono

SEVENTEEN AGAiNには、キャリア初期からの代表曲といえる「Nobody Knows My Song」という楽曲がある。かつてベースを担当するメンバーでもあったOSAWA17(THE SENSATIONS)が主宰するパンク・ルーツのインディー・レーベル《I HATE SMOKE RECORDS》と安孫子真哉がチーフ・プロデューサーを務める《KiliKiliVilla》からこれまで6枚のアルバムをリリースしてきた、15年以上のキャリアを持つ彼らのライヴでも頻繁に演奏されていて、個人的にはこの曲が2010年代以降のアンダーグラウンド・パンクのアンセムだと思っている。一歩間違えれば弾け飛びそうなほどギュウギュウに圧縮されたエレクトリック・ギターと跳ね回るベースとドラムにのって、藪雄太の優しく絶叫するヴォーカルに、1stアルバム『NEVER WANNA BE SEVENTEEN AGAiN』(2009年)に収録された音源を、ライヴでの演奏を、YouTubeにあるライヴ映像を見るたびに私は助けられている。「誰もボクの歌を知らない」という楽曲名にある通り、この曲は自分の作った歌が誰からも見向きもされずに朽ちていくかもしれない不安と、それでもこの歌を誰かが、いつか、どこかで見つけて大切なものにしてくれるかもしれないという確証のない、けれども心のどこかに引っかかって離れない期待が歌われている。歌詞を少し引用させてほしい。

As time goes by, this record and me fades and weathers./If you took this record up from a trash can./Only that’s enough for me./Only that’s enough for me./Nobody knows my song.(時が経つにつれて/このレコードとボクは色褪せ、次第に薄れていくんだ/キミがもしもゴミ箱の中からこのレコードを取りあげてくれたのなら、それだけでボクは十分なんだよ。/それだけで充分なんだ)

自分の意志とは関係なく打ち捨てられてしまったモノ、ヒト、世界への終わりのない祈りのような歌。それが「Nobody Knows My Song」なのだと思う。さらに、3rdアルバム『少数の脅威』(2015年)に収録された(彼らが定期的に主宰するイベントのタイトルでもある)「リプレイスメンツ」を、4thアルバム『スズキ』(2017年)のリード・トラックである「Scrap&Craps」や「DANCING IN THE TRASH」を聴くと、時流に意図せず取り残されて行ってしまうかもしれない運命を受け入れながらも、それでも何かを続けていくということの美しさと逞しさを、無垢な祈りのようにSEVENTEEN AGAiNは歌い続けてきたバンドだったのだと思い至る。

彼らにとって七枚目のオリジナル・アルバムとなる本作『光は眩しいと見えない』も彼らの祈りのような歌であふれている。そよ風のようなクリーン・トーン・ギターが光る「あらゆる祈りを使って」。まるで嗚咽かのような情感をたっぷりと湛え響くギターとベースが空間を埋め尽くす「STAY GOLD」。バンドの体制が変わるごとに再録を繰り替えしてきたパンク・チューン「FUCK FOREVER Ⅲ」に弾丸のようなエレクトリック・ギターとドラムが弾ける「つづき」。そのどれもが、体全体から迸る激情を表現しているようでいて、肌理細やかで柔らかな質感を伴い耳に届いてくるのは、バンドが奥底で有している、置いてけぼりにされてしまったモノへ差し伸べられた救いの手のような優しさが、彼らの歌の奥底にあるからなのだと思う。

さらに、リアル・エステートやスミス・ウエスタンズのようなインディー・サーフのメランコリアとセンチメンタリズムを注入した「新繁華街」や、タイトルの通り目を開けていられないほどに眩く輝くメロディーが印象的なショート・チューン「光は眩しいと見えない」といった楽曲も印象的。そのようなバンドの基軸となっているパンクに留まらない軽やかさがSEVENTEEN AGAiNというバンドの魅力だが、本作のハイライトはけば立ったエレクトリック・ギターが飛び散るアルバム・オープナー「どんな言葉もただ通り過ぎていく」。そこで「なにより普通になりたい」と藪は、空へ祈るように、歌う。願いのような音楽で、本作は満ちている。

彼らの2ndアルバム『Fuck Forever』(2012年)の歌詞カードには、A Page of Punkのクボ ツトムが寄せたコメントが書かれている。そこでクボは、同作を音楽とは別の職業を持ち働きながら制作された「僕や君と同じ人、隣の人が、友人が、作った、「普通の生活」の中から生まれた、アルバムなのだ」と記している。“普通”。定義が極端に難しく、常にその外縁を時と場所に応じて変化させるこの言葉は本作のキータームでもある。“世界でもっとも普通なアルバム”だと、本作についてバンドはいう。一人一人にとって異なる“普通”を演奏し、歌い続けるということは単純なようで、最も難しいことのひとつなのだと思う。それでもSEVENTEEN AGAiNは“普通”に、“普通”を歌い続ける。「僕らは間違う/あたなとは違う/それでも交わる/わからなくても」(「あらゆる祈りを使って」)と。他者とは絶対的な違いがあり、最終的にはわかり合えないものだという思いを所与のものとして折り込み、伝わるかどうかわからないけれども伝えようとすることを諦めず、コミュニケーションを駆動させていくこと。それは一人一人の“普通”というものの違いを認めたうえで、それをそのまま肯定するような、当てどころのない祈りにも似ているのだと思う。SEVENTEEN AGAiNはいつも優しく、強く、歌い、演奏し、祈り続けている。そのように転がり続ける日々の積み重ねが、バンドが大切に抱きしめている“普通”を形作っているのだろうと想像する。(尾野泰幸)

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