不定形で液状、スライム状、アメーバ状、あるいはリゾーム状の音楽
アルト・サクソフォンなどのマルチ奏者で即興演奏家、ビートメイカー/プロデューサー、作曲家など。複数の肩書きを持つhikaru yamada(以下、山田)による最新のプロジェクトは、かつて彼の活動の中心に位置していたサンプリングとヴォーカルによるポップ・グループ、hikaru yamada and the librarians(以下、ライブラリアンズ)のニュー・アルバム『Blank in Our Spirits』である。山田の主要な作品としてはhikaru yamada and metal casting jazz ensemble(以下、mcje)名義で2021年にリリ-スしたアルバム『moon』から4年ぶりではあるものの、そのあいだにも様々な客演やライヴ/パフォーマンスへの参加をおこなっており、携わった作品の詳細は彼のディスコグラフィを参照してほしい。彼へロング・インタヴューをした際に作成したリストだが、改めて更新している。
ライブラリアンズとしての活動は、山田が大学生時代、ロシア留学から帰国した2012年にスタートしている。2014年の『genre music → genre music』、2015年の『the have-not’s 2nd savannah band』、2018年の『Everything drops except stamps』とこれまでに3つのアルバムを発表しており、この『Blank in Our Spirits』は4作め。山田の音楽ライブラリーからあるキーワードで曲名を検索し、出てきたものをサンプリングしてつくったビートに歌を乗せてポップ・ソングにする、というのが、ライブラリアンズの基本的な制作技法である。以前は穴迫楓が歌を担っていたが、2023年に北川梓が新たなヴォーカリスト兼マルチ奏者として加入したことに伴って、停滞していたライブラリアンズの活動はリスタートした。
『Blank in Our Spirits』は、まさに新生したライブラリアンズのファースト・アルバムと呼びたい新鮮な驚きに満ちている。そもそもライブラリアンズでは生楽器をほとんど用いていなかったそうだが、今回は「サンプリング素材の上で即興的に演奏したインストゥルメンタルが主体の音楽」だとプレスリリースで説明されている。これにはおそらくmcjeでの制作が影響しており、というのも、mcjeのアルバムは、山田が組んだビートにあわせてプレイヤーがそれぞれ互いの演奏を聞かずに即興演奏をおこない、それらの事後的な編集によって編みあげられたものだったから。mcjeの合奏を山田は、「中心を欠いたアンサンブル」と呼んでいた。
と、かように山田の作品は常にコンセプチュアルであり、説明的な説明が長くなるのだが、本人はしばしば「そういう縛りでもないと曲をつくれない」とようなことを言う。コンセプト=制約から出発して、ある一定のルールのなかで創作する、というのが山田という音楽家の個性のひとつなのだろう。
私は、このアルバムを聴く直前までジョン・コルトレーンの『Meditations』をなんとなく聴いていた。続けて『Blank in Our Spirits』の1曲め「Acacia dub」を再生したとき、コルトレーンの作品を誤って再生してしまったのかと思って驚いた。「わざとらしいスピリチュアルジャズ風」(山田からのDMより)の演奏が突如始まり、アルバムは幕を開ける。
「Acacia dub」は、「わざとらしいスピリチュアルジャズ風」の演奏が徐々にダブワイズされながら、32秒間続いたあとに井谷享志のドラムが飛びこんでくる。そして、ドラムの打音がチョップされエディットされたパートが始まり、オートチューンがかけられた歌がのっていく。
ダブは、あきらかに本作の大きなテーマのひとつだ。「ornate dub」、「spikenard_dub」と、ダブが曲名に冠されたものはほかに2つある。山田の音楽的な志向はここで音響に向かっており、過剰な反響や残響の快楽の沼に沈みこんでいる(あの水琴窟のようなリバーブの音の気持ちよさといったら!)。なお、「アナログシンセのフィルター部やディレイ・スプリングリバーブを使ってリニアダブ編集」(プレスリリースより)したこと、「(「and Gold」は)YAMAHA MQ802という70年代のミキサーにDAWからパラで立ち上げてリアルタイムダブミックス」(Xのポストより)したことが明かされており、かなりオーセンティックなダブのつくりかたを採用したようだ。ライブラリアンズはDAW上でのカット&ペーストを得意としてきたが、推測するに、ハードウェアに対するオブセッションが増したのだろう(山田は近年、Xで頻繁に機材の売買について言及している)、デジタルで仮想的な編集とアナログで手仕事的なエディットが共存した独特の制作方法に至ったように思える。
8分もある「Acacia dub」のランニング・タイムのちょうど真ん中に差しかかったころ、シンセサイザーによるソロのようなものが始まり、以降、歌が現れることはない。その後、5分29秒からは、フリー・ジャズ調のサックスの叫びが挿入される。「曲が長いのは、サンプリングビート+歌の部分と、そのビートを聴きながら即興演奏した楽器パートだけ残してる部分があるからです。伴奏でも無いしソロでも無いダラダラした演奏が続く2人mcjeみたいな感じで、そこで抜き差しやディレイでダブをやっている」(DMより)と山田は言う。どこに行きつくのかもまったくわからないまま、ピアネットのさびしげな演奏だけを残して曲は終わる。
mcjeのアルバムにおいても同様のことを感じたが、山田の近年の作品には一般的な曲構成・構造が、すくなくとも私には聴きとれない。いや、曲構成がないというか、いわゆる大衆音楽的なパートがループ/反復する形式(たとえば、ポップ・ソングのAABA形式やAメロ→Bメロ→サビ、ジャズのテーマ合奏→ソロのアドリブ/インプロヴィゼーションといったもの)がないのだ。A→B→C→Dと付け足していき、ひたすら前に進んでいくリニアな構造であるように聞こえる。それは、即興演奏の経験とポストプロダクションに対する執着からくるものなのだろうか。思いだしてみれば、feather shuttles forever名義の「提案」はポップ・ソングだが、5人のヴォーカリストによるマイク・リレー形式になっており、繰り返される部分は一部あるものの、メロディが変化していくこともあって反復感がない。だからこそ、ポップ・ソングとしては異様な曲構成に聞こえる。
それから、山田は、いま歌詞を生成AIに書かせているという(自分には歌詞が書けない、とよく言っていた)。たとえば、アルバム中もっともポップで軽快かつ流麗なメロディを聴かせる「Constantinople」は、AIにローマの水道橋に関する論文を「餌」として与え、そこから吐きだされた歌詞を採用したのだという。
反復を感じさせないリニアな曲構成、ひとが書いたものを人工知能が模したリリック、そしてダブワイズで加工された音響が絡まりあうことによって、『Blank in Our Spirits』という作品は、じつに不定形で液状、スライム状、アメーバ状、あるいはリゾーム状の音楽に聞こえる。つまり、これは、mcjeとおなじく中心を欠いたポップ・ミュージックなのだ。
一方で、結果的になのか、山田の作品にしては珍しく、ヒップホップ感が増したとも感じた。「ornate dub」は『Madvillainy』をキーボードとドラムでカバーしていたDOMi & JD BECKの演奏に近いものがあるし、「ornate vessels」や「spikenerd_dub」のループ感覚はマッドリブやフライング・ロータスのビートのようですらある。プレフューズ73的なチョップが前景化するよりも前に、よりヒップホップらしいムードやフィーリングが響きわたっているのはなぜなのか。
ヒップホップのプロダクションにおいては、生演奏とサンプリング・編集が入れ子状になっている。マッドリブやSTUTSがやったようにバンドを編成して生演奏したアンサンブルをサンプリングしてビートにしたり、フライング・ロータスが生演奏に傾倒したりと、ヒップホップの入れ子状のありようは2000年代以降、より複層化した。山田がここで試みたサンプリング・編集→生演奏→ダブワイズ・編集というような制作の工程は、ヒップホップの奇妙な変化の過程の尖端に位置しているように思える。
毛玉の黒澤勇人や増村和彦が参加していることなど、山田らしいコネクションが表れたプレイヤーたちの参加にも注目したいものの、個々の演奏よりも、やはり、編集の手つきやサウンドの質感といったものにどうしても耳が持っていかれてしまう。山田がいっさい楽器を演奏していなくても、彼が編む作品はかならず山田の音になる。それほどにユニークなプロデューサーであるし、このエキセントリックなアルバムは、その仕事の唯一無二性を端的かつ明快に証明している。(天野龍太郎)
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