シーンの標石となるような、ニューヨーク拠点のシンガー・ソングライターによる佳作
一人のシンガー・ソングライターとそのアルバムの話を先にさせてほしい。2023年を代表するフォーク・アルバム『I`m Green』をリリースした、マリ・ヴェラスケスについてだ。私はその『I`m Green』について、昨年の《TURN》年間ベスト・アルバムに寄せた原稿で、以下のように書き残した。
フォークをベースとしながらアンビエントからグランジまで至る多面的なサウンドと、自らのルーツやセクシュアリティ、他者との関係性の困難を記した胸をえぐるリリックで巧みに構築された本作は、現行インディー(・ロック)の中心的存在となっているエイドリアン・レンカーやフィービー・ブリジャーズら、現代の“フィメール・シンガーソングライター”の系譜を総括するような迫力と気概に満ちている。
ここには一つの視点が存在している。エイドリアン・レンカー、フィービー・ブリジャーズ、ミツキ、ジュリアン・ベイカーなど多くの才能が萌芽し、“発見”された2010年代後半以降のフィメール・シンガーソングライターのシーンは、既にリファレンスとして歴史化されているのではないかという視点だ。ここでいう歴史化とは、それらの音楽や表現が、陳腐で、時代遅れなものとなったということではなく、スタンダードとして歴史の一部に大きな礎を築き、後続の音楽家たちの土台となっているというポジティヴな意味を有している。ジュリアン・ベイカー『Turn Out the Lights』が2017年、ミツキ『Be The Cowboy』が2018年、フィービー・ブリジャーズ『Punisher』とエイドリアン・レンカー『Songs / Instrumentals』が2020年というそれぞれの作品リリースからの時間の経過を考えれば、それが決して短い時間ではないことが改めてわかる。オアシス『Definitely Maybe』(1994年)が、ウィーザー『Weezer (Blue Album)』(1994年)が、ストロークス『Is This It?』(2000年)が、ボン・イヴェール『For Emma, Forever Ago』(2008年)が、はたまたフランク・オーシャン『Channel Orange』(2012年)がそのリリースから数年で残した影響を振り返れば、4~5年という歳月は一つの歴史として振り返るに十分な時間であることが改めて意識できるだろう。
閑話休題。この度、最新作となるセカンド・アルバム『Heart of the Artichoke』をリリースしたブルームスデイは、マリ・ヴェラスケスとダブル・ヘッドライナー・ツアーを行うことが先日発表された。この二人の共演は次代のフィメール・シンガーソングライター・シーンを担うミュージシャンがそこかしこで生まれ出ていることを、予感させる素晴らしい組み合わせだと思った。
ブルームスデイは、ブルックリンを拠点として活動するシンガー・ソングライター、アイリス・ジェイムス・ギャリソンによるソロ・プロジェクトである。2020年からのパンデミックのなかでひっそりと書き留めた楽曲によって構成されたアンビエントと、サイケデリックな質感をフィーチュアして構成されたインディー・フォークの佳作『A Place to Land』(2022年)リリース以降、コートニー・バーネットやベッカ・マンカリと共演するなど、ニューヨークのインディー・シーンを拠点としつつ活動の幅を広げてきた。
その前作から2年ぶりにリリースされた本作は、彼女と度々ライヴで共演しているニューヨークのインディー・バンド、Babehovenのライアン・アルバートが共同プロデュースを担っている。さらに同バンドのマヤ・ボンや、ニューヨークで活動し、彼女と共演経験もあるh. pruzのハンナ・プルジンスキーもコーラスで本作に参加しているように、彼女が活動の中心としてきたニューヨークのインディー・コミュニティが本作を支えている。他方、アンドリュー・スティーヴンス(LOMELDA、Hovvdy等の作品に参加)やクリス・デイリー(Tomberlinの作品に参加)を本作に招いているように、自らのコミュニティを飛び越え挑戦的に本作は制作された。
ブルームスデイが本作制作前によく聴いていた作品にビッグ・シーフ『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』(2022年)を挙げ、作品制作の指針となるミュージシャンとしてエイドリアン・レンカーに言及しているように、本作がそれらの音楽の延長線上に位置づけられる作品であることは確かだ。耳元で囁かれるような体温を感じるヴォーカル録音と環境音の挿入が印象的な「Carefully」や、アンビエントな音像で没入感のあるインストゥルメンタル楽曲「Night Swim」、スネア・ドラムが楽曲全体を先導しバンド・サウンドが踊りまわる「Object Permanence」などにビッグ・シーフやエイドリアン・レンカーの作品からの影響を感じることができるだろう。さらに、アコースティック・ギターをベースとしながら朴訥と始まり、後半にヘヴィーなエレクトリック・ギターを挿入し音の厚み増しながら壮大に展開する「Where I End and You Begin」にはフィービー・ブリジャーズの姿を感じる瞬間もあり、彼女の作品がまさに上述したきたフィメール・シンガー・ソングライターたちによる音楽を血肉としながら構成された作品であることが本作の随所から感じることができる。
ポピュラー音楽、いや表現文化の多くはその歴史化と不可分なものとして存在している。ポピュラー音楽は様々な場所や時間で聴かれることで、時にある特定の歴史として固定され、ときにその固定化された歴史から脱文脈化されるという歴史化/脱歴史化のダイナミズムの中でその魅力を増していくものだと思う。「過去の亡霊がまだ現れては私を悩ませているが、私はいま自分が持っているモノの中に座って、その亡霊を見ているのです」とブルームスデイは本作について語る。その発言は記憶や愛、友情といった時とともに形を変える感情について歌った本作のリリックについて述べたものかもしれない。他方、その発言からは、上述したようなフィメール・シンガー・ソングライターの作品群という、ブルームスデイの体の中にしみ込んだ音楽と向き合いながら、時にそれを受容し、時に逆らいながら音楽を生み出す彼女の姿を想像することも可能だろう。まとめるならば、本作は近年のフィメール・シンガーソングライターたちが生み出した多くの音楽が歴史化されていく道中に置かれた標石のような作品だ。本作の眼前に伸びていく前もよく見えない道がどこにつながっているのかはわからないが、周りを注視しながらこの道をもう少し、迷いながらでも進んでみようと思う。(尾野泰幸)
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【REVIEW】
Mali Velasquez『I`m Green』
https://turntokyo.com/reviews/im-green/