ルーツとの再会、新しい出会いが生んだ新境地
来年(2026年)でデビュー30周年を迎えるアルゼンチン出身のシンガー・ソングライター、フアナ・モリーナ。オリジナル・アルバムとしては8年ぶりとなる新作は、彼女のキャリアの中で重要な作品になりそうだ。タンゴ歌手の父のもとに生まれ、ミュージシャンになることを夢見ながらもコメディアンとしてブレイクしたフアナは、産休をきっかけに念願の音楽活動を90年代初頭にスタート。セカンド・アルバム『Segundo』(2000年)が高い評価を受け、今ではアルゼンチンのオルタナティヴな音楽シーンを代表するアーティストになった。そんな彼女は前作『Halo』(2017年)以降、《Crammed Discs》傘下にレーベル、《sonamos》を設立。そこからウルグアイ音楽の名盤『Musicasión 4 1/2』(1971年)を再発した。エドゥアルド・マテオをはじめ多彩なアーティストが参加して、ロック、タンゴ,ボサノヴァなど様々な音楽と演劇、詩の朗読が交差する舞台を記録した『Musicasión 4 1/2』は、フアナが子供の頃に聴いて大きな影響を受けた作品。さらに《sonamos》からは『Segundo』が再発されたりと、《sonamos》という新たな活動拠点を築きながら、6年の月日をかけて作り上げたのが『DOGA』だ。
フアナはキーボード奏者のオディン・シュワルツと2人で即興演奏のライヴ・シリーズ、「Improviset」を2019年にスタートさせたが、それが『DOGA』へと繋がった。2022年にスタジオに入ったフアナは、「Improviset」で録音した音源をもとに新曲の制作に入り、2年間にわたって曲を書き続けた。その結果、新作を3枚組でリリースすることを考えるくらいのデモが生まれた。それを一枚のアルバムにまとめるうえで、外部の意見を取り入れようと考えたフアナが声をかけたのが、ソロ以外に架空の部族の民族音楽をコンセプトにしたユニット、クラン・カイマンとしても活動するエミリオ・アロだった。2000年代にフアナをはじめ実験的な音楽性を持ったアルゼンチンのミュージシャンが“アルゼンチン音響派”と日本で呼ばれたことがあったが、アロはアルゼンチン音響派の新世代とも言えるミュージシャン。最近では日本のシンガー・ソングライター、mmmの新作『Burnt』に参加するなど海外でも活躍している。
「これまで一緒にやったアーティストの誰よりも多くのものを、アロは私から引き出してくれた」とフアナは公式サイトでコメントしているが、アロはフアナに大きな刺激を与えた。アロもフアナとのコラボレートに夢中になって、フアナがギターを弾くとアロはそこから様々なアイデアを思いついて彼女に提案したという。アンビエントなインスト作品を作ってきたアロは、その音響的な感性と技術を『DOGA』に惜しみなく注ぎ込んだ。
これまでもフアナはエレクトロニックなサウンドを取り入れてきたが、今作のプロダクションはこれまで以上に細やかに作り込まれている。とくに際立っているのがミックスだ。フアナの曲には直感的で生々しい手触りがあるが、本作では音の緻密なレイヤーがフアナの歌を包み込み、滑らかで奥行きがある空間を生み出している。そこにアロの貢献が光っていて、音の解像度が上がりながらも、フアナの歌が持つ神秘的な空気は失われていない。反復するミニマルなフレーズ。土着的ともいえる奇妙なメロディー。まるで民族楽器のように聞こえるエレクトロニクス。そうしたフアナの音楽のエッセンスをヴァージョンアップしたような新鮮さがアルバムにはある。そこにアロから受けた刺激だけではなく、彼女の音楽的なルーツである『Musicasión 4 1/2』に再び向き合ったことも大きかったはず。再発する際に未発表音源を発掘したフアナは、その素晴らしさに驚愕したらしい。『Musicasión 4 1/2』同様にプリミティヴさと洗練が同居する『DOGA』からは、30年というキャリアを経て今も新しい音楽を生み出そうとするフアナの好奇心と情熱が伝わってくる。
アルバムのジャケットに描かれた人面犬のような不思議な生き物。その頭部を見て、金髪の間からフアナが少しだけ顔をのぞかせた『Segundo』のジャケットを思い出した。金髪は白髪になり、サウンドは深化して、ジャケットの生き物のようにますます謎めいた存在になったフアナ。自身のルーツと若い才能に触発され、《sonamos》からリリースする初のオリジナル・アルバムとなった本作は、彼女が新たなステージに立ったことを告げている。(村尾泰郎)

