未定義のカントリー
昨年、ロンドンのインディー・アーティスト=レイチェル・チヌリリが、ジンバブエにルーツを持つというだけでR&Bアーティストと紹介されることに不満を表明していたことを、杉山慧氏のレビューで知った(レイチェルはドーターやコールドプレイからの影響を公言している)。自分は、白人インディー・ミュージシャンや女性シンガーソングライターの作品、あるいは『シビル・ウォー』や『サブスタンス』のような映画が、常にリベラルな視点から“のみ”語られ批評される傾向に疑問を抱かずにはいられない。どっち側から言及してもいいのに。Ella Mooreは、以前はインディー・ロック・バンド=プリティー・シック(Pretty Sick)の元ギタリストとして《Dirty Hit》で活動していたアーティストだ。Ellaはバンドを脱退し、シンガーソングライター=Cleo Reedとしてのデビュー・アルバムをリリースした。タイトルは『Cuntry』。
《Pitchfork》のレビューでは、Cleoの『Cuntry』を「アメリカのフォーク音楽の伝統に根ざした」作品と位置づけ、ニューヨーク在住のクィアの黒人というCleoの視点から紡がれる歌詞に焦点を当てて論じている。ちなみに《Pitchfork》は最近、ケイト&アンナ・マクギャリグルやタウンズ・ヴァン・ザントの旧作を取り上げることで70年代カントリーの再評価に力を入れているが、Cleoの作品をその文脈で語るのにはまだ下地が万全ではないかもしれない。実際にアルバムを聴くと、そのサウンドはフォークやカントリーという領域をどうにもするりと超えてしまう。
タメの効いたビートや和声を多用したボーカルからは、ソウルやゴスペル的な感触が滲む。12曲目の「Strike!」には、今年ホラー要素の強いアルバム『GOLLIWOG』をリリースしたラッパー=billy woodsが参加しているように、ラップ・ミュージックにも馴染む風合い。一方でギターを中心とした上ものに耳を傾けると、フォークやカントリーの要素が確かに顔を覗かせる。例えば「Tailly The Bill」や「Wash All Over Me」は、カントリーがメインストリーム・ポップとなった現代に耳馴染みが良くなったギターの和音が響き、ザック・ブライアンの歌い出しが続いてもおかしくなさそうだ。
だがこのアルバムで一番興奮するのは、これはなんていうジャンルなんだ?と問いたくなる瞬間である。それは、2010年代の“ジャンルベンディング”が均質化という笑えない結末に陥った轍を踏まず、真正な意味において折衷的なサウンドである。または予測不能なサウンドの変化と言ってもいい。例えば「Da Da Da」は、8分の刻みの4拍目にスネアがアクセントする不思議なビートに、カントリー風のアコースティックギターが絡む。だがコーラス部分の大仰なシンガロングや、1分44秒以降に現れるパーカッシブなギターパートに面食らう。あるいは「Baseball」では、『アダムス・ファミリー』のテーマ曲のビートに、ベースボールの歓声が重なるというユーモアが。サラダボウルを片手に「次はなにを盛り合わせよう?」と目移りしているような、次々に広がる組合せ配列的なアイデアによって、なぜか正解のボタンばかりが押されていく。
Cleo自身はこう語る。「私はジャーナリングをしていて、アルバムのタイトル『Cuntry』は(パンデミックのころ)すでに決めていました。カントリーミュージックがこんなにブームになるとは知らずにね」。「私にとっては全部フォークソングなんですけどね」。ビヨンセの『COWBOY CARTER』が資本と文脈を注ぎ込むことで、聴いたことのない野心的なカントリー・ポップを生んだのに対し、『Cuntry』はもっと個人的で、まるでびっしりと埋まったメモ帳を覗き見るようなスリリングなアイデアの濁流に満ちている。リスナーはアルバムの最後までそれに翻弄され興奮しつづけ、最後にはやはりこのアルバムにジャンル名がまだ与えられていないことを悟る。自分もまた、このアルバムを語る言葉を十分に持ち合わせていないことが惜しい。(髙橋翔哉)

