アメリア、それは私の名前、あなたの名前
今年1月、世界一周旅行中の1937年に太平洋で消息を絶ったアメリカの女性飛行士、アメリア・イアハートの機体の一部と思われる残骸が太平洋の海底で見つかった。断定はされていないものの、発見されたのは彼女がナビゲーターと共に目指していたという赤道付近のハウランド島から160キロほど離れた地点で、彼女が操縦していた10人乗り航空機の可能性があると推測されている。イアハートの生涯は個人的にもすごく興味があるが、結局のところ90年ほど前の事故をこの残骸から立証することはおそらく難しいだろう。
ローリー・アンダーソンの本ニュー・アルバム『Amelia』はそのニュースがきっかけになったわけではない。生誕、没後のタイミングで思いついたアイデアでもない。もともとアンダーソンは、飛行機を操縦することだけではなく機体整備などエンジニアとしての仕事にも喜んで従事し、一方で女性の自立、権利獲得のための活動もしていたイアハートに共感を寄せていた。ショートカットが似合う知的で気取りない雰囲気、愛らしい表情が魅力のイアハートとアンダーソンはどことなく佇まいも似ているが、美術、文学を大学で学び、テープ・ボウ・ヴァイオリンなど数々のオリジナル楽器を開発したり、文章執筆をしたり、音楽の領域を超えたマルチメディア表現に早くからアプローチしたりと、多層的に活動を展開してきたアンダーソンにとって、イアハートは単なる飛行機のパイロットではなく一人の表現者として大いに刺激を受ける存在であるはずだ。アンダーソンはNASAで最初のアーティスト・イン・レジデンスとして作品を残しているが、世が世ならイアハートも宇宙開発に関心を持ったような気もする。
もちろん、アンダーソンは折に触れて航空機、あるいは飛行そのものをモチーフにしてきた。既に気づいている方も多いだろうが、1982年の彼女のファースト『Big Science』は「From the Air」という、空から不時着を試みようとするキャプテン(機長)の目線で書かれた曲で始まっているし、代表曲「O Superman」には“They’re American Planes”という歌詞も出てくる。小型旅行機の事故から生還した経験もあるそうで、重力に逆らって空を飛ぶという行為に彼女が常に着想を得ていることは間違いない。実際、本作に収められている曲のいくつかは、2000年に《Carnegie Hall》から依頼されて作曲したものだ。当時はそれを気に入らずに放置していたそうだが、数年後に指揮者のデニス・ラッセル・デイヴィスから「あれらの曲がとても良かったのでオーケストラ・アレンジで今一度やろう。録音もしよう」と声をかけられこの作品に至ったのだという。ただし、《Carnegie Hall》からのリクエストはあくまで“飛行”についてのものだったそうで、素材をアメリア・イアハートにしたのはアンダーソンの意志だった。改めて調べる中で、決め手になったのは、イアハートが「この飛行から帰ってきたら、女性が工作を学ぶ場を作りたい」と話していたことだったという。工作や機械操作は男子、女性は料理や掃除……という当時の相場に不満を抱いていたイアハートだったが、結局その夢は実現することなく墜落死してしまった。同じように若い時分から工作に興味を持ち、自ら楽器を制作してきたアンダーソンもまた、いまだに機械工学の仕事に就いている女性が限られていることに大いに疑問を持つ一人だったのだ。確かに筆者も子供時代、女子は家庭科(料理、裁縫)、男子は技術工作だったことに不満を感じていた。女子が人参やじゃがいもの皮を剥いている傍ら、男子が鉱石ラジオを作っているのが羨ましくて仕方なかったが、もしかすると、逆に不満を感じていた人もいたかもしれない。なぜ男子はミシンを踏まないのか、なぜ肉じゃがを作らないのかと。同じように女子のランドセルは当時は赤で男子は黒。当然、筆者は黒いランドセルを持ちたかったが……まあ、あくまで筆者の小中時代の話だ。今の教育現場ではそうした意味のない棲み分けはかなり減ったかもしれないが。
というわけで、100年前に希少な工学指向女性だったイアハートの生涯にアンダーソンが踏み込んだのが本作だ。飛行機が飛び立つ音に始まる全22曲、そのうちの6曲にアノーニが参加している。ある時期からアンダーソンの作風とルー・リードの作風がとても近いと感じるようになっていたが(夫婦になったのだから当たり前ではある)、本作も成熟期に入っていた時代の『The Raven』(2003年)との類似性を見出さないわけにはいかない。コロナで命を落としたハル・ウィルナーがプロデュースしたリードの『The Raven』にはアンダーソンやアノーニが参加しているという共通項もあるし、アンダーソンの表現スタイルの一つであるポエトリー・リーディングがいくつかの曲で見られたりもする。それに何より、アメリア・イアハートに対し、エドガー・アラン・ポーという同じく歴史的に実在した人物をモチーフにしていることにおいても同様の視座の感じ取ることができるだろう。もともとロバート・ウィルソンと組んだ舞台から端を発した『The Raven』、《Carnegie Hall》からの依頼で制作した舞台『AMELIA』をもとに新たに取り組んだ本作……制作背景も割と似ている。曲で言えば「Road to Mandalay」から「Nothing But Silt」に繋がる中盤はリードの『Street Hassle』に収録されていそうだ。
サウンドのベースになっているのは、アンダーソンに制作をもちかけたデニス・ラッセル・デイヴィスが指揮を振るチェコのオーケストラ《Brno Philharmonic》。そこに、ロブ・ムース、マーク・リーボウ、トニー・シェラー、ケニー・ウォルセン、ライアン・ケリー、ナディア・シロタ、そしてアノーニらお馴染みの面々が参加。緩やかにたゆたうような、厳しく突き刺してくるような、ストリングスや管楽器の音色やフレーズは、まるでイヤハートが操縦した飛行機が墜落した太平洋の海原のようだし、オーケストラ・アレンジの上に重なるギターやドラムは即興が多かったそうだが、イアハートの人としての意志の強さ、時には苛まれる恐れなどを見事に形にしていると思える。不穏な空気をまとった朗読によって表現される歌詞は、イアハートの飛行日誌や夫に送られた電報の内容などをもとにされているという。ただし、それ以上に本作が伝えるのは、工学指向女性だけではなく、現代に生きるすべての女性たちが世界に向かって自由に飛び出していく時の不安と自信が入れ子状態になったような複雑な思いだ。このあたり、ジョニ・ミッチェルがかつて歌った「Amelia」(『Hejira』)と並べて聴いてみてもいい。
だからと言って、本作は安易なエールや女性讃歌が軸の作品ではない。6月19日、バンコクにて──と始まる「The Word for Woman Here」の乱れる散文詩が、彼女自身体験してきたファースト・ペンギンたるコンフューズドした感情を伝えている。例えば19曲目。「Fly Me to The Moon」ではなく「Fly Into the Sun」。誰かに月に連れて行ってもらうのではなく、太陽の中に逃げずに自ら飛んでいく。これはそういうアルバムだ。そういえば、ルー・リードにも同タイトルの「Fly Into the Sun」という曲があったが(カヴァーではない)、ホロコーストやこの世の苦しみから目を背けず立ち向かうことを歌ったリードとこのアンダーソンは、やはり同志の絆で結ばれていたのだろうと思う。(岡村詩野)