Review

Kevin Fowley: À Feu Doux

2024 / Basin Rock
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数知れぬ先人たちが、そして母が歌ってきた古謡の轍

27 August 2024 | By Fumito Hashiguchi

ケヴィン・フォウリーはダブリンを拠点に活動するシンガー・ソングライター。2018年にリリースされた最初のEPに続く2作目の今作には、4つの古いフランスの子守唄が収められている。ここには彼の生い立ちが反映されていて、フォウリーはアイルランド人の父親とフランス人の母親の下、バイリンガルでバイカルチュラルな環境で育っており、この4曲は実際に彼の母親が寝かしつけのために歌ってくれた曲なのだそうだ。前作は自作の英語詞楽曲集だったが、今回はすべてフランス語で歌われている。

冒頭の「Ne pleure pas, Jeannette(泣かないで、ジャネット)」は15世紀に遡る曲を源流として、おそらくは17世紀頃に形になったと考えられている曲。歌詞の内容は、親から王子か男爵の子息との高貴な結婚をするように言われたジャネットが囚人のピエールへの愛を貫き、結局ピエールとともに吊るし首にされるといったもの。2行のリフレインでシンプルに展開していくこの曲をフォウリーは7分弱の時間をかけて歌う。広く取られたサウンドスケープには自身の歌唱とギター、Caimin Gilmoreのダブルベースが置かれ、残りの空間では、今作の共同プロデューサーでもあるRoss Chaneyによる微細なシンセやモジュラー処理が浮遊している。残響を効かせたギターの音に対して、フォウリーのジェントルな歌声は、より生々しく、デッドな鳴りで録られている。

続く「À la Claire Fontaine(清らかな泉で)」は、15世紀から16世紀にかけて書かれたとみられる、フランス語圏、とりわけカナダのケベックではとてもよく知られた民謡。清らかな泉のほとりで水を浴びながら、木の枝にいるナイチンゲールのさえずりに、忘れられないかつての恋人をもの憂く想うといった内容の曲で、フォウリーはここでも前曲以上にたっぷりと10分弱の時間を使っている。ギターは残響を伴いながら時には空間に裂け目を入れるかのように前面に現れる。時を止めるようなゆったりとしたグルーヴにはスロウコアといったタームも連想させられてしまう。ヴォーカルはここでもネイキッドに響いており、“Jamais je ne t’oublierai(決して君を忘れない)”のフレーズが何度も繰り返される終盤にその印象がより極まる。

3曲目の「Le Coq Est Mort(雄鶏は死んだ)」は20世紀初頭のフランス発祥とされ、多くの言語でのヴァリエーションがあるカノン。ここではインターミッション的なインスト曲として、ギターの音を重ね、音響的な処理を施し表現されている。存在感のあるヒスノイズがまるで夜のしじまそのもののようだ。

最終曲「Aux Marches Du Palais(宮殿の階段に)」はフランス西部で18世紀頃に作られたとされる曲。宮殿の階段にいる美しい娘に、しがない靴直し屋の男が求婚する。2行のリフレインで歌が進むにつれて、ベッドには花が咲き、深々とした川が流れ、王宮の馬たちが水を飲みにやってくる。そんなベッドで2人は世界の終わりまで眠りにつく。今作の基本的な演奏や歌唱はダブリンの自宅の屋根裏部屋で録音されたそうだが、そのアンビエンスが最も分かるのがこの曲だ。前3曲に比べポストプロダクションの要素は控えめで、歌うフォウリーの体躯の鳴り、ギター、ダブルベースそれぞれの個体の鳴り、そして部屋の椅子や床板のきしみが直接的に響いている。思い出してみれば、夜、眠りにつくまでの暗闇の時間における部屋のきしみや物音は、こどもにとってとても意味を持つものではなかっただろうか。また先にも述べたように今作のフォウリーのヴォーカルは一貫して生々しく、「近い」。もしかしたらこの近さはかつての彼自身の記憶、すなわち子守唄を歌う母親の口と、こどもだったフォウリーの耳との距離の近さに起因しているのかもしれない。

その音楽スタイルから、フォウリーのことをフォーク・シンガーと呼ぶのは間違いではないだろう。フォーク・シンガーにとって必須の条件である回顧や継承、そして再解釈の態度を今作での彼は満たしてはいるが、それは探究的というよりパーソナルな側面によるものが大きい。この4曲はフォウリーの母親がかつて歌ってくれていただけではなく、祖父母がフォウリーの姪のために数年前に作った122曲のフランスの歌と童謡を編纂した本に取り上げられていた曲でもあるという。そしてジャケットの画はフォウリーと一緒にこれらの子守唄を聴いていたであろう妹、Moïra Fowleyによるもの。さらには「Aux Marches Du Palais」のMVで観られる映像は1960年代に、つまり彼が生まれるずっと前にフォリーのウ曽祖父が撮影し遺していた古い家族の姿だという。

数知れぬ先人たちが、そして母が歌ってきた古謡の轍に自身の身体を沿わせて歩いてみた今作の試みは、彼にとって、自身を形成した夜の記憶の再現に留まらず、自らがどこから来たのかを探るナラティヴにもなっている。そこにはフィクショナルな側面も少なからず含まれているはずで、彼はここで自身の身体と、忘れられた記憶と、失われた感情を使って新たな過去を創り出している。それは憧憬というものに付随する欲望の自然な発露なのかもしれない。(橋口史人)



※フィジカルのリンクはアナログ・レコード

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