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日本語ロックの西日 第二章
台風クラブ『アルバム第二集』
クロス・レヴュー

22 February 2023 | By Dreamy Deka / Yasuyuki Ono

転がり出すゴロっとした岩

バカだなぁ……という言葉しか出てこない。それ以上の言葉を絞り出そうとすると涙も一緒に溢れてしまいそうになる。日本語ロックの西日は、初めて出会ったその時と同じように、ひたすらに眩しく、切なく、目の奥に沁みてくる。

台風クラブ5年ぶりにして2枚目のアルバムは、CDならば10曲入りで34分、2,750円として売り出されている。しかし、これは全くの間違いである。1曲に普通のバンドのアルバム一枚分の感情と情報が込められているので、本当は100曲入りで340分、定価3万円として店頭に並べられなければならない。もう少し賢いというか、正常な経済観念を持つ人間ならば、この異常な濃度を10分の1に薄めて5枚のアルバムにして、1年に1枚ずつリリースしてがっちりマネーをメイクするはずなのだ。でもソングライターの石塚淳も、バンド・メンバーも、レーベルもそうはしなかった。だってそんなことしたらロックンロールの天使が降りてきてくれないじゃん。本気でそう思っているんだと思う。つまり全員がイカれている。マスクを付けたり外したり注射を打ったり打たなかったりと慌ただしかった窓の外なんて関係なし。天使が降りて来る瞬間を部屋の中で待ち続け、1曲ずつ貯めていったらいつのまにか5年の月日が経ってしまった。だから前作『初期の台風クラブ』と同じように、アルバム・タイトルがないのだろう。案の定、再生ボタンを押してみれば、今日も天使を捕まえられなかった、捕まえたと思ったら勘違いだった、そもそも天使なんかいなかった。そんな嘆きばかりが流れてくる。



 “偶然気を許した瞬間 窓を割った風 閉じ込めても 飲み込んでも やつは生きていた”(へきれき)

 “お前は今夜現れて ついにダンスを踊らない よそ行きのシャツをなびかせて いつの間にか透き通ってゆく”(下宿屋ゆうれい)

 “騙そうか浅ましい夢を 口封じに慰めてしまおうか 過去になってくれないもの 手に余してる”(抗い)



野良、ゆうれい、火の玉。人懐っこさに磨きをかけた言葉のセンスにうっかり騙されてしまいそうになるが、一皮めくると露わになるのは、いつもと同じ表情をしたカラカラの絶望。草も生えない修羅の時間。こんなに重い荷物を乗せられるロックンロールもたまったものではない。「いや、俺なんてただのパーティー・ミュージックだよ?」って言いたくもなるだろう。

しかしこんなにもやり切れない、出口のない独白に、石塚がマンチェスターのギャラガーさんとかガンジス川のハリスンさんとか北九州の大江さんとかを律儀に巡礼して譲り受けてきた魔法のメロディーをつけてやり、山本啓太と伊奈昌宏が骨太のリズムをドッカンドッカン鳴らしてやれば、岩がゴロっと転がり出す。これは天使が降りてきた奇跡の瞬間か、奴らに取り憑いた悪魔の微笑みか。そんな刹那の逡巡を経て、最高にゴキゲンで残酷なダンス・ミュージックに身を投げ出す。ここは一度足を踏み入れたら抜け出すことのできない深い沼。ただのロックンロールというやつである。2,750円は地獄めぐりの木戸銭だ。(ドリーミー刑事)




ノスタルジアに耽溺している暇はない

近年、ロック・ミュージックにおいて、エモ/ポップ・パンク・リバイバルは無視することのできない動きとなっている。ビリー・アイリッシュやオリヴィア・ロドリゴというポップ・スターのルーツとして“発見”されたパラモアやアヴリル・ラヴィーンの再評価、Y2Kムーヴメントに端を発する2000年代前半ポップ・パンクへの注目、エモ・ラップの隆盛以降より顕著となったトラヴィス・バーカー(ブリンク182)の卓越した活躍など、あの日に活躍していたスターたちの音楽が再び多くの人の耳に届いている。“エモ”という現象をめぐるファン・スタディーズの研究署『Emo: How Fans Defined a Subculture』(2020年)を記しているジュディス・ファサラーは、このような動きの原因のひとつとして同時代的にそれらの音楽を享受していた30代の人々が有するノスタルジアと、Z世代の若者による自らが経験していない青春時代への虚構的なノスタルジー消費の存在を指摘している。無論、この指摘を全面的に肯定することはいささか強引であろうが、近年のロック・ミュージックの受容において“ノスタルジア”という感情が大きな役割を果たしていたことは指摘されるべきである。

思えば、最初から台風クラブの音楽にもそのような“ノスタルジア”を喚起する仕掛けはたくさんあったと思う。気だるさと湿り気を残したヴォーカル・スタイル、夕暮れの赤や夜の黒といった色彩と憂いを湛えた情感を混交させた日本語詞、用意周到にミニマライズされたバンド・サウンドから生まれるメランコリックなメロディー、ミュージック・ビデオで表現されたうだる暑さが収まった夏の夕暮れ、雑草の生い茂った河原、築年数の経った木造アパート、大量のレコード、8ミリフィルムのエフェクト。それらのどれもが誰しもが持つ(と思っている)、かつて経験した“ような”記憶のすみをくすぐり、“あの日”の記憶を眼前へと浮かび上がらせる。それらを総称した“日本語ロックの西日”というバンドに与えられたキャッチコピーも見事に彼らの音楽の特徴をとらえていた。

本作のオープナーである「野良よ!」で鳴る、疾走感のあるドラム・ビートとパンキッシュなギター・サウンドに上述したような、所謂2000年代(前半)的なポップ・パンクの風情(とノスタルジア)を感じることはきっと難しくない。しかし、そのような一見ストレートに設計されているようにみえるサウンドのなかに入り込んでいくと様々な仕掛けや変化が見えてくる。

まず、前作と比較して感じるのは、どの曲においてもドラムとベースの主張を強め、音の層が圧倒的に厚くなり、作品全体に重厚感がもたらされていることだろう。ギターを前景化させたバンド・サウンドの良い意味での“頼りなさ”が作品のアクセントとなっていた前作とは異なり、バンド・アンサンブルでの録音に対する意識の変化を感じることができる。加え、「日暮し」や「下宿屋ゆうれい」のオルタナティヴ・ロック然とした重厚なギター・エフェクト、「とんがりブーツ」の軽やかなロックンロール・ギター、シタール風の共鳴が印象的な「なななのか」、本作で縦横無尽に遊びまわるギターを総括したような多重録音が気持ちいい「火の玉ロック」などカラフルなギター・サウンドも本作の特徴だろう。そのように音の彩度と厚みを調整しながら、台風クラブが自身のサウンドを構築していく意欲的な道程を本作では感じることができる。そのような本作を聴きながら湧き出るのは、彼らの血肉となっているだろうロックンロールやミッシェル・ガン・エレファント、THE HIGH-LOWSといった日本のロックをひとつの参照点としたサウンドからにじみ出る“懐かしい!”、“あの頃の青春の音だ!”という感情と、どこかそこからはみ出すような違和感や所在のなさであり、その違和感こそが台風クラブが現在の“日本語ロック”において唯一無二の存在としている理由でもあるのだと思う。

さらにリリックへと目を向ければ、退行的かつ過去を懐かしむような匂いはそこからは感じない。「遠い過去に出番もなく/仕舞い込んだまがい物を/旅の途中ばらばらに落っことす」(「日暮し」)。「線路の下で夏を待つ/じっと生き延びる」(「旅情」)。「じっと待つ一本道にアクセルを突っ込んでる/名もない分かれ道が後ろに去ってゆく」(「火の玉ロック」)。スムーズなかたちでは必ずしもなく、時には回り道をしながらも、自らが住む街で、旅の道中で、台風クラブの歌に登場する主人公たちはそれぞれのベースで、少しずつ、少しずつ先へと進んでいく。

ノスタルジアに耽溺している暇はない。そのように本作で、石塚のSGギターは唸り、山本のベースは諭し、伊奈のドラムは呟く。台風クラブの特徴はノスタルジアを喚起する音楽的、表象的な仕掛けをあちこちにばらまきながら、ベタにそれを貫徹することで逆説的にノスタルジアこそ虚構なのだと看破することにこそある。ノスタルジアと戯れながらそれを破り捨てる。彼らが鳴らすロックの快楽はきっとそのような破壊的なところに宿っている。(尾野泰幸)



Text By Dreamy DekaYasuyuki Ono


台風クラブ

アルバム第二集

LABEL : NEW FOLK
RELEASE DATE : 2023.2.22


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