【未来は懐かしい】
Vol.63
問い直される「レアグルーヴ」の意味
琉球グローカルポップの響きを求めて
「琉球レアグルーヴ」シリーズの第一弾作品がリリースされてからはや22年。その続編から数えても19年。長いインターバルを経て、シリーズ最新作『琉球レアグルーヴ Revisited - Okinawa Pops 1957-1978 -』と、『琉球レアグルーヴ Crossover - Okinawa Jazz Funk 1964-1984 -』が同時発売された。
まさかあれから20年近くが経っているなんて、光陰矢の如しとはまさにこのことだが、いわゆる「レアグルーヴ」を巡るあれこれもその間に大きく変化してきたと感じる。レアグルーヴの起源に遡ると、同時代(1980年代後半)の主流音楽シーンの中では「忘れられてしまった」生演奏を主体としたレコードを、ブレイクビーツやダンス・ミュージック等の新たな文脈の元に「発掘」し、「再発見」することがその本懐だったわけだが、次第に「レア」の意味が変質し、時には単に「希少で高価なレコード」を指す言葉として曲解されることもあった。「琉球レアグルーヴ」シリーズが初お目見えした2000年代初頭というのは、まさにそうした「価値の固定化」というべき現象が広範に見られるようになってしまった時期に当たるわけだが、それと前後して、いわゆる「王道」と言われるような旧来の米英産ソウル〜ジャズ・ファンク系以外へと関心の射程を伸ばす動きも活発化していた。具体的にいうならば、(既に「発掘」の進んでいたブラジルは例外として)中南米やアフリカ、ヨーロッパ諸地域、そして一部アジア諸地域の現地制作レコードが、それまでにも増して高い関心の的になっていったのだった。
私自身、その当時「琉球レアグルーヴ」シリーズの第一弾作『琉球レアグルーヴ Shimauta Pops In 60’s-70’s』に初めて接した時にも、まさにそうした一連の流れの延長線上に現れたコンピレーションアルバムとして、まずは関心を持った。包み隠さずにいえば、「すわ、沖縄という『辺境』にこんなにもイカした、それでいてどこか『奇妙』なレコードが眠っていたなんて」と思ったわけだ。もっといえば、そこに収められた数々のトラックの味わいは、私にとって紛れもない「珍味」の一種として感じられたし、それこそが何よりの魅力と感じられた。こうした受け止め方は、私だけではなかったはずだ。その証拠というわけでもないが、当時のショップサイトの紹介文や一般ユーザーの感想などを閲してみると、大体において似たような文言が踊っているのがわかる。「面白い」「ユルユル」「エキゾチック」「怪作」などといった具合に。
先ほど、今回の新作がリリースされるまでの20年ほどの時間の経過を指して、「光陰矢の如し」と表現してみたが、(自分も含めた)上のような当時の「素朴」な反応を思い出してみると、そこにはやはり、種々の変化がじっくりと積み重なった長い時間の経過が刻まれていると考えざるを得ない。というのも、今回取り上げる、前二作からの厳選+新収録曲からなる新作『琉球レアグルーヴ Revisited - Okinawa Pops 1957-1978 -』に収められた曲を現在の視点から改めて聴きなおすと、それをただ「辺境」から届けられた「知られざる」「エキゾチック」な作品としてかつてのように面白がるのとは全く違った心象が、自分の中で確実に立ち上がってくるからだ。
だとすると、この20年の間に、私はどんな「変化」を経た上で、受け止め方を変化させるに至ったのだろう。その理由とは、(この連載でも度々話題にしていることだが)世界の文化的な地勢図とそれを駆動させる構造が大きく変容したことと深く関係しているはずだ。
高度かつ双方向的、同時的なコミュニケーションを実現するブロードバンド環境が整備されたのが2000年代初頭。それ以降、世界は急速な情報のグローバル化に巻き込まれていくことになった。それは、不可逆的かつ可塑的な変化だった。更に、2000年代末頃からは、ソーシャル・ネットワーク・サービスがそれまでとは比べ物にならない規模で急速に浸透し、発信者と受容者、ゲートキーパーと非ゲートキーパーの境を加速度的に曖昧化しながら、新たな情報環境が整えられていった(カオス化していった、ともいえるが)。
そうした変化はまた、かつては強固に存在した地域間の情報格差を平板化していき、一般的な意味での「周縁」や「辺境」を含む世界中の地域が、同時かつ双方向的なコミュニケーションのネットワークによって結びつけられていった。マクルーハンがかつて述べた「グローバルヴィレッジ」が、比喩的表現を超えた現実の構成体として姿を現しつつあったのが、この間の出来事だった。
このような環境下にあって、ポップ・ミュージックの情報流通の構造も劇的な変化を迎えた。仮想空間のパースペクティブの中で空間概念が再構成され、一般的な意味としての「中心」や「周縁」という概念さえもがドラスティックに相対化されるに至ると、かつては誰もが想像可能な「メインストリーム」として文化的・経済的覇権を握っていた欧米発のポップ・ミュージックの存在すらも、にわかに相対化されることになった。
それと時を同じくして、旧来的な意味における情報交通のゲートキーパーであった中央音楽産業の覇権的存在感も溶解し、かつてはそれらの産業構造から疎外されていた様々な地域のローカルな諸実践が急速に顕在化しはじめた。更にそれらは、グローバルなプラットフォーム構造が整備されていくにしたがって、かつての「中央」にゆうゆうと食い込むヒットを連発するようになっていく。仮に、話があまりに抽象的すぎると感じる方がいるならば、こうした「変化」の象徴として、この10年ほどによるアフロポップの興隆や、テランポップの快進撃を想起してもらえれば理解の助けになるだろう。
当然、上のような情報環境/テクノロジーの劇的な変化は、最新のポップ・ミュージックをその対象範囲とするだけではない。過去の音楽遺産もまた、かつての(素朴な意味で「レアグルーヴ」的な)「発掘」の興味関心を注がれる対象としてよりも、現下のグローバルポップと系譜学的な関係性を持つ存在として、にわかに同時代的な意味を纏い出すのだ。同じく本連載で幾度も触れてきたことだが、そうした視点からアフリカやアジア、中南米等の過去の音楽を紹介する動きは、決して派手なムーヴメントになっているとはいえないまでも、着実に深化しつつある。
先に述べた、本作『琉球レアグルーヴ Revisited - Okinawa Pops 1957-1978 -』収録曲を今回聴きなおしてみた際に私が抱いた印象──「『辺境』から届けられた『知られざる』『エキゾチック』」な作品として面白がるのとは全く違った心象」というのは、まさにこうした状況と根深い関係をもっているはずだ。そして私のこの感想は、昨今のトピックとして盛んに議論されている「ディコロナイゼーション(脱植民地化)」というテーマとも浅からぬ関係にあるのは明白だ。こういってみるのもいいだろう。高度な情報グローバル化社会は、「ここ」と「あそこ」を無時間的/超空間的に結びつけてみせた一方で、かつて「あそこ」と「ここ」の間に存在していた、ときに無自覚で、それゆえに素朴な暴力性を孕み得る歪な「眼差し」の存在を浮き彫りにし、「ここ」と「あそこ」の勾配に形象化されてきた植民地主義的(無)意識をも、白日の下に晒さずにはおられないのだ、と。
こう考えてくれば、かつて「辺境のレアグルーヴ」に接した際に私達が抱いた「素朴」な感想の中には、政治的なまずさも多分に含まれていたのだ、とはっきりいってしまってかまわないだろう。それは間違いのないことだが、かといって、私はなにも、自分自身を含む過去のリスナーたちを断罪して悦に入ってみたいわけではない。
それよりも、「面白い」「ユルユル」「エキゾチック」「怪作」という「素朴」な感想の背後には何が隠れていたのか、そして私達が同じような感想を「素朴に」抱くことができないこと――「他者」に強制されたからいやいや「素朴な」感想を手放さざるを得ないという意味ではなくて、そういった「素朴な」感想を今抱くことのそもそもの不可能性──に至ったこの間の文化の変化とは、一体どんなものであったのかを考えてみる方がよほど建設的だろう。今回の『琉球レアグルーヴ Revisited - Okinawa Pops 1957-1978 -』は、まさにそのための格好の題材だといえるし、本作がきかっけとなって導き出された私自身の思考は、上で開陳した通りである。
さて本作は、これまでの同シリーズ既発2タイトルからハイライト的なトラックを厳選し、更に新たな曲を加えた構成となっている。シリーズの象徴的なトラックというべき屋良ファミリーズの「白浜ブルース」を始めとして、フォーシスターズ、沢村みつ子、高安六郎、ホップトーンズ、平良悌子、喜納昌吉と喜納チャンプルーズ、高安勝男、照屋林助、海勢頭豊といった錚々たる面々による全14曲が集められている。
先んじて上で述べた感想──「『辺境』から届けられた『知られざる』『エキゾチック』な作品としてかつてのように面白がるのとは全く違った心象」に加えて、今回特に新鮮な思いにかられたのは、(一部の曲を除いて)それほどまでに「レアグルーヴ」感を感じないという点だ。
音楽的フォルムとして、「レアグルーヴ」を想起させるソウルやジャズ・ファンク的な要素が希薄に感じられるのもそうだが、これらの曲たちはむしろ、今や別の文脈で味わう可能性に開かれている、と考えてみるべきなのだと思う。具体的に言えば、「グルーヴィーな辺境音楽」という素朴な他者的視点に基づく理解ではなく、占領国アメリカ治世下から日本への「返還」へと至る時代に刻まれた、西洋(アメリカ)と「本土」、沖縄の間に存在する空間的関係や、支配/被支配関係、琉球王国の時間的蓄積と「今(当時)」の間に交わされれた、相互浸透と相克、馴致、異化、弁証法的作用を奥深くに刻みこんだ、いわば「グローカル」なポップ・ミュージックの優れた例であると考えた場合にこそ、その輝きがいや増すように思うのだ。
たしかにこれらの曲は「踊れる」し、いかにも「DJ」映えするだろう。そうした表層的な次元での高い価値に曇りはないにせよ、その「踊れる」ことの意味は、レアグルーヴ的な脱文脈化運動の元に消費されるべきものというよりも、むしろ、私達リスナー自身が、上に述べたような空間的なパースペクティブや歴史的時間の中に、身体的な実感をもって飛び込んでみるための誘いとともにあると考えてみるほうが、断然しっくりくるのだ。それと関係しているのかどうか、自分でもはっきりとはいい難いが、私はこのコンピレーション・アルバムに収められている各曲を繰り返し聴いている内に、「今すぐDJでかけたい」という気持ちよりも、「実際に沖縄に行きたい」という衝動を感じるのだった。そこには多分に「観光的」な気分が混じっているかもしれないし、だからといって、それを全て拭い去って「同化」してみようとする行為にもまた、ある種の不遜さが宿ってしまうのは否めないだろう。けれど、本コンピレーション・アルバムを今聴いている私は、少なくとも、「沖縄」という「周辺」の「エキゾチシズム」を「素朴」に味わってみたいと考えていた過去の自分とは全く異なる心象風景を、既に心の内に抱いていることを知るのである。
今、この文章を書きながら思い出したのだが、私はかつて、ここに収められている喜納昌吉と喜納チャンプルーズ「ハイサイおじさん」のオリジナル版を偶然ラジオで耳にした時、ものすごい興奮に襲われ、周りの友人達に勧めまくったことがある。リズムのうねり、説得力に満ちた歌声、もっちりとした録音、耳を刺激する楽器の響き、ペンタトニックスケールの快さ。
考えてみると、その時に抱いた感動が私自身の「変化」の起点だったように思う。あのときの私は、「ハイサイおじさん」を素朴な意味での「レアグルーヴ」の一種としては聴いていなかった気がする(本当に突然耳にしたので、そういう「心づもり」をする暇もなかった)。それははじめ、何よりもまず生き生きとしたポップ・ソングとして私の耳を捉え、次に、ローカルな音楽要素が、西洋(とそれを内在化した大和)発のコンボ・スタイルと出会った「グローバルポップ」の一種であり、「大和」の人間の一人として(ほとんど無自覚に)内在化してきた自らのバックボーン(の不在)を快く衝く過去からの呼び声であるように響いてきたのだった。
とすれば、本作『琉球レアグルーヴ Revisited - Okinawa Pops 1957-1978 -』のタイトルのうちに含まれる「レア」の語も、今や「珍しい」という意味でも、「生」のという意味ではなく、単に「素晴らしい」を意味するものと考えてみたほうがいいのかもしれない。実際、ここに収められた曲は大層素晴らしい。それだけでいいし、反対に、そこから考えるべきことも山とあるのだ。(柴崎祐二)
Text By Yuji Shibasaki


