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【未来は懐かしい】
Vol.58
変体するサイケデリア──オリジナル・フォーマットでのリイシューが叶った国内ポスト・パンクの傑作

15 March 2025 | By Yuji Shibasaki

私は1983年の生まれなので、当然、コクシネルの初期活動については何も知らない。ちょうど私が生まれる少し前、新宿の《ハバナムーン》という伝説的な飲み屋に当時の先鋭文化を代表する錚々たる面々が集っていたこと、それ以前には、吉祥寺の《マイナー》がそうした音楽の発信地となっていたこと……等々の事実は、後年に出版された書物や、当時のことを知る先達たちからそれとなく聞かされた話によって、ぼんやり把握していたのみだ。《ピナコテカレコード》、『HEAVEN』、《天国注射の昼》……。様々な逸話とともに目と耳に届く固有名詞や挿話は、自分にとって紛れもない「伝説」の一片であり、憧憬や畏怖を抱く対象になりはせよ、だからこそ同時に、遠い世界の出来事でしかなかった。

そういうわけなので、初めはなにかの雑誌でその名を見かけたのだと思うコクシネルというバンドの存在も、20歳そこそこの私にとっては、かの「伝説」の一角をなす、手には触れがたいなにものかだった。しかし、今にして思えば青春期ならではの鋭敏な感性がなせるわざだったと考えるのがもっともしっくりくるのだが、ある日私は突然コクシネルを「解って」しまった(と感じた)。

元々、高校時代の友人のすすめもあってイースタンユースのファンだった私は、ある日、フジテレビの『ファクトリー』(当時、私自身幾度かスタジオ観覧したことのあるこの番組が日本の音楽文化に与えた小さくない影響について脱線して書きたい気持ちに駆られるが、その話はまた今度にする)が彼らの名物企画《極東最前線》とコラボレーションした回が放映されるという情報を知り、CS電波を受信できる知人に頼み込み、当日の放送を録画してもらったのだった。

そこに、コクシネルが出演していたのだ。私は即座に自室の小さなテレビデオの画面に釘付けになった。『ファクトリー』の放送記録をアーカイブしているサイトを参照すると、この日(2004年8月21日放送)のコクシネルは、どうやら6曲を演奏していたらしい(件のVHSは引っ越しやら何やらに紛れて、残念ながら今では手元にない)。野方攝と池田洋一郎の中心メンバーに加え、石渡明廣、中山努、近藤達郎が奏でるそのサウンドは、それまで熱心に聴いてきたパンク・ロックやオルタナ・ロックはもちろん、海外のパスト・パンク系のバンドや、(ぼんやりとした知識ながら)既に耳にしてはいた日本のパンク〜ニュー・ウェイヴ系のオリジネーターたちとも異なる、一種の崇高なシンプリシティ(というような表現を当時思いついたわけではなかったが)を感じさせるものだった。あのとき、時間の流れが一瞬減速するような感覚になったのを今でも思い出すことができる。あまりにも未知だが、それゆえ自分だけに語りかけられているような音の響き。厳しく突き放されているようでいて、同時にこれ以上ないほどに親密な音楽。感動的だった。



今検索してみたら、そのときオンエアされた映像が1曲分YouTubeにアップされていた。本当に素晴らしい

それから私は、数年前からコクシネルが再結成してライヴ活動を行っていたこと、更には、かつて《バルコニー・レコード》からリリースされたファースト・アルバム『ボーイズ・ツリー』(1986年)が、別ジャケット仕様でCD化されていることを知った。しばらくしてからそれを手に入れた私は、またしても大きな感動を味わった。その感動はまた、ことさら誰かに喧伝するものというより、自分の中で大切に育む類のものと感じてもいた──と、このアルバムの話をすると、どうしても私的な思いを交えながらになってしまう。だが、このアルバムと、コクシネルという稀有なバンドの存在に魅せられた人なら、きっと解ってくれるのではないかと思う。

今回、ヤギヤスオによるオリジナルのアートワークをまとってのLP/CD再発が叶った同作をじっくりと聴き直してみて、やはりこれは、奇跡のようなバランスによって成り立っている作品だと感じた次第だ。聴き馴染んだ先の再発盤から曲順がオリジナルのものに改められている点が、(後追い世代の自分のようなリスナーにとっては)まず新鮮だった。

今になって、より魅惑的に聴こえてくる(すぐれてイマジナティヴなサウンドゆえに「見えてくる」といったほうが近いかもしれない)部分も少なくない。冒頭の「叫び」や「夜の歌」といった(比較的)ロック・バンド色の強い曲は、改めて聴いてみると同時代のネオ・サイケや黎明期のドリーム・ポップ、もっといえばシューゲイザー的な音像を射程に入れていると感じるし、ポストパンクのさらに「その後」を感じさせてくれるものだ。こういうことに気づくと、朴訥と冷厳が同居するような野方の独特のヴォーカルにも、《4AD》一派との空間を超えた共鳴が聴こえてくる気がする。たいへんにモダンだ。だが同時に、「叫び」における工藤冬里のピアノが象徴しているように、ここに収められている音楽は、そういった「洋楽ロック」のレンズの中でのみ捉えることを明確に拒んでもいる。紛れもなき「前衛の香り」……改めて自分にとっては、このあたりのバランス感がたまらない魅力なのだ。

前述の「少年の木」も、本当に素晴らしい。恐らくは《ハバナムーン》のあったゴールデン街から新宿御苑に抜ける一帯をモチーフにしていると思われる(そう思わせるロマンチシズムがある)歌詞に、早川岳晴のベースと山際英樹のシンセサイザーが寄り添っていく様子は、今となっては、あの当時=1980年代初頭のアンダーグラウンド文化へのいち早いレクイエムにも聴こえてくる。この硬質のロマンチシズムというべきものには、その実、同時期には既に東京から地元金沢に活動拠点を移していたという彼らならではの、ある種のクールな俯瞰性のようなものが溶け込んでいると感じる。そうした姿勢は、音像そのものにも現れているように聞こえる。自身の音世界の中に滑り落ちるように没入していきながらも、地表に激突する前に舞い上がり、しまいにははるか遠くの空へと滑らかに浮遊していく――同様の印象は、「記憶」や「天と地の偶像」(まさしく、な曲名ではないか)、「再生」からも受け取ることができる。

それにしても、今あらためて興味をそそられるのは、コクシネルという特異な存在の中心を成す池田洋一郎が、1970年代の金沢のロックシーンを代表するバンド、めんたんぴんの元メンバーであるという点だ。当時、先にめんたんぴんのレコードに聴き親しんでいた私は、その事実を知り大いに驚いた。というか、一体全体どうしてこういう劇的な変化を経ることになったのかがわからず、やや混乱してしまったという方が正しいかもしれない。ワイルドなアメリカン・ロックと、ひんやりとミスティなポスト・ポスト・パンク・サウンド。いかにも真反対に感じられる両者だが、ある感覚で太く繋がれていることにも思い至る。ずばり言えば、それは「サイケデリック」だ。1970年代当時、グレイトフル・デッドとよく比較されためんたんぴんのサウンドは、豪放でいながらも繊細な「サイケデリック」の感覚が奥深くに内在していた(ように私には感じられる)。その感覚が、ポスト・パンクや各種のアヴァンギャルド・ミュージック〜フリー・ミュージックの空気に触れて、このようなサウンドに結実したのだと考えるならば、両者はそう遠い存在でもないように思われる。

コクシネルは、ポップ・ミュージックの単線的な進化論や、パンク以後/以前という(いまもってなにかと便利な)断絶的な見取り図を密やかに引き破ってくれるという意味でも実に魅力的な存在だし、そのような見取り図は結句のところDIYの実践の積み重ねによっていくらでも書き換えられうるということを、彼らは身をもって(決して派手ではないやり方で)実践してきた。だからこそ、今も彼らが地元金沢を拠点に旺盛なライブ活動を続けているという事実に、いちファンとしてただ勇気をもらう以上の説得性を見出さないわけにはいかない。(柴崎祐二)



Text By Yuji Shibasaki


コクシネル

『ボーイズ・ツリー』


2025年 / P-Vine(CD、アナログ・レコード)※オリジナルはバルコニー


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柴崎祐二 リイシュー連載【未来は懐かしい】


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