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【未来は懐かしい】Vol.25
42年をまたいで立ち上がる円環
名盤『Y』の新たなダブ・ヴァージョンを聴く

15 November 2021 | By Yuji Shibasaki

今回取り上げる作品は、純粋な意味での「リイシュー」でも「発掘」でもない。42年前に発表された「ダブ・アルバム」の、「新ダブ・ミックス・アルバム」である。けれども、「ダブ・アルバムのダブ・アルバム」とはいったい何なのだろう。リミックス? セカンド・ヴァージョン? 再構築? それとも、脱構築だろうか? 『Y In Dub』は、それらの語彙によって解釈される特定の何かであることを拒絶しながらも、同時にそれら全ての概念を軽々と吸収してしまうようなスケールを持った何かでもある。

『Y』は、1979年4月に英《Rader》レーベルからリリースされた、ポップ・グループのデビュー・アルバムである。いわゆる「ポストパンク」の時代を切り開いた存在として、長く歴史的名盤と評されてきた。

同年3月のデビュー・シングル「She Is Beyond Good and Evil」とともに本作をプロデュースしたのが、バルバドス生まれのレゲエ・アーティスト/プロデューサー、デニス・ボーヴェルだ。当時のボーヴェルは、UKレゲエの黎明期〜黄金期を牽引したバンド=マトゥンビに在籍する傍ら、「ダブポエット」という独特のスタイルを確立したリントン・クウェシ・ジョンソンのプロデュースを行うなど、シーンの立役者として広く名を広めている最中だった。

片やパンク・シーンにおいては、クラッシュを筆頭として(ジャマイカ本国も含めた)レゲエ界との交流も始まっており、旧来のロック・ミュージック的クリシェ=オールド・ウェイブを超克しようとする(かつ、政治/社会的な問題意識を自分達の音楽に昇華しようとした)労働者階級出身の若い白人ミュージシャンたちにとって、レゲエ/ダブは、一種のトレンド以上の存在として積極的に参照されていた。当時まだ10代だったポップ・グループのメンバーたち(とマネージャーのディック・オデール)もまた、自身のデビューにあたってそうした「参照」を大いに行った。より正確に言えば、以後に続くポスト・パンクとレゲエの蜜月におけるもっとも先駆的で、刺激に満ちた邂逅が果たされることとなった。

オリジナルの『Y』においてボーヴェルは、ポップ・グループのメンバー達=マーク・スチュワート(ギター)、ギャレス・セイガー(ギター/サックス/ピアノ)、ジョン・ワディントン(ギター)、サイモン・アンダーウッド(ベース)、ブルース・スミス(ドラム)による未成熟ゆえに先駆的な演奏を、一枚の強靭かつ優雅なアートピースとしてまとめ上げる役目を担っている。ポップ・グループの音楽は、パンク、ファンク、フリージャズ等によって構成されたエネルギッシュなアマルガムだったが、ボーヴェルは、その混沌を抑制して馴化する類の「製品化」を慎重に避けた。むしろ、10代の怒れる政治的少年達の突進力を後方から(ときに前線に立って)焚きつけるような攻撃的ダブワイズを加えている。鋭角はより鋭く磨き上げ、鈍角にはひきずるような重みと深みを加えた。様々なエフェクトとエディットはダブの基本テクニックを踏襲しているようでいながら、時には、マイルス・デイヴィス作品におけるテオ・マセロの方法論にも通じるような大胆な縦軸方向のテープ編集を加えるなど、幾度聴いても新鮮極まりないものだ。

今回の『Y In Dub』リリースの報に接したとき、驚きとともに、ある種の戸惑いも覚えた。オリジナル『Y』に初めて触れたときの衝撃と、その後も折に触れて繰り返し聴いてきた個人的な愛着もあって、「あの完璧なオリジナル版をこれ以上どうしようというのだろう」という気持ちが若干ながら沸き上がってきたのだった(2019年に出た40周年記念エディションで受けた感動もあって、その考えがより強化されていたところもある)。しかし、『Y In Dub』は、それが明らかな杞憂だったということを示してくれる。いや、「杞憂が晴れた」などという小ちんまりした表現よりも、ダブという「行為」の深遠さと射程の長さに改めて気付かされた、といった方がいいかもしれない。 日本盤ライナーノーツによれば、本作制作のきっかけとなったのは、上述の40周年記念盤のリリースに際して行われたパーティーにおけるデニス・ボーヴェルのパフォーマンスだったという。同ステージでボーヴェルはリアルタイムのダブ・ミックスを披露し、衰えを知らぬそのクリエイティヴィティに接したメンバーが彼に制作を依頼した、ということらしい。

今回の新ダブ・ミックスを聴いてみて真っ先に感じたのは、各楽器やヴォーカルの力強く粒だった響きだ。いわゆる分離感の向上もあり、録音時の(エフェクトがかけられる前の)プレイ自体の魅力が勢いよく立ち上がってくる。しかし、オリジナルと同じく、「混沌が飼いならされている」という印象は全くなく、むしろ直接に耳を殴りつけるようなリッチな暴力性はいや増したように思う。

ときに錐揉み上に突進するバンドの姿を焚きつけるのがオリジナル盤のミックスで達成されていたものだったとすると、今回のヴァージョンは、より横方向へと伸びるような空間的広がりを感じさせる。しかしながら当然それは、「ゆったりとした」とか「しっとりとした」とかいった語彙で表すべきものではなく、あくまでダークで重々しい艶めきによって満たされている空間だ。

オリジナル盤との具体的な差異を確認しながら聴き進めてみるのも面白いだろう。変貌ぶりということでいえば、「Blood Money」、「Savage Sea」あたりの(多少地味と思われがちだった)曲が聴きものだ。これらは元々、アブストラクトなリズム構成、あるいはノンリズムの曲であり、全体に対するテクスチャーの支配度が高い。それゆえ、今回のミックスでも、音色の魔術師としてのボーヴェルの卓越ぶりがわかりやすく刻み込まれている。縦横無尽のエフェクトが入り乱れつつも、トゥーマッチ感ギリギリ手前の絶妙な快楽性にとどまる「Words Disobey Me」もスゴい。

また、「Thief of Fire」や「We Are Time」のように、比較的ストレートなダブミックス語法を重ね合わせるトラックも実にいい。このあたりには、一般的なダブアルバムにも共通する鎮静的なクールさやトリップ感覚が漂っている。加えて、これまでの『Y』リイシューCDに追加されていたデビュー・シングル「She Is Beyond Good and Evil」とそのB面曲「3’38」にも新ミックスが施された上収録されており、聴きものだ。とくに前者はオリジナルの2倍近い尺に引き伸ばされ、ドープかつミニマルなトラックとして生まれ変わった。

どうやら私は、いつの間にか、『Y』を、特定の瞬間と特定の空間に固着された「不変」の名盤として奉っていたらしい。その歴史的な重要性と後世へ与えた影響に鑑みれば、そういう「早とちり」も見逃してほしい気持ちもある。しかし、この『Y In Dub』を聴けば、ダブというものは、はじめからそうした特定の作品的外殻によって「動かしがたい」ものとして鎮座する性質を拒絶しているのだとわかる。ダブの歴史を辿ってみれば、元々は、ある曲の「ヴァージョン」(ヴォーカルトラックのないオケのこと)をリサイクル的に活用しようとする発想に端を発しているわけだし、数々にリリースされてきたダブ作品を眺め直してみても、そこに新譜/旧譜という時間的属性を付与することが適さないことがわかる。いわば、「オリジナル」という概念を内部から撹拌し、いつでもどこでも、クリエイティヴィティを引きつけ、更新し、永続的な編集操作に対して大きく開かれた無時間的な存在としてありうるのが、ダブというものなのかもしれない。逆に言えば、ダブ作品には明確な端緒も、終結もない。42年の歳月をまたいで、このように過去が新しく現れることもある。ポップ・グループとデニス・ボーヴェルは、円環状に更新されていく未完のプロジェクトたる『Y』の扉を、今再び開くことに成功した。(柴崎祐二)

Text By Yuji Shibasaki


The Pop Group

『Y In Dub』



2021年 / Mute / ビクターエンタテインメント


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柴崎祐二 リイシュー連載【未来は懐かしい】


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