Back

音が混ざり合う時間と場所
──ベルリンのMorphine Raumで響いた日高理樹 × Oren Ambarchiの即興

07 September 2025 | By Hiroyoshi Tomite

English Translation

パンデミックが生んだ実験空間で交差した二つの音響世界

ベルリン・クロイツベルグ地区にある工業エリアにぽつんとスタジオがある。一見外から見るとここに音楽スタジオがあるなんて思えない。《Morphine Raum》はそんな場所だ。足を踏み入れると、そこには従来の「会場」や「録音スタジオ」という概念を超越した独特な空間が広がっていた。7月に行われた日高理樹とOren Ambrachiのセッションを事例に空間が生み出すもの、ベルリンの実験音楽シーンにおける音楽的な関わりについて記す。

インダストリアルな空気が漂う空間。実際に対面には工業施設がある。

《Morphine Raum》の作りは独特だ。観客席とパフォーマンス・エリアに明確な境界はなく、高品質なマイクロフォンとプリアンプが部屋の隅々に配置されている。ここは2021年8月、COVID-19パンデミックの最中に誕生した実験的な録音空間だ。レバノンから移住してきた音楽プロデューサーでエンジニアとして活動する創設者のRabih Beainiが語るように、この場所は「ライヴ・パフォーマンスの緊張感と独特の雰囲気を、プロフェッショナルな録音技術で捉える」という、1950〜60年代の伝説的ジャズ録音にインスパイアされたコンセプトで設計されている。エンジニア用の別室は存在せず、すべてが一つの空間で共有される。

その場でエンジニアがMIXを行いその音が会場に流れ、記録される。

音は生まれ続け、聴き手は育ち続ける

去る7月下旬、betcover!!のワールド・ツアーでベルリンを訪れていた日高理樹と、オーストラリア実験音楽シーンのベテラン、Ambarchiが、この特異な空間で邂逅した。セッションは企画者による自主企画として実現したもので、2人はこれまで面識があったものの、セッションする機会はなかった。石橋英子とジム・オルークとのセッション経験もある2人はつながりもあることから立案に至ったようだ。

日高の幽玄なギターとAmbarchiのさまざまなジャンルを横断するアプローチから紡ぎ出される「ギターらしくない音」。この二つの音響アプローチが交差する瞬間を、通常40名収容の会場に、Rabihの厚意で50枚の前売りが販売され、当日は当日来場者も加わり最終的に70名以上が集まり、観客が静寂の中で固唾を飲んで見守った。

部屋が楽器になる瞬間

演奏が始まると、《Morphine Raum》の設計思想が音としてあらわれ始めた。この日のAmbarchiは、8月にリリースされたばかりの『Ghosted III』で披露されたパッセージを演奏に織り込み、乾いたギター・トーンにディレイが小気味よくかかり、部屋の壁面と絶妙に共鳴していく。一方の日高は、2024年にリリースされた『Spine』を彷彿させる幽玄なアプローチで、ボーイング奏法を駆使しながらギターの可能性を探求していた。

Oren Ambrachi

2人の演奏は攻守が行ったり来たりしながら展開され、互いの音響言語を探りながら《Morphine Raum》という「楽器」の可能性を最大限に引き出していく。Rabihが「部屋の響きやモードが録音に大きく影響する」と語るように、この空間自体が第三のプレイヤーとして大きな役割を果たしていた。30分の前半と後半の2セットに分けて行われた演奏は、事前の打ち合わせなしに展開された純粋な即興セッション。観客の存在は演奏に微細な緊張感をもたらし、それが録音にも確実に刻まれ「時間の結晶」となったのだった。

「人々は実際に来て、そこで行われているパフォーマンスを体験できますが、すべて録音されていることを承知していて、非常に静かにしています」──Rabihの言葉通り、観客は息を潜めるように床に座り、固唾を吞むように演奏に集中していた。

Riki Hidaka

コミュニティが支える実験音楽の未来

この夜の体験は、《Morphine Raum》が体現する新しい音楽制作のモデルを如実に示していた。「ミュージシャンがスタジオをレンタルし、観客からの寄付でコストの一部をカバーする」というソーシャル・ファンディングのシステムは、特に即興・実験音楽シーンにとって理想的な環境を提供している。Rabihは「シーンや私たちを救える唯一のものは、実際にはそのシーン、つまりコミュニティだけ」と語る。ジェントリフィケーションにつき、家賃相場が急激に上がり、物価高騰のなか、ベルリンの文化的施設環境が厳しさを増す中、《Morphine Raum》のような独立したコミュニティ・スペースの存在意義はますます重要になっている。

Rabih Beaini

記録されるライヴ音、体験としての即興を残す意義

演奏終了後、観客は自然発生的に感想の対話を始めた。この時間は録音されないが、《Morphine Raum》の真の価値がここにある。音楽制作と同時にコミュニティ形成が行われる空間──それは単なる録音スタジオでも単なるライヴ会場でもない、まったく新しいオルタナティヴ・スペースとして機能しているのが伺えるのだった。

Rabih Beainiがミックスしたレコードなどが並ぶ

Riki HidakaとOren Ambarchiのセッションは、この夜限りの一回性の芸術として観客の記憶に刻まれると同時に、高品質な録音として残される。《Morphine Raum》が提示するのは、記録と体験、孤立と共同体、実験と持続可能性。相反する要素を提示する音楽制作の新たな可能性、実験精神のたまものなのかもしれない。いまだにこういう善意で成立する場所がある限り、ベルリンに連綿と受け継がれてきた精神性は残るだろう。

今回の企画を通じて生まれた縁により、9月8日にはベルリンのジャズバー《Rhinoçéros》にて『Ghosted III』のレコード視聴会とOren Ambarchiによるトーク・セッションが開催される予定で、筆者はインタヴュアーとして参加する。《Morphine Raum》での即興セッションから始まった音楽的対話は、マクロでもミクロでもこうして新たな形で継続していく。音と声を紡いで「残していく行為」に加担して、残せる限り、記録していきたい。たとえそれが、歴史に残らないような小さな営みだとしても。

──音楽は生まれ続け、聴き手は育ち続ける。東京であれ、ベルリンであれ音楽家が進歩的である限り、どこかでそれに相応しい場が生まれ、新しい交差点として機能し続けるのかもしれない。(取材・文/冨手公嘉 写真/Yuko Kotetsu)

 

English Translation

Text By Hiroyoshi Tomite

1 2 3 84