華麗に天然のスカム・ロックを発明した男
ベスト盤2種がアナログ・レコードで発売された豊田道倫への私的で公的な独り言
豊田道倫を最初に聴いたのは大学の時だった。
確か、友人が入っている映画サークルの部室のパソコンにあった、先輩が後輩にむけて残した様々なアーティストの大量の音源の中に、豊田道倫があった。たくさんの音源と一緒にダウンロードし、iPodに入れた。曲数の少ない「The End Of The Tour」を昼一人で構内を歩きながらなんとなく聴いてみた。
その時は、すぐに聴くのをやめた。
性的な内容や、鼻の詰まった暑苦しいおじさんの声に耐えられなかった。また自転車に乗りながら「しあわせのイメージ」を聴いたが、ピンとは来なかった。歌詞を聴いて、赤裸々なんだな、というような印象だった。しばらく忘れていたが、友人たちがしきりに良いと言っているのを聞いた。あまり分からなかったので、適当に、へえと相槌を打っていた。
それからまたしばらくして、京都の《外》というライヴ・ハウスで、豊田道倫の弾き語りがあるというのを知り、何となく行った。自分のバンド(本日休演)のメンバーも来ていたが、彼も何となく来たようだった。生で見る豊田さんはサングラスをしていてクールだった。途中にリズム・マシンを使いよくわからないノイズのようなことをやり始めたと思ったら、すぐにやめて弾き語りに戻った。歌い始めてからも関係ないリズム・マシンの薄く音がアンプに残っていたが、メロディとメロディの間の一瞬で、力一杯ツマミをゼロにしたのが印象に残った。サングラスを外すと、遠い目をしていた。本人曰く「顔で売っている」とのことだった。
MCではもっぱら人の悪口しか言っていなかった。
ライヴで歌われていた「オレンジ・ナイト」という曲の「負けたと思う時がある 音楽を聴いてると オレンジ色に照らされた昨日たち」という一節にピンときた。俺の中にあった“オレンジ色に照らされた昨日たち”を言葉にしてくれた気がした。嬉しかったり楽しかったりした自分の日々が、「負けた」ことで「否定」されそうになることで、なんだか懐かしいような感じで、悲しい目をしながら微笑みかけてくる。去らないでくれ、あの日々。そういった感覚。それをオレンジ色に照らしてくれる。先生に怒られた時、小学校のころ友達に半ばいじめられて泣かされた時、バンドが解散しそうになった時、街中でギャルにすれ違いざまに何故か罵倒された時にもそんな感覚になったと思う。
このライヴを見て以来、俺は豊田道倫(MT)の音楽に全幅の信頼を寄せることになった。
詩人というのは、絶対に自分しかわからないだろうという感覚を言葉にしてくれる人のことをいうらしい。そういう意味でMTは詩人だ。
俺の抱えるいろいろな悩みは、MTの曲の中で歌われていた。自分の力になったりならなかったりした。いつしか仲間内で、MTは一つの軸のようになった。形容詞にもなった。MTい(エムティい)かMTくないか。ちょっとそれはMTすぎるんじゃないか。あいつはMT足りないんじゃないか。
友人の河内宙夢が、「ターャジス」のような音楽をやりたいと言っていた。「スジャータ」のトラックの文字が反転しているのを見て、これだと思ったらしい。それがどうしたと言えばそれで終わるのだが、「ターャジス」が異物感を持ってただそこにある、と。河内くんの中で昇華した「MTい」の先には「ターャジス」があるんだと思う。
結局、MTいって何なの?
バンド編成であるmtv BANDやHis Bandのライヴも素晴らしかった。彼の音楽を表す様々な言葉の中に「スカム」という用語がある。スカムとは、演奏の下手さ、意味のなさ、訳のわからなさ、ジャンクな音色、雑さ、不愉快さ、どうしようもなさ、等々に価値を見出すことを良しとするジャンル?概念である(このジャンルに一過言ある人にとやかく言われるのはめんどくさそうだ……)が、スカムというのは呪いのようなものなんじゃないかと、俺はずっと考えていた。
例えば自分のバンドの本日休演のキーボーディストであった埜口敏博は、天然のスカム人であった。作るデモの歌の音程がほとんどずれていてなんとか伴奏のキーボードでメロディがわかったり、リズムもほとんどずれていた。本日休演ではそのスカム感をバンドで演奏する時にも再現しようと、ニセモノのスカムをやっていた。埜口はとにかく物持ちが悪く、新しいキーボードのツマミがすぐにどこかにいったり、新しい自転車になぜかウサギの毛がついてすぐにサビついたりと、不器用の権化のようなもので、歩いていても体中をぶつけていたんじゃないかと思う。スカムを全身に纏っていた。
そういうようにスカムというのは、何をやってもスカムになるという、自分自身と向き合いざるを得ない呪いのような概念だと俺は思っていたのだが、MTのバンドを見ると、スカムとは生花のようなものなんじゃないかと思った。
mtv BANDを例にあげるなら、久下(惠生)さんのドラムはワイルドに刻みながら時に大きく音符外のタイミングでスネアの爆裂音を入れる、また冷牟田(敬)さんのギターはオルタナティヴな音色の変化を入れながらメロディからノイズへ移行し、宇波さんは間を縫うように訳の分からないフレーズのベースをいれる。そこにジャキジャキのうるさいギターとキンキンの声のMTがのるという奇跡のサウンドであった。
ロック・バンドの正解が何かはわからないが、こうあるべきである形の一つというような、配置であり、常に緊張感を孕んでいる天然のロックだった。それぞれのミュージシャンが演奏した音の生命力がそのまま天に昇っていくのを、花を生けるように配置だけでまとめあげているような、そんなロック・バンドのやり方があるんだと驚いた。
豊田さんのロック・バンドがいつでも見たい。
最近大阪で新たなメンバーで始めたらしい。ギターのKhan Brownは友人だが、彼も生粋のスカム人だ。バンド内のメンバーや、バンド自身の収まりきらない身体性を、呪いとしてではなくそのまま肯定して「生ける」こと。それはソロであっても同じことなのかもしれない。スカムという言葉を間に受けてメタ的になってしまうと、本物のスカムではなくニセモノということになる。わざとそれらしくスカムにやろうとしてしたり、制約を設けて頑張ってしまうのは、天然物ではない。そうした罠にハマることなく(または矛盾を孕みながら)配置することで、MTは華麗に天然のスカム・ロックを発明した。
しかしスカムとは詰まるところ何だろう。
我々はパッケージされたものに囲まれて育ってきた。自分の中でパッケージすること、それらしくすることで、自分自身をアイデンティファイしている部分もあるだろう。ただ、上手いということ、理解されうること、常識的なパッケージをすることが、良いことなのかというとわからない。まして自分の身体を矯正して、感性の公約数に限定してしまうことが、正しいのかというと誰もわからないだろう。
誰しもが狭間にいるかもしれない。ただそのどちらの彼岸についてもわかることはない。子供の頃に見た風景は結局何が何だかわからなかった。その情報量の多い風景は、記憶によって後から解釈され整理されたものとは違うことは、本能がなんとなく覚えてる。
解釈され整理される前にあったはずの消えてしまったキラメキを(そんな綺麗なものじゃないとしてもその取りこぼしを)、また思い出すことに鍵があるかもしれない。鍵だけで、そこに全てがあるとは思わないが、その鍵というのは、一人一人しか見つけられないモノであるはずだ。なぜなら取りこぼされたもの自体、またそこから何か再び感じとるのかというのが、その人個性そのものであるからだ。
「情報の選び方」「情報の組み合わせ方」というのは、現代を生きるためには必要な考え方の枠組みかもしれないが、何かニヒリスティックに小賢く生きるような言葉にも思える。それらの「情報」とは、意識的に理解できるものに限定されていて、何だかせせこましい印象を受ける。
その「情報」ではなく、パッケージされ得ない自分の身体、声、無意識的なもの、取りこぼされたもの、それらを解釈せずに感じることが、ただそうあるものをそうあるようにすることが、自ずと生のエネルギーを帯びて我々に生きることを肯定してくれるんじゃないかと思う。そういったことが、意識的で情報的な生き方をデジタル化する見出しを破壊できるんじゃないかと俺は思う。
そういうことをMT自身が考えているのかはわからない。考えてしまってる俺は、いつまでたってもニセモノのスカムの罠にハマっているのかもしれない。
スカムとは何かなんてどうでもいいことだけれど。(岩出拓十郎)
Text By Takujuro Iwade
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