音楽映画の海 Vol.6
『顔を捨てた男』
ルッキズムを粉々に吹き飛ばすミュージカル・コメディの怪作
この連載『音楽映画の海』は、新作映画の紹介ばかりをする予定ではなかった。サブスクリプションで見ることのできる過去の映画にも、何か書いてみたい作品がたくさんある。機会があれば、音楽映画の歴史的系譜などについても書いてみたいと思っていた。だが、蓋を開けてみると、次々に取り上げたい新作映画が登場してきて、そんな余裕もないままに、最初の半年が過ぎてしまった。
そんな2025年の上半期、僕が最も心動かされた映画中の音楽パフォーマンスは、7月11日に公開されたアーロン・シンバーグ監督の新作『顔を捨てた男』の中にあった。『顔を捨てた男』が音楽映画か? というと、そこまで音楽の比重は高くない。が、2025年のゴールデン・グローブ賞では主演のセバスチャン・スタンが「ミュージカル・コメディ」部門で、最優秀主演男優賞を受賞している。となれば、本連載で取り上げても、おかしくはないだろう。ただし、僕が心動かされたそのワンシーンというのはセバスチャン・スタンではなく、共演のアダム・ピアソンが歌うシーンだった。
そこでピアソンが歌う「I Wanna Get Next to You」という曲をフル・ヴァージョンで聴きながら、今回の原稿は読んでもらうと良いかもしれない。
映画『顔を捨てた男』は映画としても何度も見なおしたくなる傑作だ。監督のアーロン・シンバーグはこれが3作目。作品が日本公開されるのは初めてだ。ニューヨークを舞台にした物語はセバンスチャン・スタン演ずるエドワード、アダム・ピアソン演ずるオズワルド、レナーテ・レインスヴェ演ずるイングリッドの3人を軸として進む。
神経線維腫症で顔が変形したアダム・ピアソンはイギリスの俳優で、本国ではテレビ司会者として有名だ。シンバーグ監督は前作の『Chained for Life』でもピアソンを起用している。『Chained for Life』は2018年のインディー作品だが、それが高い評価を受けて、シンバーグ監督は《A24》制作の『顔を捨てた男』に進むことになった。
『Chained for Life』は映画のロケーション現場に監督が呼び寄せたフリークスの集団が到着するところから始まる。ピアソン演じるローゼンタールはその一員で、彼とジェイ・ウェクスラー演ずる映画の主演女優、メイベルのコミニュケーションが映画を進行させていく。映画俳優には美しい人々が選ばれる。それを象徴するようなメイベルとローゼンタールの美醜の対比。当初、ローゼンタールと会話するメイベルは動揺を隠せない。見た目で差別をしてはいけないという意識が動揺に現れるのだ。しかし、彼女はプロの女優である。撮影が始まれば、ローゼンタールとの濡れ場でも自然に演技することができる。
そんな映画内映画の撮影現場を描く『Chained for Life』は、それでは『Chained for Life』の撮影現場でのジェイ・ウェクスラーとアダム・ピアソンの関係はどんなだったのだろう?ということを想起させたりもする。さらには、私たち自身はルッキズムの問題に対して、どういう態度を持つべきなのだろう?ということを教条的にではなく、考えさせる。映画の中にははっきりした答えはない。だからこそ、シンバーグ監督は6年後に再びアダム・ピアソンと組んで、『顔を捨てた男』という映画を撮ったのかもしれない。
『顔を捨てた男』では主演のセバンスチャン・スタンがマスクを付けて、神経線維腫症で顔が変形した男、エドワードを演ずる。彼は役者志望で、小さな役にはありつくことはあるものの、孤独な一人暮らしをしている。そのエドワードのアパートの隣室にレナーテ・レインスヴェ演ずるイングリッドが越してくる。レインスヴェはノルウェーの女優で、2022年のトキアム・トリアー監督作品『わたしは最悪。』で、カンヌ映画祭の女優賞を獲得している。米国映画で全編英語の演技するのは本作が初めてだ。
アダム・ピアソン演じるオズワルドとセバスチャン・スタン演じるエドワード
イングリッドはエドワードのルックスを気にしない優しい女性だった。劇作家志望の彼女とエドワードは親しくなっていく。一方で、エドワードは神経線維腫症の新しい治療法の治験者となる。その治療法が成功して、彼の腫瘍は取り除かれる。以後、それまでマスクをしていたセバスチャン・スタンは、彼自身の顔でエドワードを演ずる。
新しい顔を得たエドワードはガイ・モラッツという名を名乗り、新しい人生を歩み出す。不動産会社に就職し、営業マンとしてナンバーワンの成績を挙げる。エドワードという人間は姿を消すが、イングリッドは彼との記憶をもとに戯曲『エドワード』を書き上げ、オフ・ブロードウェイでの上演にこぎつける。それを知ったガイ(エドワード)は医師からもらったフェイス・マスクを使って、そのオーディションを受ける。
彼自身をモデルにした物語を演じるガイは、他のフリークス俳優達を押しのけて、主役の座を獲得する。イングリッドは彼の正体は知らぬままだったが、二人は性的関係を持つようになる。ところが、そんな劇のリハーサルの場にある日、オズワルドが現れる。彼はかつてのエドワードにそっくりの神経線維腫症で変形した顔を持っていた。
このオズワルドの登場は、映画が半分以上を過ぎた頃である。しかし、そこからはアダム・ピアソン演ずるオズワルドがすべてを持って行ってしまう。資産家で、自由な人生を生きているオズワルドは教養に溢れ、人格には謎めいた奥深さがある。醜形障害をものともせず、自信家で、社交的でもある。映画の登場人物も、あるいは観客も皆がオズワルドに惹きつけられていく。対して、ガイは自信を失っていく。
冒頭で書いたアダム・ピアソンが「I Wanna Get Next to You」という曲を歌うシーンが出てくるのはそのあたりだ。公園で偶然会ったガイとオズワルドは二人でバーに行く。そこでオズワルドがカラオケを歌うのだ。ピアソンは口唇の障害ゆえに普段からごもごっとした声で喋る。少し高いファルセット気味の声だ。「I Wanna Get Next to You」はそのファルセット・ヴォイスを存分に使ったソウル・バラードとして歌われる。これがめちゃめちゃカッコイイ。岡村編集長の好きなアントニー&ザ・ジョンソンズのアントニー(アノーニ)を思い出すくらいだ。
自分本来の顔、名前、人生を捨ててしまったガイと、自分自身であることに肯定的なオズワルドの対照が、この「I Wanna Get Next to You」の歌唱シーンで決定的になる。以後、ガイは恐ろしい勢いで転落していく。イングリッドが創作したエドワードのキャラクターを演じきれず、イングリッドの苛立ちを買い、役を失うことになる。イングリッドはオズワルドのアドバイスを得て、戯曲を書き換え、オズワルドをその主役に抜擢する。ガイとは別れて、オズワルドと恋仲になっていく。
イングリッドとエドワード
アーロン・シンバーグ監督によれば、『Chained for Life』でピアソンが演じたローゼンタールは控えめな性格だったが、『顔を捨てた男』ではよりピアソン自身に近いポジティヴな役柄を与えることが、映画の最初の構想としてあったそうだ。人々のルッキズムに対する考え方を揺さぶりたいというのは、監督の中にある最重要なテーマで、それは監督自身が過去に両唇口蓋裂の治療を受けた体験とも結びついているという。それゆえに鬱屈した少年時代を送ったシンバーグ監督は、ピアソンと出会ったことで、ダークな笑いでルッキズムを粉砕する本作を生み出すに至ったのだ。
オズワルドが歌うシーンのメイキング
「I Wanna Get Next to You」の歌唱シーンは、そんな映画のポジティヴなメッセージを象徴しているが、実はピアソンにとって、歌うということは新しいチャレンジだったようだ。映画中のオズワルドはジャズ好きで、コルトレーン風のサックスを吹いたりするシーンもあるが、実際には演奏できないそう。歌唱の録音も「I Wanna Get Next to You」以外には残したことがない。しかし、その滋味深いフィーリングは驚くべきものだ。
「I Wanna Get Next to You」という曲は多分、シンバーグ監督が選んだものだろう。同曲は1976年にR&Bグループのローズ・ロイスが発表している彼らの最大のヒット曲だが、ヒットの要因はマイケル・シュルツ監督の同年の映画『カーウォッシュ』の中で使われたことだった。
この『カーウォッシュ』の音楽監督はサイケデリック・ソウルの鬼才、ノーマン・ホイットフィールド。モータウンから独立直後の彼が全力を傾けたのが同映画のサウンドトラックで、ローズ・ロイスというグループもそのためにホイットフィールドが作り出したものだった。『カーウォッシュ』はカンヌ映画祭で最優秀音楽賞を受賞し、サウンドトラックはグラミー賞の年間最優秀映画音楽賞を受賞した。
全編が同時代のR&Bやファンクで埋め尽くされた『カーウォッシュ』はブラック・ミュージック好きならば、必見の映画だ。当時のロサンジェルスの空気感がリアルに伝わってくるのも楽しい。まだヒップホップがやってくる前の時代だが、カーウォッシュのスタンドで働く黒人達の会話は、すでにラップのようでもある。そんな映画中で「I Wanna Get Next to You」は従業員の一人が思いを寄せるコーヒーショップのウェイトレスに会いに行くシーンで使われる。70年代のアメリカ映画にとりわけ思い入れがあるらしいシンバーグ監督は、間違いなく、『カーウォッシュ』のこのシーンを念頭に「I Wanna Get Next to You」という曲を選び出したに違いない。
「I Wanna Get Next to You」の原曲はそういうR&Bチューンだが、『顔を捨てた男』のサウンドトラックは同曲を含め、イタリアで制作されている。音楽監督を務めたのはウンベルト・スメリッリ。彼はローマで活動している作曲家だが、アメリカの映画音楽を手掛けるのは本作が初めてだという。シンバーグ監督とは2017年頃に映画フェスティヴァルで知り合っている。二人は同世代で、ニーノ・ロータを敬愛するということで、意気投合したようだ。
『顔を捨てた男』のサウンドトラックはスメリッリの書いたメインテーマのメロディーが、シーンに合わせて、様々な形で変奏される。イタリア映画音楽的なオーケストレーションもあれば、ニューヨークの夜を感じさせるジャズ・アンサンブルもある。だが、驚くべきことにスメリッリはほとんどセッション・ミュージシャンを使わず、自身で楽器を演奏して、このサウンドトラックを作り上げたのだという。唯一の歌ものである「I Wanna Get Next to You」も例外ではないようだ。そこでのちょっとチューニングのずれたギターの響きもスメリッリが意図的に置いたものだろう。トラジコメディらしい微妙なアンビバレンツが香るサウンドだ。
ダークだが、シリアスにはなり過ぎず、どこか狂ったような笑いを誘う感覚もあるサウンドトラックは、スメリッリの出世作になるに違いない。世界的な仕事が増えていくのではないだろうか。それはアーロン・シンバーグ監督にもセバンスチャン・スタンにもアダム・ピアソンにもレナーテ・レインスヴェにも言えることかもしれないが、「I Wanna Get Next to You」を聴いてしまった僕がとりわけ望むのは、ピアスンがさらに歌ってくれることだ。それは映画界と同じくルッキズムに覆われた音楽界に衝撃を引き起こすかもしれない。
『顔を捨てた男』は前作と同じく、少し宙ぶらりんな終わり方をする。ハッピーエンドではないし、かといって破滅的なエンディングにもならない。映画が終わっても、世界はさほど変わらず続いていく。そこがむしろ怖い。この映画体験を僕は長く引きずるだろう。メインテーマのメロディーは決して忘れないし、「I Wanna Get Next to You」は折に触れて、聴き返すだろう。『顔を捨てた男』はそういう強度を持った稀有な音楽映画である。(高橋健太郎)
Text By Kentaro Takahashi
『顔を捨てた男』
2025年7月11日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開
監督・脚本 : アーロン・シンバーグ
出演 : セバスチャン・スタン、レナーテ・レインスヴェ、アダム・ピアソン
撮影 : ワイアット・ガーフィールド
編集 : テイラー・レヴィ
音楽 : ウンベルト・スメリッリ
製作 : クリスティーン・ヴェイコン、ヴァネッサ・マクドネル、ガブリエル・メイヤーズ
2023 年/アメリカ/カラー/ 1.85 : 1 /5.1ch /112 分/PG-12/ 英語/原題 :A Different Man
配給 : ハピネットファントムスタジオ
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公式サイト
https://happinet-phantom.com/different-man/

