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【ビートルズの遺伝子を考える #2】
「ビートルズが好きだった僕は周囲からよくからかわれたよ。そんなもの聴いてるのかってね」
初来日公演直前のライトニング・シーズ、イアン・ブロウディが語る自身のキャリアとビートルズ

17 November 2019 | By Masashi Yuno

【ビートルズの遺伝子を考える】シリーズの第二弾、もうまもなく初来日公演を実現させるライトニング・シーズのイアン・ブロウディの最新インタビューをお届けする。ライトニング・シーズと言ってピンとこない人も、「Three Lions」を聴けば「ああ、これか!」と気づく人も多いことだろう。“It’s coming home”が繰り返されるこの曲は、1996年にサッカーの《ユーロ ’96》のイングランド代表公式ソングとして作られたもので、当時全英1位を獲得。今なお、英国フットボール好きの間で親しまれている、言わばイングランド代表のナショナル・アンセムのような存在の曲だ。去年もサッカー《ワールドカップ》ロシア大会において、イングランド代表が28年ぶりに準決勝に進んだ勢いもあり、この「Three Lions」が全英チャートでまたしても1位に輝いている。


この「Three Lions」を作ったのがライトニング・シーズのイアン・ブロウディ(作詞には当時の英国サッカー番組に出演していたタレントのデイヴィッド・バディエルとフランク・スキナーも関わっている)。ビートルズの故郷と同じ港町・リバプールで70年代に活動を開始し、エコー&ザ・バニーメンやジュリアン・コープのティアドロップ・エクスプローズといった同世代の仲間とともに、リバプールから世界に向けて新しい風を送り込んだ重要アーティスト、ソングライターである。

ライトニング・シーズとしての活動は1989年からだが、1970年代から80年代にかけてビッグ・イン・ジャパン、オリジナル・ミラーズといったバンドで活動、また、プロデュース・ワークを並行して多く行うことで彼の名前は一躍世界へと知らしめることとなった。エコー&ザ・バニーメンを皮切りに、ペイル・ファウンテンズ(と、シャック)、ザ・フォール、アイシクル・ワークス、カラーフィールド(と、テリー・ホール)、ボ・ディーンズ、ノースサイド、フランク&ザ・ウォルターズ…などなど80年代から90年代にかけてイアンが手がけてきたアーティストは数えきれない。同じリバプールの後輩にあたるコーラルやズートンズの楽曲に関わったこともあるし、アークティック・モンキーズ、カイザー・チーフスといった2000年代以降の世代から慕われてきたのも記憶に新しいだろう。
現在はそんなイアン・ブロウディのソロ・ユニットのようになっているライトニング・シーズが、解散を経て2000年代後半に再結成しているのは知っていたが、ここにきてよもやの初来日公演が行われることとなった。プロモーションで来日したことはあっても日本で演奏すること自体は初めてのことだ。
実は私はこのライトニング・シーズを94年にロンドン中心部にあった《Astria》という割と大きめのライヴ・ハウスで一度観たことがある。まだ「Three Lions」ヒット前だったが会場は満員、オーディエンスが大団円になって盛り上がる様子は、例えばキンクス、マッドネス、スクィーズ、ビューティフル・サウス…といった世代を超えた英国国民的バンドの系譜上に彼らがいることを実感させてくれた。もちろん、そのルーツにはビートルズという絶対的な存在がいるわけだが…。
そんなイアン・ブロウディに電話で緊急インタビューを行った。インタビュアーは、近年はサウス・ロンドンにも実地で取材を敢行するなど年に何度もイギリスに足を運ぶほどの英国通である油納将志さん。リバプールを今なお故郷と認めるイアン・ブロウディにはビートルズについての質問にも答えてもらったのでぜひ最後まで楽しんで読んでもらいたい。初来日公演は、もうまもなく11月19日、20日に《ビルボード東京》で開催される。(岡村詩野)


まさに夢がかなったという気持ちでいっぱいだ。しかもいちどにふたつ。ひとつめはイアン・ブロウディー率いるライトニング・シーズが初来日すること。もうひとつはイアンにインタビューするということ。イアンは地元リヴァプールでビル・ドラムンド(The KLF)やホリー・ジョンソン(フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド)らと結成したビッグ・イン・ジャパンを皮切りにミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせ、同時にプロデューサーとしてもエコー&ザ・バニーメンをはじめ、地元のバンドたちの作品を多く手がけた。ポスト・パンク時代から現在に至るまで、英国のロック/ポップの栄光の一部を担い、自分にとって思い入れの深い作品をいくつも手がけてきたイアン・“キングバード”・ブロウディーに話を聞くことができる機会が訪れるとは思ってもみなかっただけにまさに感無量の思いだ。(取材・文/油納将志  通訳/安江幸子)

Interview with Ian Broudie

──あなたはビッグ・イン・ジャパン、オリジナル・ミラーズのメンバーとしてミュージシャンのキャリアをスタートさせますが、並行するようにプロデューサーとしても活躍するようになりしたね。最初にプロデューサーとしてクレジットされたのは、オリジナル・ミラーズを除けば、エコー&ザ・バニーメンのデビュー・アルバム『Crocodiles』(1980年)が最初だと思うのですが正しいでしょうか?

Ian Broudie(以下、I):そう、(エコー&ザ・バニーメンの)「Rescue」という曲でね。でも、僕はプロデューサーを志していたことがなくてね。

──えっ、本当ですか。

I:やりたいと思ったことはなかったよ。説得されてやったという感じだった。

──望んではいなかったけれど、あなたのビッグ・イン・ジャパンやオリジナル・ミラーズでの作風が気に入った人たちが、そのスタイルを自分たちの音楽に取り入れたいと考えて頼んできたから仕方なく?

I:そうだったかどうかも実は分からないんだ。というか、僕はエコー&ザ・バニーメンのメンバーと仲が良かったんだけど、彼らは僕のことを「曲のアレンジが得意なギタリスト」と認識してくれていたんだよね。僕とやる前に何度かレコーディングをしてみたけど、その時に起用したプロデューサーたちとはうまくいかなかったらしい。それで、気心知れていて気に入っているやつに頼もうという話になって声がかかったんだ。最初はあまり乗り気じゃなかったよ。そもそもプロデューサーになりたいなんて思ったことがなかったからね。その気持ちが僕のキャリアの中で大きな要になっている気がする。プロデューサー業がキャリア上一番あり得るオプションだった頃も、プロデューサーであるよりもソングライターであろうと努めてきたから。

──つまり、「プロデュース業」をしていたときも、相手のソングライティングにより深く携わっていたということなのでしょうか。

I:うーん、そうじゃないと思うな。ごめん(笑)。まぁ、そう思うのも無理はないと思うけど。僕は……結構プロデュースが得意だと思うんだよね。ただ、自分が特にやりたいことではないってだけで。

──あなたのプロデューサーとしての才能を見抜いたのは他人の方が先だったとうことですね。

I:そうなるね。ただ、ここ10年くらいの間ではひとつくらいしかプロデュースしていないけど。やりたいという野心もないから、オファーが来てもそんなに受けないんだ。

──そうは言いつつ、長年の間に手がけたアーティストは数えるのが大変なほどで、ミュージシャンとプロデューサーの二足のわらじを履き続けていたわけですが、互いのキャリアに良かったことは?

I:そうだね……僕にとって素晴らしかったのは、他人のやり方を垣間見ることができたことだな。グループやバンドの興味深いところはまさにそこだからね。みんなそれぞれ独特のやり方を持っているんだ。時にはそんなやり方でうまくいくなんて! と想像もつかなかったような場面を見ることもある。こっちの視野も広がるし、そういう可能性があるんだってことを大きな括りで認識できるのが良かったと思う。それから……何て言えばいいかな、僕は要求が高いから、可能性が増えたことでこれくらいでいいかなって、受け容れてしまうことが減ったということかな。

──といいますと?

I:うーん、もしかしたらプロデューサーだからそうなったというわけではないかもしれないけど、僕は時として、自分の曲に取り組むときに情け容赦ないときがあるんだよね。特定のゴールに向かうとき、自分を納得させるのに時間をかけるんだ。他の人たちが意外な方法で望むものを手に入れるのを見ているとそうなるよね。そういうことを経て、プロデューサーをやったことで自分自身のキャリアを築くことに自信がついたと思うんだ。

──一方、ミュージシャンとしての経験はいかがでしょう? 他人のプロデュースをするときにとても役立ったのではないかと思うのですが。

I:そう、そうと言えるね。世の中には色んなタイプのプロデューサーがいるけど、こんな言い方をするのもひどいけど(笑)、僕はプロデューサーのファンでは全然ないんだよね。僕が心からリスペクトしているプロデューサーは本当に数少ないんだ。その人たちはみんなとてもスペシャルな存在だよ。一般論としては、プロデューサーっていうのはすごく退屈な仕事になってしまうこともあり得るけど、一部の人はそれを本当にスペシャルなものにしているんだ。そういうスペシャルなプロデューサーの多くは、枠にとらわれない考えができる人たちだ。視点を変えたアプローチができる人たちだね。僕もいつもそういう感じになろうとしているんだ。僕のアプローチはおそらく、ミュージシャンとしてのそれになっていると思う。あっ、ミュージシャンとしてというよりソングライターかな。

──あなたが手がけたペイル・ファウンテンズの『…From Across The Kitchen Table』(1985年)とザ・ボディーンズの『Played』(1987年)は私の中で特別な作品として今も聴き続けているんですが、この作品に関する思い出はありますか?

I:君、ずいぶん歳がいっているんじゃない(笑)?……確か僕のキャリアの中でも初期だったんじゃないかな。僕がそれらのアルバムでやってしまった間違いと言えば、自分を出しすぎてしまったことだと思うね。振り返ってみても、当時彼らはあまりうまくなかったから。

──そんな(笑)。若すぎたからということでしょうか?

I:いや、ただあまりうまくなかっただけさ。それで妥協して妥協して、彼らが望む以上のことを……説明するのが難しいんだけどね。僕自身もプロデューサーとアーティストの境界線が分かっていなかったところがあったから、クレジットされなくてもアレンジを書いたり、ギターの多くを自ら弾いたりして、楽器まで担当していたんだ。後になって徐々に、そこまですべきではないと思うようになった。その経験が教訓になって、その後プロデュースをやるときは、そのバンドのスペシャルな点は何なのかを見いだすことが大切だと学んだよ。その良さを引き出してあげることが大事で、自分でいいと思ったものを自演して入れてやるんじゃだめなんだよね。そうそう、君がペイル・ファウンテンズに興味があるってことで話すと、彼らと仕事をするようになったときに、僕は彼らにラヴみたいな音を求めていたんだけど、彼らは(バート・)バカラックみたいな音を目指していたから、ちょっと気に入らなかったんだよね。それでラヴみたいなスタイルでいくように説得したりしたんだ。そうしてできたのが『…From Across The Kitchen Table』だった。

──すごく興味深い話です。ありがとうございます。あなたは80年代後期までは、バンドの志向もありますがサイケデリックで陰影に富んだサウンドを多く手がけてきたように思います。それがライトニング・シーズの活動が始まるくらいのタイミングから明るくキャッチーなサウンドに移行していったように見受けられますが、それは時代の変化だったのか、それともあなた自身の音の志向の変化だったのか、どちらでしょうか?

I:うーん、その見解は僕としては正しいと思えないな(笑)。僕自身はずっとサイケデリックな音を求めていたと思うんだ。実際ライトニング・シーズもその色が濃いと思うしね。ザ・ボディーンズとかを手がけていた時代よりも濃いような気がするけど。日本だと理解してもらえるのは難しいかもしれないけど、曲調は確かに君も言った通り明るくてハッピーかもしれない。でも僕の歌詞の多くはまったくハッピーじゃないんだ。多くというか、ハッピーなものはひとつもないと言ってもいいかもしれない。メロディックではあるけどね。

──ええ、とてもメロディックだと思います。歌詞というより耳に心地よいキャッチ―なサウンドになった感じといいますか。歌詞の内容がアンハッピーだったとしても。

I:うーん…まあ、薄暗いサウンド(Pale sound)でもキャッチ―になろうとしている曲は多いからね。そういうことじゃないかな。それはずっと昔からそうしようとしていたことだけど、昔はあまり上手じゃなかったんだ。それでも薄暗くてなおかつキャッチーなものを目指そうとしていたんだ。ザ・ボディーンズもとてもメロディックだったけどね。

──なるほど。では、ライトニング・シーズはどのような思いを持って結成されたのでしょうか? 初めはあなたのソロ・プロジェクトとして始まったのが徐々にバンドになっていったのではないかと想像しているんですが。

I:うーん、その見解も正しくないなぁ(笑)。自分としてはソロ・プロジェクトという意識はなかったし、バンドになったとも思っていないんだ。当時、リヴァプールのバンドの多くがレコード会社と契約し始めていたけど、僕にとってはみんな退屈に見えた。ある意味ね。退屈というと語弊があるけど。それでも彼らはギグをやることができた。その頃、僕は自作の曲がいくつかあって、レコーディングしたいなと考えていたんだ。単にそれらを「存在」させるようにね。そうしたら「記録」が残るから。だからレコーディングすることにした。ただ特に希望を持っていたわけじゃなくて、このままプロデューサーが本業になっていくのかもしれないな……と思いながら。それがすごくフラストレーションでね。プロデューサーとしての経験がそうさせたんだと思う。プロデューサー業の経験というのは、自分の絵を上から誰かに塗りつぶされるような感じがしたんだよね。うまく説明できないけど、とにかく僕にとってはフラストレーションの溜まる経験だった。だから自分だけで何かをやりたい、少なくともその記録が欲しい、と思ったんだ。


それで録音したのが、ファースト・アルバムの『Cloudcuckooland』(1990年)だった。あれは大半を自宅で録音したものだったんだ。当時はレコード会社とも契約していなかった。そこにちょっと奇妙なキャラクターというか、ちょっと怪しい男がいて、そいつがいくつか曲を聴いて、アルバムを出したいと言ってくれてね。だけど彼はレーベルを持っていなかったんだ。それで彼は人を雇って、曲をラジオに売り込んでいった。それで様子を見ようと。その時は確かラフ・トレードを通じて、「Pure」のプロモ盤を500部くらい作ったんじゃないかな。それをラジオ局に持って行ったんだ。「Pure」は数ヶ月の間に色んなラジオ局でオンエアされるようになって、アメリカでもかかった。すごく自然な形でね。徐々に育ち続けていった感じだった。それと同時にアルバムも育っていったんだ。だからすごく奇妙な状況だったんだよね。レコードは出ていたけど、それを演奏するバンドがなかったわけだから。そんなおかしな状況の中、僕はこれをライトニング・シーズと呼ぶことにしたんだ。というのも、これが何かに発展するような気がしていたから。もし自分の名前でいったら、クリエイティヴ面に上限を設けてしまうような感じがしたんだ。自分の名前だとソロ・アルバムになってしまう。でも、ソロ・アルバムというのは自分がグループに属していて、そこから離れて「ソロ」でやることだからね。僕にとってこれらの曲は、単に僕が録音しておきたいと思った曲にすぎなかった。僕の考えとしては、何かを世に出せばいいことが起こるかもしれないという感覚だったんだよね。行動しなかったら何も起こりようがないだろう?

──それは確かに。

I:そういう考えのもとに始まったということなんだ。ポジティヴなエネルギーがあって、それを世の中に出して……僕はかねてから、音楽というのはマジックみたいなものだと考えてきた。マジックのようなクオリティを持っているってね。そういう考えに魅了されてきた。イングランド北部のリヴァプールという小さな街で書いた曲が何百マイルも放送波を越えて世界中に広がって、自分とはまったく違う生活をしている、出会ったこともない人々に届く。そんなことに僕は親しみを感じて影響を受けてきたんだ。素晴らしいことだと思ってね。実際「Pure」で自分の身にそういうことが起こって本当にワクワクしたけど、だからと言ってどうすればいいのかよく分からなかった。それでもう1枚アルバムをレコーディングしたんだ。実は兄貴の自宅でね。僕の家には空き部屋がなかったから(笑)。そこで録音したのが「Life of Riley」や「Sense」などだったんだ。ちょっと先の話にするよ、その方が話が早いから。『Sense』(1992年)のツアーの話が出たけど、その時点でリリース元だった《Ghetto》との契約がなくなっていたことに気付いて頓挫したんだ。その頃、僕はアリソン・モイエのプロデュースをやっていた。ある時、彼女のレコード会社のスタッフが僕を訪ねてリヴァプールのスタジオにやってきたんだ。素晴らしい男で、すごく馬が合ったんだ。その彼が「僕はライトニング・シーズの大ファンなんだ。もうやらないのか?」と聞いてきた。「アルバム半分くらいは作ったけど今はレコード会社との契約もないから、好きで作っているだけなんだ」と答えたんだ。そうしたら「聴かせてほしい」と彼は言った。未完成でもいいからってね。それでアコースティック・ギターで弾いて聴かせた曲と、レコーディング途中のものをいくつか聴かせたんだ。そうしたらその場で当時のソニーのヘッドに電話してくれた。「今すぐ列車に乗ってリヴァプールに来てくれ」ってね。彼らがすごく感激してくれて、ライトニング・シーズを契約したいと言ってくれた。でも、もう1枚アルバムを作るのか……という気持ちもあったよ。僕はギグがやりたくてたまらなかったから。本物のバンドをやりたかったんだ。レコード会社も賛成してくれた。それで3枚目のアルバム『Jolification』(1994年)の時は、僕は雇われのセッション・ミュージシャンと一緒にやるのはあまり好きじゃないから、自分の友達でバンド経験はあるけどその時点では特に活動していなかったミュージシャンを集めたんだ。それがライトニング・シーズの初代ラインナップになった。ライトニング・シーズのラインナップは、ライヴ・バンドとしては常に変わり続けていた。レコーディングは僕がやって、バンドはツアー・バンドとして機能していたんだ。だから「バンド」だったことはないんだよね。僕の感覚では「バンド」とは違うものなんだ。ザ・ザのマット・ジョンソンや、ノエル・ギャラガーとかに近いかな。あれはライヴをするための「バンド」だからね。

──「ライトニング・シーズはソロ・プロジェクトでもバンドでもない」とおっしゃっていた意味がやっとわかりました。最初にその言葉を聞いたときはちょっと困惑したんですが、今説明してもらえてしっくりきました。つまるところ、あなたが常にソングライターとしての自分を意識していたからこそこういう道をたどったのではないでしょうか。あなたの音楽はファースト・アルバムの『Cloudcuckooland』にしても、さかのぼってペイル・ファウンテンズの作品にしても、いつ聴いても古びた印象はありません。その理由は何よりもメロディを重視したソングライティングだからだと思うのですが、いかがでしょうか?

I:それには完全に同意するね。さっき僕が言っていたことを強調もしてくれている意見だと思う。さっき「自分を出しすぎてしまった」という話をしたけど、『…From Across The Kitchen Table』なんてライトニング・シーズの音に近いしね。だからさっき君が「作風が変わった」と言ったときに「それは違うと思う」と言ったんだ。ある意味すごく似ていると思うから。他人のプロデュースをするときは、彼らの花を咲かせる必要があるんだ。その上に自分がいるんじゃなくてね。解るよね? あの頃僕はソングライターになりたいと必死なあまり、ああいうものを作ってしまったけど。

──そうしたソングライティングの姿勢があるからこそ、1曲で4度の全英1位に輝くことができたのだと思います。その「Three Lions」の誕生の経緯について教えてください。こんなにもタイムレスで愛される曲になると思っていましたか?

I:当然「ノー」だよ。思いもよらなかったね。自分自身では「Three Lions」より「Pure」の方がいい曲だと思うしね。「Three Lions」のときはイングランドのフットボール協会から依頼が来たんだけど、僕はいわゆる「ナショナリスト」ではないし、好きじゃない。で、当初その話が来たときは、それが本当に自分のやりたいことなのか、よくわからなかった。それで思いついたんだけど……僕はリヴァプール出身だから、当然リヴァプールFCのファンだ。リヴァプールFCの応援歌は「You’ll Never Walk Alone」だって知られているけど、この曲は基本的に、苦難を一緒に乗り越えていくという感じの内容でね。別にフットボールについて歌っているわけじゃない。人々が力を合わせていく感じの歌でね。それで、自分がフットボールの曲を書くことになったとき、共作者のフランク(・スキナー)とデイヴィッド(・バディエル)と一緒に考えたんだけど、僕はチアリーディング・ソングはやりたくなかった。特定のチームを応援するものじゃなくて、フットボール・ファンがみんなで「感じられる」ものにしたいと思ったんだ。だからチームに関する文言は一切出てこない。すべてファンについて書かれているんだ。

──確かにフットボール全般を対象にした曲の感じがしますね。

I:というか、ファンだね。ファンの気持ちになって書いたんだ。フットボールのチーム、特にイングランドを応援していたら、がっかりすることばかり。負けるからね(苦笑)。で、この歌は「負けたとしてもそのチームを信じるし、これからも付いていく」ということを歌っているんだ。そして、夢はいつだって見ることができるってね。僕も含めて、多くの人にとって、夢を見るというのは重要なことだから。そういう曲にしたから今の状態があるんだと思うね。もしチームのことを歌った曲だったら、ずっと前に廃れてしまっていたと思う。この曲は人の気持ちに入り込んでいる曲だからね。この曲を聴くのにイングランドのファンである必要はない。どんなスポーツのどんなファンでも共感できる内容なんだ。イングランドだけじゃなくてもっと幅広く親しまれればいいなという願望は持っていたよ。少しはそうなっているといいと思う。ドイツのサッカーファンも歌っているらしいし、他のスポーツでも歌われていると聞いたことがあるからね。そういう事実を心から誇りに思うようになったよ。でも、完成した曲をイングランドのフットボール協会に持っていったら、彼らはゾッとしていたね。全然気に入ってくれなかったんだ(苦笑)。

──気に入らなかった!?

I:そうなんだよ。で、僕に歌詞を全部変えろと言ってきた。これじゃ出したくないとまで言われたよ。だから、ちょっと波乱の道のりだったんだよね。でも最終的にはそのまま出してくれて、うまくいったんだ。

──協会もそう決断してよかったと思っているんじゃないですか。今じゃフットボール界のアンセムですものね。イングランドだけでなくてスコットランドやウェールズでも歌われているでしょうし、世界中でも…日本ですら、フットボールをテレビで放映しているときにかかることがありますよ。

I:うん。それがすごくうれしいんだ。素晴らしいことだよね。中には自分たちのクラブ用に歌詞をちょっと変えて歌っている人たちもいるみたいだよ。そういう話を聞くと素晴らしいと思う。人が自分の曲を歌っているのを見るのはいつでもとてもうれしいものだよ。あの曲は感情ととてもリンクしている気がするね。イングランドの調子が良ければ声高らかに歌っているし、調子が悪いときはあまり歌っていない(笑)。

──わかります(笑)。ところで、今もリヴァプールにお住まいなのでしょうか?

I:いや。バンドとしての拠点は今もリヴァプールで、リハーサルもそこでやっているけどね。メンバーも全員リヴァプール出身だし。

──実はこのインタビューは【ビートルズの遺伝子】という連続企画のひとつでして。今は住んではいないということですが、現在のリヴァプールという街の中でのザ・ビートルズの存在感はどういったものなのでしょうか? 時代によって変遷はありましたか?

I:今もリヴァプールにはよく行っているよ。今からその質問には答えるけど、その質問があった中でペイル・ファウンテンズやザ・ボディーンズの質問をしていたのは興味深いね。僕はザ・ズートンズやザ・コーラルの質問をしてくるのだとばかり思っていたよ。彼らもリヴァプール出身だし、僕がプロデュースした作品は成功もしたしね。まぁいいや(笑)。

──もちろん、ザ・ズートンズやザ・コーラルも好きですよ(笑)。

I:ありがとう(笑)。おもしろい話があるんだけど、ほら、僕はビッグ・イン・ジャパンとかパンク・シーンからキャリアを始めただろう? 大昔の話だけどね。その後の僕のキャリアはエコー&ザ・バニーメンや、ペイル・ファウンテンズも確か少しそうだったと思うけど、アイシクル・ワークスやザ・コーラル、ザ・ズートンズに至るまで、リヴァプールのバンド三世代にわたっている。最初の頃《エリックス》(※かつてのリヴァプールにあったライヴ・ハウス/クラブ)がまだリヴァプールにあった時代は、僕はザ・ビートルズのファンだったけど、彼らが解散してから6、7年経ってから好きになったんだ。当時は大昔のバンドだと思っていたから、今にしてみれば不思議な話だけどね。でも晩年の作品の日付を見てみると、1969年や70年にできたものなんだよね。

──そうですね。

I:パンク・ロックは1976年、77年くらいから出てきた。当時の僕はビートルズとかドアーズなんかは大昔のものだと思っていたんだ。今だったらインターネットがあるからすぐわかるけど、当時はビートルズとかは「失われた」ものだったんだ。当時のミュージシャンのアティチュードもそんな感じで、みんなビートルズがあまり好きじゃなかったんだよね。僕はザ・ビートルズが大好きだったからよくからかわれたよ。そんなもの聴いてるのかって。

──えっ!

I:ほら、パンク・ロックはパンク・ロックだからね。パンクスはビートルズを好きになっちゃいけなかったんだ(笑)。でも僕はビートルズが大好きだったし、キンクスもサイケデリアも大好きだった。ただ、それは周りには受け容れられなかったね。その後、少ししてエコー&ザ・バニーメンと出会ったときは、ビートルズのサイケ時代が好きということで意気投合したんだけどね。あとはドアーズとか。その頃は人々の見方も変わりつつあった。それでもリヴァプール市としてはビートルズにまったく敬意を示していなかったけどね。観光客も来なかったし、ビートルズは昔のグループという扱いだった。敬意を示すようになったのはずっと後だよ。ビートルズはずっと後になって再発見のような形で脚光を浴びるようになったんだ。そうしたら市も「エリナー・リグビー」の像を建てたりしてさ(笑)。《キャヴァーン》も再オープンして、みんなこぞって行っていたよ。すごくにぎやかになって、そこから徐々に発展していったんだ。言うまでもなく彼らの人気もそこから大きくなっていった。今じゃ僕が出会うミュージシャンは全員、ノエル・ギャラガーからポール・ウェラーまで、もちろんリヴァプール出身のミュージシャンもビートルズに夢中なんだ。一巡してそうなったという感じだね。

──あなた自身はパンクでありながらビートルズ・ファンでもあったということで、そのことが長年の間にユニークな音楽性を築き上げるのに役立ったのではないでしょうか。他人のプロデュースをするときも、両方の世界を知っていることが助けになったのでは?

I:そうだね。僕がずっと夢中なのは音楽そのものだから。今もあらゆるタイプの音楽に夢中なんだ。中でもビートルズにはものすごく大きな影響を受けているよ。ミュージシャンとしてももちろんだけど、同じ街の出身としてね。僕は1960年代、ビートルマニアが急増していた時代に育っているし。

──となると好きなビートルズの作品を1枚挙げるのは難しいかもしれませんね。

I:ビートルズは時代によってもまったく違うからね。僕が特に好きなのは『A Hard Day’s Night』、『Help』、『Revolver』、『Rubber Soul』だね。これで4枚か。でも『Abbey Road』を聴いてもやっぱりいつも「WOW」と思うし、彼らのキャリアはどこを切り取ってもものすごくハイクオリティだと思う。

──お話を聞いてきて、これまで来日できなかった理由が分かりました。でも、ようやく待ちに待った来日公演が実現します。どんなショウにしようと思っていますか?

I:1990年にプロモーションで2日間だけ日本に行ったことがあるんだ。その時駆け足で何本かインタビューをやったんだ。日本に行く光栄にあずかったのは、その時だけだったね。だから今度は実際に演奏できることになって本当に楽しみにしているんだ。心からね。それから、基本的には……日本ではみんなが知っている曲かどうかは分からないけど、ヨーロッパでやったらみんな知っている曲を中心にやろうと思っているよ。『Jolification』と『Dizzy Heights』(1996年)からの曲が主になるんじゃないかな。初期からも4~5曲やろうと考えているよ。《ビルボードライブ東京》で会おう! <了>


Text By Masashi Yuno

Translation By Sachiko Yasue


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The Lightning Seeds

Jollification(Remastered)
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LABEL : Epic / Sonymusic
ORIGINAL RELEASE DATE : 1994.09.05
REISSUE DATE : 2019.09.10

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Lightning Seeds Japan Tour 2019

東京公演
2019/11/19(火)、20日(水)
Billboard Live TOKYO
1st
OPEN 17:30
START 18:30
2nd
OPEN 20:30
START 21:30
来日公演の詳細・問い合わせ/http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=11644&shop=1

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