映画『ローレル・キャニオン』を楽しむためのサブテキスト
〜夢のウェストコースト・ロック神話〜
『リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス』にはじまり、『ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック』『エコー・イン・ザ・キャニオン』とローレル・キャニオン関連の映画が3本も立て続けに劇場公開されるという、ウェストコースト・ロックやシンガー・ソングライターのファンには夢のような事態。ここ十数年で日本のファンにも広く知られるようになったローレル・キャニオンでは、ザ・バーズやバッファロー・スプリングフィールドといったフォーク・ロック、フランク・ザッパやラヴ、ドアーズといったエクスペリメンタルなアート・ロック、クロスビー・スティルス&ナッシュやジャクソン・ブラウンに代表されるシンガー・ソングライター・ブームなど、1960年代から70年代にかけて様々なムーブメントが巻き起こった。これによりアメリカのポピュラー・ミュージックの中心地は東海岸から西海岸へと移り、ローレル・キャニオンの名は今も神話のように語り継がれている。
このあたりの詳しい物語は映画の方をご覧頂くとして、今回はこれまであまりスポットライトを浴びることのなかったローレル・キャニオン・シーンの名脇役や、シーンの裏で蠢いていたレコード会社の仕掛けについて。いわばローレル・キャニオン・スピンオフ。映画の副読本となれば幸いです。
ローレル・キャニオンはハリウッドの北西に位置する峡谷で、繁華街であるサンセット・ストリップからは車で10分余り。位置関係としては、サンセット・ストリップを渋谷に見立てたときの新宿あたり、といえば東京の人には分かりやすいかも。もともとは荒野だったが、1920年ごろに住宅建設ブームが巻き起こり、最終的には1000件ほどの家屋が建築された。ハリウッド・スターも別荘代わりに住んでおり、第二のビバリー・ヒルズのような立ち位置だったとか。とはいえ他の峡谷に比べて奥まっており薄暗かったせいか、治安は悪化の一途を辿り、原因不明の火災が頻発、売春宿や無認可の酒場もあったという。1948年には早くもマリファナでの逮捕者を出したというから、アウトローな土地の雰囲気が何となく伝わってくる。1950年代にはすっかり周囲の好景気に取り残されて廃れていたが、ハリウッドのスタジオ群からの近く家賃も安かったことから、売れない役者や映画関係者、アングラな芸術家などが多く住み着いていた。
中でもローレル・キャニオンの文化形成に大きく寄与したのが、前衛芸術家のヴィト・パウレカスとその一座である。1913年マサチューセッツ州に生まれたヴィトは、10代の頃に何らかの罪で収監された少年院で彫刻を学び、紆余曲折を経て1940年代にロサンゼルスへ。ここで芸術家としての地位を固め、1961年、二度目の結婚を機にローレル・キャニオンの入り口付近に住居兼アート・スタジオを構える。妻のスーは近くで古着のブティックを営んでおり、ヒッピー・ファッションの発信地となっていた。やがてヴィトのスタジオには、良き相棒となるカール・“キャプテン・ファック”・フランゾーニをはじめとしたファンキーな若者たちが住み着き、半共同生活を送りながらフリー・ダンスやグループ・セックスに勤しむようになっていた。やがて彼らは「フリークス」と呼ばれるようになる。
一方同じ頃、サンセット・ストリップには《Troubadour》や《Whisky A Go Go》といったコーヒー・ハウスやクラブが立ち並ぶようになっていた。とはいえ、まだまだ音楽シーンの覇権は東海岸にあったため、スリーピー・ジョン・エステスやドク・ワトソンといったベテラン勢が出演していた《Ash Grove》(若き日のライ・クーダーやジャクソン・ブラウンが足繁く通っていたという)を除けば、無名の若手がしのぎを削っており、集客力に悩まされている状態だった。
そこで、ある種の観光資源として白羽の矢が立ったのが、「フリークス」たち。彼らはサンセット・ストリップを盛り上げるために各クラブのオーナーたちから入場フリー・パスを与えられ、バンドの演奏にあわせて自由なダンスを披露することになった。ダンスはときに演奏を凌駕するほどの盛り上がりを見せたが、バンドとの関係は良好だったようで、ラヴやドアーズ、バーズなどはヴィト・パウレカスのアート・スタジオでリハーサルを行っていたという。中でもザ・バーズは最初のツアーにフリークスを帯同させるほど。ただしこれには、当時の彼らの演奏の拙さを覆い隠す狙いもあったようだ。やがてフリークスは「ログ・キャビン」と呼ばれるキャニオンの大きな屋敷を占拠。後にフランク・ザッパが住むようになり、《Straight》《Bizarre》という2つのレーベルを設立。アリス・クーパーやGTO’s、キャプテン・ビーフハートといったエクスペリメンタルな作品を続々リリースする。
1965年のザ・バーズ「Mr. Tambourine Man」の大ヒットを皮切りにフォーク・ロックブームが巻き起こり、噂を聞きつけたミュージシャンがこぞってLAへやって来るように。家賃の安いローレル・キャニオンは移住者たちのたまり場となっていった。思えばローレル・キャニオンの重要人物たちは、ほとんどが西海岸出身ではない。彼らを西へと誘ったのは、皮肉にもフォーク・ロックに馴染めなかった者たちだった。
フィル・スペクターによる「This Could be the Night」がお蔵入りとなり、世界初のウォール・オブ・サウンド・フォーク・ロッカーになるチャンスを逃したMFQ。もともと《Troubadour》に出入りしていたMFQは、1964年にグリニッジ・ヴィレッジへ遠征。フォークの本場でも彼らのハーモニーは注目を浴び、当地で活動していたスティーブン・スティルスや後にママス&パパスとなるジョン・フィリップスは、LAのシーンについてMFQのヘンリー・ディルツを質問攻めにしたという。ヘンリー・ディルツは後に写真家として活躍、当時のキャニオンの様子を数多く残している(『ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック』では語り部としても登場している)。
ニール・ヤングやジョニ・ミッチェルにローレル・キャニオンの熱を伝えるべく、遠くカナダへの伝道師役を担ったのは、意外にも後にステッペンウルフを結成するジョン・ケイだった。ドイツ出身の戦争遺児という苛烈な幼少期を過ごしたケイは、母の再婚を期にトロントを経てLAへ。移住の多さ故か、類まれなる世渡り能力を身につけていたようで、《Troubadour》や《New Balladeer》といったフォーク・クラブであっという間にフロア・マネージャーの地位に。自らもブルース・シンガーとして活動しつつ、ヴィト・パウレカスをはじめ、ザ・バーズのメンバーやヴァン・ダイク・パークスといったローレル・キャニオンの中心人物たちと親交を深めていった。
やがて訪れたフォーク・ロック・ブームに自らのブルースが馴染まないことを悟ると、心機一転、ヒッチハイクで第二の故郷・トロントへ。ここでも持ち前のコミュニケーション能力でまたたく間に当地のフォーク・クラブへの出演契約を勝ち取り、ザ・スパロウズというバンドで精力的に活動。このザ・スパロウズ、当時ニール・ヤングやブルース・パーマーが所属していたマイナー・バーズと仲が良く、ヤングは自伝で「ジョン・ケイにギターの手ほどきをしてもらった」と記しているほど。西海岸のシーンについても自然と口伝えがあったのだろう、ヤングとパーマーはLAに向かい、サンセット・ストリップでスティーヴン・スティルスと運命的な再会を果たし、バッファロー・スプリングフィールドの結成と相成った。
やがてケイもLAに戻り、ステッペンウルフとしてデビュー。彼らの3枚目のアルバム(『At Your Birthday Party』)のジャケットは、ローレル・キャニオンの廃屋で撮影されたものである。
ローレル・キャニオン、そしてフォーク・ロックの盛り上がりには、当然レコード会社の重役たちも目をつけ、ビッグウェーブに乗るべく次なる一手を探り始める。《A&M》はジーン・クラークやクリス・ヒルマン、グラム・パーソンズといった元ザ・バーズ勢に手を差し伸べ、ディラード&クラークやフライング・ブリトウ・ブラザーズを続々リリース。ロックのプロモーションに不慣れだったこともあり、セールス的には振るわなかったが、音楽的にも人脈的にも、イーグルスへと続くカントリー・ロックの礎を築いた。
《Elektra》の試みも興味深い。敏腕社長、ジャック・ホルツマンの鶴の一声で北カリフォルニアの山奥に音楽牧場《Paxton Lodge》を建設。ローレル・キャニオンのコミュニティやボブ・ディラン&ザ・バンドの「地下室」セッションを念頭に、仮想の音楽共同体を形成しようと試みた。デビュー前のジャクソン・ブラウンやネッド・ドヒニーを始め、LAの有望若手ミュージシャンを集めたが、ドラッグの影響もあり共同体は崩壊。Bambooというサイケ・スワンプ・バンドが僅かな成果として残された。
特筆すべきは《Warner》《Reprise》の動き。西海岸きっての嗅覚の持ち主、モー・オースティンは、イギリス人青年アンディ・ウィッカムをローレル・キャニオンに送り込む。ローリング・ストーンズのマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムの元で業界のイロハを叩き込まれたウィッカムに与えられた任務は、キャニオンのコミュニティに完璧に溶け込み、次なるスターを発掘すること。もともと西海岸への憧れが強かった彼は、長髪にヒッピー・ファッションを完璧に着こなしており、キャニオンの若者に擬態するにはうってつけの存在だった。ウィッカムは見事にコミュニティの信頼を勝ち取り、後にジョニ・ミッチェル、ニール・ヤングと契約を結ぶ大金星を上げる。
ジョニ・ミッチェルのマネージャーとして西海岸にやってきたエリオット・ロバーツもウィッカムと似たタイプ。ローレル・キャニオンに家を借り、日夜開かれていたドラッグ・パーティーにも精力的に顔を出し、ミュージシャンとの関係を深めていた。彼のドラッグへの強さは、あのデヴィッド・クロスビーも一目置くほどだったというから驚きだ。ロバーツは後にデヴィッド・ゲフィンとともにゲフィン=ロバーツ・カンパニー、《Asylum》を立ち上げ、70年代のローレル・キャニオン・シーンを担うこととなる。
家賃の安さや繁華街からの近さといった現実的な理由があったにせよ、一つの峡谷にこれほどまでに濃密なコミュニティが形成されたのは奇跡に近いできごと。登場人物それぞれの物語や文化が複雑に絡み合った、だからこそ魅力的なローレル・キャニオン神話。今回公開された3本の映画を観ながら、お気に入りのレコードに針を落としながら、様々な視点からこの重厚な物語を楽しみたいと思う。(谷口雄)
Text By Yu Taniguchi
『ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック』
2022年05月06日(金)より全国順次公開
出演:ヘンリー・ディルツ、ジャクソン・ブラウン、ジョニ・ミッチェル、デヴィッド・クロスビー、グラハム・ナッシュ、スティーヴン・スティルス、ニール・ヤング、ロジャー・マッギン、ドン・ヘンリー
監督:アリソン・エルウッド
撮影:サミュエル・ペインター
作曲:ポール・パイロット
製作総指揮:アレックス・ギブニー、フランク・マーシャル
2020 年/アメリカ/120 分/ビスタ/ステレオ
原題:Laurel Canyon A Place In Time
提供:ジェットリンク
配給:アンプラグド
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公式サイト(『リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス』『スージーQ』『ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック』)
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