アラン・マッギーと日本のリスナーがいち早く反応した
──異端の存在《él Records》
《Mute》《Cherry Red》《4AD》《Factory》《Rough Trade》など、80年代に入ってイギリスでインディー・レーベルが次々と設立された。それぞれが個性的なカラーを持っていたが、ひときわ異彩を放っていたのが《él》だ。レーベルを立ち上げたのは、ロンドンに住む20代の若者、マイク・オールウェイ。彼はルートヴィヒ二世のごとく、独自の美意識と尽きることのない情熱でインディー・シーンに小さな王国を作り出した。
80年代初頭、ロンドンのリッチモンドでソフト・ボーイズや地元のバンドをマネージメントしながら『Snoopy’s』というクラブを経営していたマイク・オールウェイは、《Cherry Red》でA&R/プレス担当として働くようになる。そして、フェルトやモノクローム・セット、マリン・ガールズ、アイレス・イン・ギャザなどと契約して、パンク色が強かった初期Cherry Redの間口を広げた。マリン・ガールズのトレイシー・ソーンにスヌーピーズに出入りしていたベン・ワットとユニットを組むように勧めたマイクは、エヴリシング・バット・ザ・ガールの生みの親でもあった。その手腕を《Warner》に買われて、マイクはワーナー傘下に新レーベル、《Blanco Y Negro》を立ち上げたが、メジャー・レーベルとの仕事は思うようにいかず辞職。1984年に《él》を立ち上げた。
《él》はマイクのセンスのみでデザインされたレーベルだった。では、マイク・オールウェイとはどんな人物だったのか。トレイシー・ソーンは自伝『安アパートのディスコクイーン』(ele-king books)でこんな風にマイクを紹介している。
「音楽業界において最も魅力的な人物の一人でもある彼は、同時にポップの分野における生粋の異端者だった。彼のことを“典型的な英国変人”と呼ぶことは、今やほとんど常套句と言っていい。(中略)いつも完璧に磨き上げた靴を履き、たとえボロボロではあっても触ればバリバリと音のしそうな綿のシャツに身を包んでいた。さらに髪型だが、これがまるでリチャード三世みたいな旧式のボブカットだった」
マイクはマリン・ガールズと契約する際、「自分が加わる前の《Cherry Red》は正直ひどいレーベルだった。でも、自分が関わる以上は《4AD》や《Factory》と肩を並べるレーベルにするつもりだ」と豪語したそうだが、それを実現させるだけの才覚を持つ最強の変人だった。
「él(エル)」というレーベル名はルイス・ブニュエル監督の映画のタイトルから思いついたそうだが、できるだけ意味のない言葉を使うことでレーベルのイメージが固定されるのを避けたかったという。当初《él》は、ベルギーのレーベル、《Les Disques du Crepuscule》傘下で《él Benelux》として活動していたが、1985年にマイクの古巣の《Cherry Red》傘下になる。そのきっかけとなったのがニコラス・カーリーだ。マイクは以前から《4AD》に所属していたスコットランドのバンド、ハッピー・ファミリーの中心人物だったニコラスの才能に注目していた。ハッピー・ファミリーズが解散後、マイクはカーリーのアルバムを制作し、それを《Cherry Red》が気に入ったことで《él》は《Cherry Red》と手を結ぶ。そして、マイクはカーリーをギリシャ神話に登場する嘲りの神の名前、「モーマス」名義で世に送り出した。
《él》に所属するソロ・アーティストで実名の者はいない。マイクがアーティストを探す時に心がけていたのは、本人いわく「英国的で、どこかいかがわしくてエキセントリックな人物」。つまり、マイク自身のような変わり者で、誰にも好かれるような人物や音楽には興味がなかった。そして、マイクは《él》から出したいアーティストを見つけると、その特徴を活かして架空のキャラクターを生み出し、アーティストと共に作品の世界観を作り上げた。マイクが曲名やアルバムのタイトルまで考えることさえあったという。例えば元・俳優のミュージシャン、サイモン・ターナーは税金対策で音楽活動をしている王様、「キング・オブ・ルクセンブルグ」に扮した。かつてサイモンは、架空の女性デュオ、ドゥ・フィーユをでっち上げてアルバムを発表した“前科”があり、俳優だったサイモンにとって架空のキャラを演じるのは朝飯前だったに違いない。ボーダー・ボーイズやアルカディアンズといったバンドで活動してきたフランス出身のシンガー・ソングライター、フィリップ・オウクレーは実在したフランス最後の王の名前をとって「ルイ・フィリップ」と名乗り、《él》には2人の王が即位した。また、モノクローム・セットの曲を国籍不明の女優が歌う、というコンセプトを思いついたマイクは、《Cherry Red》に在籍したバンド、ファイヴ・オア・シックスのギタリストだったジュリア・ギルバートの声をかけて、ハリウッド映画のタイトルからとった「アンソニー・アドヴァース」という名の歌う女優を生み出した。
マイクは作品の内容についてはもちろん、アートワークにも目を光らせた。マイクにとってレコードやCD、販促物は、ファンタジーを生み出す重要な小道具でありアート。驚かされるのは、アーティストのイメージが壊れないように、アルバムを発表してもライヴを一切行わなかったことだ。重要なのはライヴではなくプロダクト(制作物)。10インチ盤というマニアックなフォーマットで5タイトル同時に新作をリリースするなど、マイクはプロダクトにも徹底的にこだわった。
《él》は作品の制作においても独特だった。ほとんどのアーティストが自身のバンドを持っていないため、レコーディングにはマイクと親交があるアイレス・イン・ギャザやゴー・ビトウィーンズのメンバーが参加。そこでサウンドを取りまとめる役割を果たしたのが、マルチ・プレイヤー/アレンジャーのディーン・ブロドリックやプロデューサーのリチャード・プレストンだ。そして、サイモン・ターナーやフィリップ・オウクレーはソングライターとして他のアーティストに曲を提供した。オウクレーは《él》を支えたミュージシャン仲間を「低予算のレッキングクルー(編注:60〜70年代にアメリカ西海岸で活躍したスタジオ・ミュージシャンの集団)」と呼んだが、様々な作品にドラムで参加した元モノクローム・セットのニック・ウェソロウスキーは、レーベル専属のカメラマンとしても活躍して《él》のビジュアル・イメージを作り上げた。
共通するミュージシャンやスタッフが複数の作品に関わることで《él》特有のサウンドが生まれたが、それは60年代のレーベルの手法を踏襲したもの。《él》はニュー・ウェイヴ時代のA&Mのようだった。80年代後半、イギリスでは60年代のロックやポップスが再評価されたが、《él》の作品は、ポップス、ジャズ、ボサノヴァ、映画音楽など、60年代の様々なポピュラー・ミュージックの音楽性やヴィジュアルをサンプリング的に引用/再構成した。その手法は90年代のロックに通じるところもあり、《él》に大きな影響を受けた《Creation》のオーナー、アラン・マッギーは後に「《él》は10年早かった」とコメントしている。レコードをヒットさせることを目的にしていたアランにとって、売り上げなんて気にせずに我が道を行くマイクは憧れの存在だった。
《él》はレーベル哲学もサウンドも異端の存在であり続けたが、それだけに孤立していた。最新機材を使ったハイファイなサウンドが流行し、ロック色が強まっていった80年代後半のイギリスのロック・シーンで《él》は浮いた存在だった。後年、ウッド・ビー・グッズのジュリア・グリフィンは「私たちの勇敢な《él魂》は、ポール・ウェラーやNMEのほとんどのライターから憎まれていました」と振り返っているが、エルの作品は真剣さを欠いた気取った素人の集まりのようにに捉えられたのかもしれない。しかし、マニアックな知識を持ったマイクの指揮のもと、勇猛果敢なアマチュアたち(《él》のアーティストのほとんどがデビューするまでライヴの経験さえなかった)が生み出した作品は、金をかけて派手に飾り立てたメインストリームのポップ・ミュージックへのアンチテーゼだった。そして、彼らが打ち出したイギリス的なポップ・センスは、80年代のニュー・ウェイヴと90年代のブリット・ポップを繋ぐもの。そんな《él》に、いち早く反応したのが日本のリスナーだった。
日本ではイギリス以上に《él》の作品が人気を集め、1987年9月にはキング・オブ・ルクセンブルグ、ルイ・フィリップ、アンソニー・アドヴァースが来日公演を行った。こんなイベントは本国では考えられないことだった。《él》チームが来日した時、映画監督のデレク・ジャーマンが『カラヴァッジオ』のプロモーションで来日中で、映画のサントラを手掛けたサイモン・ターナーと東京で再会。ジャーマンはライヴ会場の《クラブクアトロ》の最前列で16ミリのカメラを回した。《él》の作品がフリッパーズ・ギターやカヒミ・カリィなど、後に渋谷系と呼ばれるアーティストに影響を与えたのは有名な話。当時、日本の洋楽好きの間では《Les Disques du Crepuscule》のアーティスト(ペイル・ファウンテンズ、タキシード・ムーン、イザベル・アンテナなど)が注目を集めていたが、《Les Disques du Crepuscule》のヨーロッパ的ロマンティシズムにヒネくれたユーモアを加えた《él》のサウンドとヴィジュアルは日本の若者たちの心を捉えた。
ヒットチャートをまったく気に留めず、理想のレコードを作り続けた《él》は当然の成り行きとして運営が難しくなり1989年に活動を中止。子供達だけで結成されたグループ、その名もハンキー・ドリーという、まるでマイクがコンセプトを考えたようなグループと契約を進めていたところで力尽きた。その後、マイクは小山田圭吾と共同オーナーという形で新レーベル、《if…》を設立(《él》同様、その名前は同名の映画から取られた)。アップルズ・イン・ステレオやロケットシップ、ハンキー・ドリーなどをリリースする。そして、2005年に《él》は突如復活。現在に至るまでリイシュー専門のレーベルとして順調に活動しているが、バート・バカラック、ジョアン・ジルベルト、レス・バクスター、エンニ・モリコーネ、セルジュ・ゲンスブールなど、ジャンルを超えたカタログを見るだけで、かつて《él》の作品にどれだけの音楽的要素が注ぎ込まれていたのかがわかる。
《él》はマイクのヴィジョンが隅々まで反映されたレーベルであり、マイクと仲間達は架空のキャラクターを主役にして一本の映画を作るように作品を生み出した。良い映画は監督だけでは作れない。正しいキャスティングをして、そこで役者が素晴らしい演技をすることでマジックが生まれることをマイクは心得ていた。《él》は“渋谷系”や“ネオアコ”というキーワードで語られることが多いが、音楽レーベルという枠を超えてポップ・カルチャーとしての魅力に満ちていて、最近ではウェス・アンダーソンの映画を観ると《él》のことが頭に浮かぶ。かつてマイケル・ウィンターボトムが《Factory》を題材にして映画を撮ったように、ウェス・アンダーソンが《él》の物語を作ったらどんなに素敵だろう。映画『エル』は美しい脚を持つ女性に一目惚れした男が女性を愛しすぎて狂っていく物語だが、《él》はマイクの音楽やアートに対するフェティッシュな愛の結晶。その輝きは今も失われてはいない。
作品紹介
Momus『Circus Maximus』(1986年)
ハッピー・ファミリー解散後、しばらく読書に没頭していたというニコラス・カーリー。モーマス名義でリリースするファースト・ソロ・アルバムでは文学青年の横顔を覗かせている。悪徳の街、ソドムやソロモン王など旧約聖書に出てくる題材を登場させて、みずからは「聖セバスチャンの殉教」風の自画像のジャケットに登場。アコースティック・ギターの弾き語りにストリングスやマリンバなど様々な楽器を添えたシアトリカルなアレンジで、倒錯と諧謔が混ざり合った物語を歌う。次作からは《Creation》に移籍してエレクトロニックなサウンドに接近するが、本作はデカダンスな吟遊詩人といった趣。
The King Of Luxembourg『Royal Bastard』(1987年)
俳優として活動していたものの芸能界に嫌気がさし、セックス・ピストルズで音楽に目覚めたサイモン・ターナー。“ルクセンブルグ王”という役柄を得て発表したファースト・アルバムはカヴァー曲が中心。ハーパーズ・ビザール、P.I.L、ヘンリー・マンシーニなど、選曲センスと遊び心溢れるアレンジが素晴らしく、フラメンコ・ギターをフィーチャーして「続・夕陽のガンマン」のフレーズまで飛び出すモンキーズ「Valleri」のカヴァーはアラン・マッギーも絶賛した名曲だ。ルイ・フィリップがエレガントなオリジナル曲を献上し、葡萄をつまみながら歌っているようなサイモンの気取った歌声はさすがの名演技。
Louis Philippe『Passport To The Pogie Mountains』(1987年)
ビーチ・ボーイズを聴いて音楽に目覚めたというルイ・フィリップことフィリップ・オウクレー。本作は彼のファースト・アルバム『Appointment With Venus』(1986年)収録曲とシングル曲で構成された編集盤だが、オリジナル・アルバムに匹敵するほどクオリティは高い。60年代ポップスにジャズやクラシックの要素も取り入れて、アコースティック・ギターの弾き語りを室内楽サウンドが彩る。哀愁を帯びたメロディーと澄んだ歌声が生み出す洗練されたメランコリーは、ヨーロッパ的なロマンティシズムに満ちている。フィリップの音楽性が《él》で重要な役割を担っていたことがわかる逸品。
Would-Be-Goods『The Camera Loves Me』(1988年)
イギリスの児童文学の古典『よい子連盟』から名前をとったジェシカとミランダのグリフィン姉妹によるバンド。ジェシカは銀行員として働きながらモデルもしていて、ジェシカの映画や音楽に対する趣味やセンスに惹かれたマイク・オールウェイは彼女を《él》に誘った。ファースト・アルバムとなる本作は、ソフト・ロックやフレンチ・ポップなど60年代サウンドを昇華したネオアコ的なサウンドで、ナチュラルで可憐な歌声は春風のごとし。モノクローム・セットの面々が演奏をサポートして、60年代サイケ・ポップのレジェンド、キース・ウェストがプロデュースを手掛けた。
Anthony Adverse『The Red Shoes』(1988年)
モノクローム・セットのカヴァーでデビューしたアンソニー・アドヴァース。マイク・オールウェイが好きな映画『赤い靴』をタイトルに掲げたファースト・アルバムは、ルイ・フィリップが提供したオリジナル曲で固められた。ドラマティックな序曲で幕を開けて、ジャズやラテンの要素を織り交ぜた楽曲は、ミュージカル映画のような華やかなアレンジが施されている。メジャーのようにお金はかけられないけれど、そこはセンスとアイデアで勝負。手作り感溢れる総天然色のサウンドの中で、ジュリアの歌声はジュリー・アンドリュースのように伸びやかに弾んでいる。
Bad Dream Fancy Dress『Choirboys Gas』(1988年)
カリー・デイヴィスとカトリン・リースの女性デュオ。ジャケットのポートレートは下町の女の子といった佇まいで、パブリックスクールの寄宿学校的な雰囲気を漂わせていた《él》に元気いっぱいの歌声で新たな風を吹き込んだ。サイモン・ターナーがプロデュースしたファースト・アルバムは、サイモンとディーン・ブロデリックが曲を提供してブロデリックがアレンジを担当。ガールズ・ポップを下敷きにしつつ、《él》には珍しくラウドなギターが炸裂する「Curry Crazy」をはじめ、パンクやディスコを取り入れてはしゃぎ回る悪ノリぶりが楽しい。
Marden Hill『Cadaquéz』(1988年)
《él》のアートワークを手掛けていたカメラマンのピーター・モスと、映画監督のマシュー・リチャード・リンプシーによるユニット。インスト曲が中心の彼らのサウンドは、《él》の美学を伝えるサウンドトラックのようでもあった。ファースト・アルバムとなる本作は、華麗なスキャットを聴かせる「Curtain」をはじめ、映画音楽、ジャズ、ラテン、ラウンジなど軽音楽の洒脱なカクテル。そこには、当時ロンドンを中心に盛り上がっていたアシッド・ジャズからの影響も感じさせる。時折、俳優のモノローグのように挿入されるヴォーカル曲も芝居っ気たっぷり。
Always『Thames Valley Leather Club』(1988年)
名前からして、マイク・オールウェイズのソロ・ユニットでは?と勘ぐる人も多かったオールウェイズは、シンガー・ソングライターのケヴィン・ライトによるソロ・ユニット。ファースト・アルバムとなる本作はリチャード・プレストンがプロデュースを担当。レーベルメイトのモーマスやルイ・フィリップに比べるとカラッとした明るさがあって、ヒネりを効かせた知的なポップ・センスに英国マナーを感じさせる。個性的なキャラクターが揃った《él》のなかで、好青年っぽい佇まいで折り目正しいエル・サウンドを聴かせたが、《él》閉鎖後は「Mr.ライト」と名前を変えて活動した。
Felt『Me And A Monkey On The Moon』(1989年)
《Cherry Red》〜《Creation》と渡り歩いた孤高のバンド、フェルトが最後の地に選んだのが《él》だった。ラスト・アルバムとなる本作では、バンドの中心人物、ローレンスのソングライティングに成熟を感じさせ、バンド・サウンドはシンプルで滋味に満ちている。BJコールのスティール・ギターがアメリカーナな味わいを醸し出しているが、ローレンスの歌声から感じられるのは英国的なセンシティヴさだ。《él》的な装飾は施さず、フェルト以外の何物でもない本作をレーベル最後の年に送り出したところに、マイクのフェルトに対するリスペクトを感じさせる。
Various Artists『London Pavilion Volume Two』(1988年)
《él》の世界観をコンパクトにまとめて人気だったコンピ『London Pavilion』シリーズ。アルバム以上にリリースされたシングル曲が多数収録されているのも重宝した。なかでも、《él》の絶頂期を伝えるのが2作目だ。人気曲が次々と繰り出されるアルバム前半の流れは完璧。後半は、モノクローム・セットのビドのソロ・ユニット、ラジ・カルテットやアンバサダー277、フロレンティンズなどのシングル曲が並ぶがどれも粒ぞろいで、本作用に制作されたルイ・フィリップとマーティン・ベイツ(アイレス・イン・ギャザ)のユニット、キャップライスの美しいコーラスも聴き応えあり。《él》の魅力がこの一枚に詰まっている。
(文・選盤/村尾泰郎)
Text By Yasuo Murao
