「リスナーが僕の音楽と言葉に耳を傾けてくれるからこそ成立しているんだ」
ジャクソン・ブラウンが語るデヴィッド・リンドレー、フィービー・ブリジャーズ、そして自分自身
今年1月にデヴィッド・クロスビーが他界。来日の直前には相棒とも言える盟友だったデヴィッド・リンドレー、さらにはバンドではキーボードを担当していたジェフリー・ヤングもこの世を去った。米ウエストコーストの灯火を長きに渡り消さぬよう尽力してきた仲間たちとの相次ぐ別れに接し、どれだけこの人が打ちひしがれ、寂寞を感じ、ひどく落胆したことだろう……その思いを想像するに胸が痛む。
だが、この人は逆境に強い。というよりも、逆風の中から生きる力、サヴァイヴする力を引き出し、甘く厳しい歌に替えてきた。かつての代表作『Late for the Sky』(1974年)も、『Running on Empty』や『The Pretender』(ともに1977年)も、そして70代に入ってからリリースした最新アルバム『Downhill From Everywhere』も、おそらくは冷たい風が吹き続ける中に身を置いてこそ創作できた、ある種の分身のようなものなのだろうと思う。それはシンガー・ソングライター本来の在り方を体現したものであり、音楽を通じて他者と繋がっていこうとする極めてジェントゥルな彼の生き方そのものだと言っていい。
ジャクソン・ブラウン。70年代、繊細な美少年だった青年は、73歳の現在、すっかり渋みを増している。来日公演直前に東京で対面した彼は、しかし眼光は今なお鋭く、その頃も、今も、これからも、どこまでもタフだ。タフでおおらかで優しい。さらに、実際に会って話をした印象として……よく話すチャーミングな男である、ということも付け加えておきたい。デヴィッド・リンドレーからフィービー・ブリジャーズ、ブレイク・ミルズにまで話が次々と発展していく快活なトーク、ぜひご一読いただければ幸いだ。なお、オーストラリア〜ニュージーランドと彼のツアーは続いているが、体調不良で延期になったりもしている。とはいえ、タフな彼のことだ、きっとまた元気な姿で日本にも戻ってきてくれるに違いない。旧知のグレッグ・リーズ(スティール・ギター)、ボブ・グラウブ(ベース)、若手のメイソン・ストゥープス(ギター)らを従え、満員のオーディエンスの一人一人に語りかけるように丁寧に歌った約3時間ものパフォーマンスを思い出しながら、心からそう願っている。
なお、今回の取材時には『TURN』のYouTubeチャンネル《TURN TV》で動画インタビューも実現したのでぜひそちらも併せてお楽しみいただきたい。
(インタビュー・文/岡村詩野 通訳/丸山京子 協力/竹澤彩子 撮影/ヒラマアンナ)
Interview with Jackson Browne
──こんな話からしたくはないのですが、デヴィッド・リンドレーが亡くなりました……。
Jackson Browne(以下、J):ああ、ちょうどリンドレーの追悼を書いているところでね。レゲエだの様々な音楽を一つのバンドに取り入れていたのが彼がやってたカレイドスコープというバンドなわけで、さらに後にヘンリー・カイザーと一緒にやっていたコラボレーションなんかでもそうだけど、”様々な音楽が一同に会したパーティ・ミュージック”であると、リンドレー自身が言っていたよ。まさにありとあらゆる音楽を祝福するような音をやっていた。様々なリズムを織り交ぜながら、しかもそれぞれの音楽の魅力が確実に伝わってくるような形でね。
──追悼を書いているというのは文章で?
J:そう、ウェブ上に写真を添えて何か一言と思ってね。ただ余りにも自分にとって大切で近しい存在なのでなかなか言葉が出てこなくてね……今夜あたりにでも気持の整理がついたら……。
──実はこの『TURN』でもデヴィッド・リンドレーの追悼文を掲載しています。そこでも筆者が書いていますが、リンドレーはソロ・デビューが遅かったですよね(ファースト・アルバムが1981年のリリース)。あなたより年上のリンドレーが70年代のあなたと同じ時期にデビューしてたら一体どんな作品を作ってたんだろう? と。
J:なるほど(笑)。順を追って説明しよう。そもそもソロ以前にもリンドレーはバンド(カレイドスコープ)をやっていたわけじゃないか。まあ、歴史をかいつまんで説明することになるけども、元々彼のキャリアは若い頃にフラメンコ・ギターから始まってるんだよね。そこからブルーグラスに入って、ブルーグラスのほうでさらに才能を開花させたわけさ。そこからフレイリング奏法というのがあるんだけど……ブルーグラスの技法で、あのブルーグラス特有の♪(ギターを弾く音の口真似しながら)ベンベンベンっていう、スリーフィンガー・ピッキングでアール・スクラッグスのような……どちらかというとバンジョーの奏法に近い感じの弾き方を身につけた。ピート・シーガーのスタイルもそれとは少し違う……まあ、まさにバンジョーの定番スタイルなわけさ。そういうわけで、リンドレーもまたバンジョーのフレイリング奏者であり、しかもフラメンコをやってたわけだよね。それで“フラメンコをみんなに広めよう!”といって本人もよく豪語していたよ(笑)。実際、リンドレーがフレイリングのテクニックを競うコンテストで優勝したときの動画がどこかに残ってるはずだよ。何度も優勝しているから。まさに超絶のテクニックというやつでね。そうやってジャンルの壁なんて軽々と乗り越えていっていたのがリンドレーだった。フラメンコとブルーグラスを合体させるという、それまで誰にも思いつかなかったことをやってみせたわけさ。というか、本人は頭の中でずっと思い描いてたことなんだろうね。子供の頃から世界中の色んな音楽に身近に親しんでいる家庭に育っている人だから。
そしてブルーグラス奏者からカレイドスコープというバンドを始めて、様々な音楽からの影響を取り入れていったわけさ。それこそブルースに限らず、カントリーだの中近東の音楽まで……というのもバンドのもう1人のリーダーのソロモン・フェルドサウス(Solomon Feldthouse)は何しろエジプトでジプシーと一緒に生活してたっていう人物なんでね。それもまたかなり特殊で、というのもジプシーは世界中に散らばってるけど、ルーマニアのジプシーとエジプトのジプシーでは弾いてる楽器も全然違ってるんだよね。というわけで文字通り世界中の音楽に精通していたわけで、その中でフォークとロックが見事に融合されていたのが彼のやっていたカレイドスコープというバンドだったんだ。しかも彼らは今まで誰も聴いたことのないような楽器のコンビネーションを次から次へと開拓していった。それこそエレクトロニック・ヴァイオリンなんてそれまで誰も聴いたことがなかったわけだしね。唯一ボブ・ディランの曲の歌詞に登場したかな……“You would not think to look at him, but he was famous long ago For playing the electric violin on Desolation Row”とか何とかって……そう「Desolation Row(廃墟の街)」(1965年)だ(笑)。
リンドレーはエレクトリック・ヴァイオリンをアンプに通して演奏してたからディストーションが効いててね。僕のバンドで演奏してくれたときにも、アコースティック・ギターとヴァイオリン編成でよくプレイしていたんだけど、そのヴァイオリンもChampっていう小さなアンプを通してね。その結果、若干ディストーションのかかったような印象になるんだけど、あれはまさにカレイドスコープからの影響だったよ。実際、彼らのファースト・アルバム(『Side Trips』1967年)が僕は大好きでね。何しろ曲がよくできている。というか、僕はそもそも当時リンドレーとはまだ知り合ってなかったんだよ。それ以前から《Ash Grove》(LAにかつてあった老舗のヴェニュー)で演奏する姿を観て来てはいるけどね……あああ、すまない、話が脱線するようだけど、ともかく昔から方々のバンドで活躍してる人ではあったんでね。最初に話したのはたしか友達が《Troubadour》(LAに現存する老舗のヴェニュー)に連れてきてくれて、そこで紹介されたのがきっかけじゃなかったかな、「フィドルの名手を連れて来たよ」ということで……ごめん、もしかしてその話からしたほうがよかったかな(笑)。
──いえ、とても興味深いお話です。
J:うむ。そう、リンドレーが僕のライヴを観に来てくれてすごく感激したのを覚えてる。いや、実際その前に一度会ってはいるんだけど、そのときは楽器なしだったからね。《Troubadour》で会ったときに「僕の曲で弾いてくれるかな?」って話したら「いいよ」ということで、「These Days」を演奏したんだけど彼がヴァイオリンを弾いてくれてね。そのとき頭の中が吹き飛んだような感覚というか、同じ曲なのにまるで違う世界が開かれたみたいでね。自分自身が弾いてる音ですらもまるで違って聴こえてくるんだよ。それだけでもものすごく感情的に響いてね。こんなにも情感に溢れた曲だったのかと。彼の音と一緒に自分の音が耳に入ってくるんだけど、それまでとはまるで違う感覚でね……すでに曲の中にある感情がさらに拡大されて実感できるようでね。彼自身はブルーグラス・バンドにいたときの高音ハーモニー以外では歌っていなかったはずだけど、デュオの形で2人でやるようになったら、彼が高音でブルーグラスのハーモニーを聴かせてくれるようになったんだ。それが本当に素晴らしくてね。ものすごく高音が出せる人なんだよ。つまり、それこそ彼がソロとして初めてアルバムを出すよりも前から自分は彼の歌声を耳にしてるんだよ……すごく低いトーンで繊細で美しい声でね。それこそリンドレーが最初のソロを作る何年も前からね。
そこから一緒にツアーに出るようになり、デュオの形で演奏するようになり……僕は自分一人で演奏する機会が多かったけど、彼はそれほどまでではなかった。僕のセカンド・アルバムに参加してくれたときに……ちなみにファーストのときにリンドレーはいなかったんだけど、ただ初めて会って一緒に演奏したときからぜひとも僕の作品でも弾いてほしいとは思っていた。ただ、当時、彼はすでにテリー・リードのもとで演奏してたからね。それでいつになったらスケジュールが空くんだよ? って聞いて。そんな感じで常に誰かしらの元で演奏して忙しくしている人だったから僕と合流するのも少し遅れたわけさ。それこそテリー・リードだの色んな人の元でギターやらラップスティールを担当して……ちなみにリンドレーはテリー・リードの元でラップスティールを始めたんだよ。それと最近になってからフレディ・ルーレットの元で演奏してたことも知ってね。フレディ・ルーレットはスライドとラップスティールの名手だからね。そう言えば、当時からデイヴ(リンドレー)がよくフレディ・ルーレットのことを話してたなってことを思い出してね。フレディもテリー・リードの元で弾いてるとは知らなかったんだよね。
まあ、そういうわけで、デイヴはカレイドスコープで演奏しつつ、テリー・リードの元で演奏しつつ、他にも色んなバンドで演奏してたわけだよ。それでいざ自分がバンドをかき集めてツアーに出ようと思ったとき、デイヴィッド(リンドレー)に匹敵するほどのプレイヤーは見つからなくてね。何しろオールマイティに何でもこなすわけだから。それでデュオの形でプレイすることになったわけさ。デイヴィッドはヴァイオリンも弾けばピアノも弾くしアコースティック・ギターからラップスティールまで曲ごとにとっかえひっかえできたわけさ。自分とデイヴィッドの2人の組み合わせだけで、様々な音のヴァラエティが生み出すことができる。しかも歌まで一緒に歌ってくれてたからね。その頃はまだクラブのドサまわりをして一晩に3セットをやることもザラで、とにかく色んなネタを試すわけだよ。そこからでデル・シャノン「Runaway」をやるようになったわけさ。僕が“♪And I wonder~”と歌い始めると、彼が高音で“♪Wow wow wow wow wonder~”と合いの手を入れてくれるわけだよ。これがまあ見事なファルセットで、観客にも大ウケでね。そのときにステージでも高音で歌える人だってことがわかって、それでローズマリー・バトラーと一緒に歌ってもらうようになったってわけさ。あの僕の『Running on Empty』(1977年)の中に入ってる「Stay」なんて一番最初に曲をやったときの様子がそのまま記録としたものだからね。あのとき2万人の観客の前で演奏しててアンコール曲のネタも尽きてどうしたものかってときにあの場で口頭で相談してアレンジを決めたんだ。それまで一切演奏してなかったのにだよ。当時ホテルだのモーテルだのでレコーディングしている姿が写真に残っているけども、「Stay」に関してはステージで上がる前までは一度も弾いたことがなかったんだよ。ただ口頭で「このパートに来たら、ここで合いの手を入れて、そこからさらにこういう流れで行こう」みたいなことをパパっと決めて……「ローズマリーが最初のコーラスを歌い出したら、次はデイヴが入ってきてくれ」みたいなね。だから確かに打ち合わせはしたけど実際に演奏したことはなかった。しかも、あの曲自体計画したものじゃなかった。アンコールを3回やってネタが尽きたからこその策でね。ステージ脇に3人で集まって「どうするよ?」って話になり、「Song for Adam」をやろうか、いや、それじゃ最後にしんみりしすぎだろう、ということでね(笑)。それで「Stay」はどうだろう? と。ローディの歌だしピッタリじゃないか、よし、やろう! というね。
──なるほど、彼がなかなかソロを出さなかったのはセッションで忙しかったからと。
J:なるほど、あくまでも話を本題に戻せと?(笑)
──時間が限られているようですので、どうかお察しください(笑)。
J:失礼(笑)。ただ、あのとき初めてデイヴィッドが一人でマイクの前に立って歌う姿を観たもんでね。彼はそれまで決してソロ・アーティストとしてはやってきていなかった。ただ、あの後に初めて自分自身のアルバムを作ろうと思い立ったわけさ。自分が表に立って、自分達のやってる曲を代表しようと。そこから曲を書いてミュージシャンを集めて自分が作ったバンドのリード・シンガーの立場に立つと覚悟を決めたわけさ。ただ、最後までいわゆるソロ・アーティストのタイプではなかったと思うけどね……いや、確かにソロ・アーティストではあるんだけど、自分一人のためというよりもバンドなり何なり、全体のために自分を捧げられる人でね。だから「なぜ彼はなかなかソロ・アルバムを出さなかったのか?」という疑問に対しては、単純にそういう性格ではなかったんだろうというのもあると思う。確かに単独で活動していたアーティストではあるけど、いわゆる巷で思い浮かべるようなソロ・アーティストのイメージとは少し違っていたからね。あのとき、あの曲で初めてデイヴィッドがマイクの前に進み出てリード・ヴォーカルを歌った瞬間を自分はその場で目撃してるわけだよ。しかもそれが大ヒット曲になった。実際、ステージであの曲を披露するときに、みんなローズマリー・バトラーのパートじゃなくて、デイヴィッドのパートを歌うわけだよ。つまり、デイヴィッドのあの声がどれだけ人々の中に強い印象として刻みつけられているかってことだよ!
──リンドレーが最初から越境していた事実は本当に興味深いことです。今でこそさまざまな音楽をミックスして新しい音楽を作り出して聴かせるアーティストが大勢いますが……例えばブレイク・ミルズ、サンダーキャット、フライング・ロータス、サム・ゲンデルなど……。
J:おっと、ブレイク・ミルズは知っているけど、すべてを把握してるわけじゃないから、今名前が挙がった人達のことはとりあえずメモして覚えておかないとな。えーっと、サンダーキャットと、あとはフライング・ロータスと……名前だけは聞いたことがあるような気がするけど、どんな音楽をやってるのかまではまるで想像もつかないなあ……君の話によると、彼らがジャンルをまたがっているというそういうわけだよね。
──はい。しかも今名前をあげた人たちはLA周辺を中心に活動しています。あなたが親しくしているフィービー・ブリジャーズもそうです。LAのどういうところがそういうアーティストを育んでいると思いますか?
J:確かにブレイク・ミルズなんてまさにジャンル・ホッパーというやつだよね。フィービーに至っては、いやはやもうね(感嘆の溜息)、ありとあらゆるところからの影響を紡いで共鳴させていてただひたすら脱帽するしかない。彼女という一人の人間の人となりがそのまんま反映されているかのように、あの観察眼が鋭さといい、まさに彼女自身の視点から見た世界であり彼女が生きているこの世界を、自分自身の目線から、あるいは同じ時代を同世代の目線からみせた世界を如実に映し出している。ゴスだのエモだのスケート・カルチャーだのが一つに混じり合って、いかにも南カリフォルニア的なところなんかも大いにいい(笑)。それと同時に卓越した言葉のセンスの持ち主でどこまでも文学的でね。それは子供の頃から過去の偉大なアーティストの名曲に触れることで培われてきたものなんだろう。たしかにブレイク(・ミルズ)の曲も素晴らしいんだけど、ブレイクの場合はわりと朴訥としているというか、フィービーほど言葉に対して強いこだわりがあるわけじゃない気がするんだ。どちらかと言うと70年代の偉大なソングライターのような印象を受けるけどね。
──昨年、日本でブレイク・ミルズのパフォーマンスを観たのですが、ピノ・パラディーノ、サム・ゲンデルらが一緒で……。
J:ああ、なるほど、ピノとのアルバムがあったな。いいね、君の今のブレイクに関する感想を聞いてハッとさせられたよ。あのピノとブレイクの共作の中のあのメロディや音を聴いたときに、「一体どうやって?」ってなったんだ。どうやったらこんな音に辿り着けるのかと、それが知りたくてたまらなくてね。それで彼らの周辺にいる人達に話を聞いたら、なんとジャムからあの音を作り出したっていうじゃないか。ジャムからあんな曲を捻り出すなんて。さらにピノ・パラディーノなんて、それこそ偉大なアーティストで共演してない人はいないんじゃないかっていうくらい、様々な素晴らしいアーティストやソングライターの元で演奏してきている人だからね。ブレイクと言えばやはりあのファースト・アルバムの曲の強さだよ、例えば「It’ll All Work Out」なんてまさしく名曲中の名曲なわけじゃないか。ただブレイク自身は必ずしもシンガーソングライター的表現に興味があるわけではないというか、それにしても変わり者すぎるというかね。シンガーソングライター的表現よりも斬新なサウンドにとにかく目がないアーティストといった印象だけどね。
確かに今話していて気づいたけど、さっきからずっと話題にしているデヴィッド・リンドレーとの共通点が今の2人にもう伺えるね。なぜリンドレーはソロ・アーティストの道を選ばなかったのか? 彼は昔から誰かしら人のために演奏するのを常としてきたよね。ただ忘れてはいけないのは、彼があのソロを出す前にクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングとも演奏している。そこで彼の演奏した曲のなんとまあ素晴らしいことか。だからこそソロとして作品を作った後もウォーレン・ジヴォンの元で演奏したり、ブルース・スプリングスティーンからお声がかかったり、常に誰かしらの音を実現するための助っ人として喜んで駆けつけるっていう人だったわけさ。そこで彼らのやってる音楽に何かしらのインプットを残していくという。表舞台と裏方の両方の役目ができる人だったわけさ。彼の残りの人生のキャリアがまさにそうだったわけじゃないか。ソロとして自分の作品を作る傍らで様々なアーティストの作品に貢献していったという。そこがまさにこの音楽業界の中で、彼が希少な人材として重宝がられてきたゆえんだよ。自分のプロジェクトをやってるわけだから裏方でいる必要なんかちっともないのに。あるいはヘンリー・カイザーと一緒にやってたプロジェクトなんて、世界中の色んな土地にいって滅多にないユニークな才能を持っているミュージシャンを発掘して、それこそフルートやらハープやらアフリカのパーカッション奏者との出会いをきっかけにして、自分の作品を通じて彼らに主役の座を譲ってのびのびと才能や個性を発揮してもらう場を提供していたわけだよね。それはソロ・アーティストの姿勢とはまるで違う。いわゆる自分がこれをやりたいから皆さん協力してくだいということで外から呼び寄せるんではなくてね。彼はどちらの姿勢を取ることもできたわけだからね。
まあ、そういう話をしていると、最近の若い世代で一番自分に近しいと感じるのはフィービーかなとは思う。彼女の言葉や声には一貫性があって、一切のブレがない。それこそアーティストというよりもむしろ詩人に近いような……彼女が何を言ってるのかが手に取るようにわかるわけだよ。いつだって自分の中から言葉を発してるし、しかもそれが紛れもない真実の感情であることが伝わってくるんだよ。音作りにしてもそうだけど、あの歌い方にしてもまさに彼女にしかできない表現の域に辿り着いてるよね。どれだけ多くの人達が彼女のあのスタイルを真似ようとしていることか、今シンガー・ソングライターを目指してる若い子達なんかはとくにそうだろう。彼女みたいに歌いたいって、憧れの対象なわけだよね。ただ、表面的なテクニックやスタイルでどうにか真似できるものなんかではなく、すべて彼女の歌であり何をどう伝えてるかにすべての本質があるんだよね。“病院の近所に住むなんて最悪”っていうあの歌の歌詞なんかね、“病院の隣に住んでるせいで夜中に救急車の音で起こされるから眠れない”って言った後で、“だからよく2人でジョークを言ってたよね、こんなんじゃちっとも眠れないし、誰か私のために死んでくれないかな?って”。こうやって歌詞でものすごいジョークをぶちかますわけだよ(笑)。まさに匠の技というか、絵画並みの描写力だよね。それこそヴィクトリア時代の偉大な画家の描く写実性で、あの最初のフレーズだけで彼女の住んでいるアパートから病院の駐車場からサイレンを鳴り響かせる救急車が目の前にありありと浮かび上がってきて、しかも彼女の現在の恋人との関係性までもが透けて見える。そんなの魅了されるに決まってるじゃないか(笑)。僕が文学に夢中になる理由がすべて詰まってる。それこそ文学の領域の言葉を音楽の中で操っているアーティストだよ。あのレベルの言葉の表現域に達してるアーティストは他にレナード・コーエンぐらいじゃないかな。レナード・コーエンの声はまた一貫した声の持ち主だけど、彼の場合はその声が年月と共に徐々に熟成されて深くなっていってね(笑)。 彼もまた自分にしかない声を持っているアーティストだよ。自分の思考をそのまま乗せるための道具としての声をね。
──それを言うならジャクソン、あなたもそうですよね。新作もびっくりするほど声に衰えがないじゃないですか。
J:いや、僕の場合はスキルがないんでね。そもそもスキルが欠落してるので、リスナーが僕の音楽と言葉に耳を傾けてくれるからこそ成立してるんだよ。とはいえ、僕だって努力して少しずつは伝えるのがうまくなってきてはいるんだよ。才能がないなりにも何とか必死にね。ただ、初期の頃から自分に歌の才能がないことはわかりつつも、それ以上の結果を出そうとは努力してきたんだよ。それこそまわり中みんなが自分よりも優れた歌い手だらけでね。上手くないなりに自分でテクニックなり技なりを磨いてこなくてはいけなかった。ただ書き手として大変ありがたいことに僕の曲をカヴァーして僕の代わりに歌ってくれる歌い手がいるんでね。それこそ僕の大好きなボニー・レイットのあの肺の奥底から歌い上げる感じだったり、あるいは グレッグ・オールマンなんかにしろね。グレッグ・オールマンの声もまた一貫性があるよね。アメリカ南部育ちの白人のキッズがブルーズを歌い上げているという、あの彼の音楽のまとっている空気感が僕は本当に好きなんだよ。彼の伝え方というか、一切背伸びしていなくて、ただ自分から感情がこぼれ落ちてくるみたいでね。まさに飾らない等身大の自分のそのまんまの歌になっている。これぞまさにブルーズ歌手の歌という感じにね。技巧を凝らした歌声を披露するんじゃなくてね。
──フィービーと言えば、先月(2月)彼女日本に来ていまして。
J:ああ、その話は知ってるよ。
──彼女のライヴを京都で観たのですが、小さなクラブだったんです。
J:京都の小さなクラブで! いいね、さすがだね。ちなみにフィービーの弟さんはいた? 弟がずっとカメラを廻してツアーの様子を撮ってるからいつかフル・パフォーマンスの映像も見ることができるかもしれないよ。
──で、あなたはそのフィービーの曲「Kyoto」のニュー・ヴァージョンに参加していますよね。
J:そう。フィービー側から連絡をもらったんだよ、あの曲のハーモニーだか歌入れで協力してほしいということで。その前にチベットハウスでのチャリティー用にフィリップ・グラスと録音したヴァージョンに手を加えたいとのことで。まあ、僕にお声がかかったのは単純にロケーション的に都合がよかったからじゃないかな(笑)。ちょうど東海岸のニューヨークからLAに移動している合間だかで、もともと彼女のバンドのドラマーにハーモニーも担当する予定だったのがうまくいかず、それで自分がLAに戻ったタイミングですぐにレコーディングできる人間を現地で探してたところに僕にお声がかかったみたいだ。ものすごく光栄でね。しかも現場でも大いに盛り上がってね。本当に楽しい時間だったよ。あのレコーディングをしたあとに、彼女自身がそのヴァージョンをすごく気に入ったみたいでね。ただそれは彼女がフィリップ・グラスと一緒にストリングスの四重奏を交えてフィリップのピアノが付随する形が元になってたからね。それをもう一度アコースティック・ヴァージョンでやってみたいということで再び呼ばれて歌いにいったわけさ。そのときは彼女のスタッフも全員いたよ。彼女のプロデューサーのトニー・バーグはブレイク・ミルズと共同でスタジオを所有しててね。2人それぞれの部屋があって、トニーはフィービーだけでなくブレイクのメンターでもあるからね。ブレイクはトニーの元でミュージシャンとして成長してきたようなものだ。ブレイクは念願のスタジオを持つことができて、「いつまでもここにいたい」なんてことを言うものだから、「いやいや、少しの間ならいいけど君は積極的にスタジオの外に出ていくべき人だから」と。「どれほどたくさんの人が君の演奏を心待ちにしてるか」とか言ってね。そのあと実際、彼がツアー先で演奏する姿を観ることができたわけだ。フィラデルフィアでのライヴを観たよ。そうそうピノとの共演も観に行ったな。
──ええと、ごめんなさい、本当に時間がなくなってきました(笑)。
J:じゃあ、続きは酒でも酌み交わしながら、ゆっくり話そうか(笑)。
──そうしたいところですが、とりあえず先を急がせていただきますね(笑)。フィービーやブレイクらそうした若い人達と接することによって、もしくは彼らの作品を聴くことでどのように刺激を受けているのでしょうか? あなたの「My Cleveland Heart」のMVにフィービーが出演していますよね? あなたの体から手術で取り出された心臓をフィービーが受け取るというシュールな展開ですが、あのシーンはまるで松明をパスしてるみたいな印象も受けました。あのMVに象徴されるようにあなた自身は次の世代に松明を受け渡そうとしているのかと。
J:いや、松明なんてそんな大層なものではなくて、僕の老いぼれの使い尽くされた心臓をね(笑)、この僕のボロボロになったさんざん消耗され尽くした命を捧げているというわけさ(笑)。医者が僕から心臓を取り出して看護師役のフィービーの手に渡って……で、しまいには「それをフィービーが食べるというのはどう?』という案まで出してきた(笑)。で、じゃあってことで試しに連絡してみたわけだよ。そもそもフィービーはMVに出る予定じゃなかった。前日に突然決まったんだ。すでに撮影スケジュールを組んでいた後で、ちょうどMVの監督が同じAlissa Torvinenだったからね。彼女が手掛けたフィービーの「I Know the End”」のMVが好きで、それが縁で僕の作品も担当してもらうことになったんだ。しかも監督も含めてみんな個人的にも友達みたいでね。まさに奇跡だよ。彼女が着てた看護服のデザインもよかったしね。僕が子供の頃におばが看護婦をやっていたんだけど、そのときのデザインにすごく似ていてね。美しい写真で今でも印象に残ってるんだけど、いかにもノルウェー人らしいブロンドの髪に看護服の恰好で映っていてね。まるでおばが目の前に蘇ったんじゃないかと一瞬錯覚したくらいだよ。これは今初めて誰かに話す話だね(笑)。あのMVの撮影も本当に楽しかったよ。何しろ監督のAlissaが本当に真剣になって取り組んでくれてね。バンドのメンバーの一人一人の魅力を引き出すには、あるいは手術の工程を効果的に描くにはどうしたらいいのか知恵を振り絞ってくれて、現場でも色んなクレイジーなアイディアを思いついてくれてね。まさにその場にいる全員で「あれやろう、これやろう」みたいな感じでワイワイと、まさに僕らがレコーディングしてるときの雰囲気そのままなんだ。確実に自分の思い描いてるヴィジョンを実現させながらもみんなの意見を取り入れることのできる監督だったよ。
──ただ、あのMVの顛末は古い心臓を取り出して看護師のフィービーに渡ったけど、ジャクソン自身は代わりに鋼の心臓を手に入れて元気になる、という顛末でした。つまり松明は若者に渡したけど、「まだまだ俺だってやるぜ」的な終わり方ですよね。
J:ハハハハハハ!
──つまり「松明は渡さんぞ!」というプライドみたいなものも感じました。
J:そう、あの曲が何を示唆してるかというと……いや、これはなかなか面白いというか、滑稽な人生の観察結果であり、自分としては決してガタがきたり壊れたりしない強固な何かを手に入れようと必死なわけじゃないか。それでもいつか最後には……というか、これはメタファーというより事実そのもので、実際、人間っていうのは消耗していくわけだよね。最後には全部使い切ってしまう。あれも欲しい、これも欲しいと駆けずりまわって、手に入れたものを必死に守ろうと、古くなった臓器を新しいものと取り替えて、それこそフェイスリフトやボトックス注射に夢中になる人達と同じように努力したところで、最後はみんな死んでしまう。そういうことを示唆したんだよ(笑)。
──いよいよ時間がなくなりました。ところで一つ最後に伺いたいのですが、あなたはドイツ出身ですが、今でもドイツに対するシンパシーはありますか?
J:いや、ないよ。両親は共にアメリカ人だったしね。子供の頃にドイツからアメリカに移住してるからドイツにいたときの記憶がほとんどないんだよ。たまたま両親がドイツに住んでいて、僕が3歳のときにアメリカに帰国した形になるからね。それでもドイツやドイツ人に対して親近感は抱いているよ。すごく興味深い国だと思う。
──現在、ドイツ……に限らずヨーロッパの多くの国がウクライナから大勢の避難民を受け入れています。
J:そう、本当にね。ドイツはすごく先進的な発想の国というか……とはいえ右翼やファシズムが再び台頭してきてるという問題は抱えているにせよ。ただ、それはアメリカにしろヨーロッパの多くの国でもそうだよね。今再び右翼が各国で拡大しつつある。とはいえドイツは国としてすごく革新的であるし、それはかつて世界を征服しようとして悲惨な歴史を経験したという傷を負っているからこそであり、だからこそそうしたレベルの争いからはすでに一抜けて、世界を支配しようとする代わりに与えようという方向にまわってる、それがどれだけ希少なことか。あるいは計画されたことをきちんとやり遂げる実行力なんかもね。実際、太陽光パネルを中国から大量に導入して、それにより世界中のエネルギーの価格を下げたんだよ。それなんかまさに革新的な考え方で世界に貢献している実例だよね。世界の先頭に立ってポジティヴな実例を示してるというね。
──ニュー・アルバム『Downhill From Everywhere』は、ロシアのウクライナ侵攻より前にリリースされているので直接的な影響は歌詞などに表れていませんが、それでもソーシャルな目線で社会とコミットしていることを伝える曲が並んでいます。そしてそれは、デビュー当時から全く変わっていません。実は私があなたのライヴを初めて観たのは1986年の《Japan Aid》という東京でのイベントでのことでした。神宮球場という場所で12月のすごく寒い日で……。
J:あー、今言われて思い出したよ!
──まだアルバム『World In Motion』(1989年)リリース前でしたが、そのときアルバムに入る「How Long」という世界の危機に対し警鐘を鳴らした曲を既に披露していて。
J:ありがとう、覚えてるよ! たしかあのステージの音源が残ってるはずだよ。それこそデヴィッド・リンドレーと一緒にステージに立ったときだね。
──そうです。その「How Long」からもすでに40年ほど経過しているわけですが……。
J:いや、実は今言われてみて、あの曲を明日歌ってみるのもいいなって思ったんだ。もう一度、思い出して練習して、いけそうだったらば……自分がこうしてステージをやってることの何がいいかって、例えば今まさにそうだけど、お客さんやファンに言われてはるか昔に作ってすっかり忘れていた曲のことを思い出させてもらったりするんだよ。あの曲も随分長いことやっていなかったけども、また昔の曲を思い出して披露してもいい。それができる場所と機会を与えられているというのはすごく貴重でありがたいことでね。あの曲以外にもコンサートの会場でファンから言われて昔の曲をハッと思い出したりすることがよくあるんだよ。ただまあ、曲を思い出しても、弾き方まで同時に戻ってくるわけではないからね、実際にステージで披露するとなるとそれなりに時間が必要だけどね。「How Long」はペダルを使ってるのがカギなんだ。ディレイを利かせて“♪How Long~”と歌ったあとそのまま放っておく形にしてね、自分の声をそのまま引っ張る形でね。でも、今あの曲をまたやるなら別のアレンジにするかもしれない。自分が“♪How Long~”と歌った後に、別のシンガーから返してもらうのもアリだろうし、あるいは最初に“♪How Long~”と歌った後に、“♪(声の調子を落としていって最後は掠れるような小さな声で)“How Long How Long……”とやって悲しみを滲ませるのもいい、(何度か音程やトーンを変えて歌い出す)“♪ Can you hear someone crying(誰かが泣いている声が聞こえない?”……うん、いいね。やってみようかな。思い出させてくれてありがとう。
──「How Long」は自然に対する人間の高圧的な態度や社会の歪みをいつまで経ってもなくすことができない人類に対して警鐘を鳴らすような曲でした。そしていまだに人間は環境や自然を破壊し続けている、戦争をし合ってるっていう状況が続いています。そしてあなたはそうした状況に心を痛めながら歌い続けているわけですが、あなた自身が70代になってもこうした歌を歌い続ける原動力っていうのはどこにあるのでしょうか?
J:あの曲の成り立ちもまた面白くてね。ハリー・べラフォンテと話していたんだけど、ちょうど家族と一緒にセント・マーチン島にヴァケーションに行ったときのことで、色んな大物アーティストを集めてって話を聞いて、それが後に「We Are The World」に繋がるわけだけど、彼はその最初の段階のメンバーの一人だったわけさ。その話を聞いて色んなアーティストがそれぞれ曲を書いてアルバムを出すものだと思ってたんだけど、最終的にはアルバムではなく「We Are The World」という曲になったというわけさ。と同時に誰がどの役を務めるかで、ある種のロック界におけるヒエラルキーだの覇権争いみたいな状況になり、僕があそこに呼んでもらうほどビッグなスターではなかったというのもあるけど、曲を書くのに時間がかかったのもあったんだ。ただ「How Long」はもともとそのために書いた曲なんだよ。というか、今でもそういう曲を書こうとしてるんだけどね。アーティストが一同に会して同じ曲を一緒に歌うっていう「We Are The World」並みに派手な豪華な演出の曲が作れたらいいよね。「We Are The World」は世界にアフリカの飢饉について訴えかけるのに効果的だった。ただ、僕のやっているジャンルというか、こうしたシンガー・ソングライター系の表現にはやはり社会に対する問題意識やそれに対して声を上げていくことと抱き合わせなところがあるんでね。今一番の脅威であり取り上げなくてはならないと感じてるのは軍国主義について。軍国主義がいかに世界から大切な資源であり生命を奪っているか。あとはやはり貧困の問題、病気や健康被害の問題、政治の不正や、今の利益重視の経済がいかに地球というシステムを脅かしているかという問題について。地球の資源をさんざん使い尽くした結果、もはや後戻りできないほど深刻な状況に陥って、海はプラスチックにまみれてして人々は薬漬けになっている。そうした問題に対して人々の意識を向けることが使命なわけだよ。あるいは今世界中の政府が兵器にかけている予算を他のことに使ったらどんなか人類にとって有益かと思うよ。一体いつまで武器によって自由を勝ち取れるという洗脳を続けるつもりだよ。まさに“How Long〜♪That’s a lie(そんなの嘘っぱちじゃないか)~”ってね……うん、いいね、早速明日にでも歌ってみようかな。今でも同じ気持ちを抱いているんでね。僕が信じていることが歌われている。今のウクライナのニュースを最初に聞いたときにはあまりにも衝撃すぎて頭の中が爆発するほどだったからね。
<了>
Text By Shino Okamura
Jackson Browne
『Downhill From Everywhere』
LABEL : Inside Recordings / Sony Music
RELEASE DATE : 2021.07.23
購入はこちら
Tower Records / HMV / Amazon / Apple Music
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追悼 デヴィッド・リンドレー
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