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「このレーベルをアート・プロジェクトだと考えている」
レーベル・マネージャーに訊く《Luaka Bop》の紆余曲折と未来

22 August 2025 | By Shino Okamura

デヴィッド・バーンが1989年に立ち上げた《Luaka Bop》。アフリカ系、中南米、アジアの音楽を積極的に掘り起こしてきた功績から現在に至るまでコアなリスナーを獲得している重要なレーベルだ。アート・リンゼイらとも交流のあったベネズエラのロス・アミーゴス・インビジブレス、グレッグ・カースティンが在籍していたゲギー・ター、マリー・ドルヌを中心とするベルギー出身のザップ・ママといったアーティストの新作から、バーンが関わっていた初期を代表する《Brazil Classics》、《Cuba Classics》、喜納昌吉のベスト・アルバムなどの《Asia Classics》、アフリカとヨーロッパの関係性を捉える《Adventures In Afropea》といったシリーズまで、世界中のユニークなアーティストをピックアップしてきたが、現在はより広い視点で世界全体を捉えるようなリリースを試みているようだ。バーンは2003年に運営から離れてしまったが、レーベルとしての活動は途絶えることなく続いており、最近でも、10月に来日も決定した、中部ミシシッピのディスコ・ゴスペル系の家族グループ、アニー&ザ・コールドウェルズの『Can’t Lose My (Soul)』をリリースするなど積極的に“世界中を駆け巡っている”。そこで、立ち上げ時からバーンの右腕として運営を担い、現在はレーベル・マネージャーとしてリリース・アイテムのチョイスからディレクションまでを一手に担うイェール・エヴェレフ氏に話を訊いたのでお届けしよう。レーベルの歴史がわかるだけでなく、90年代から2000年代にかけてのアメリカの音楽業界の内部事情が把握できる大変貴重なインタヴューだ。(インタヴュー・文/岡村詩野 通訳/長谷川友美)



David Byrne「Loco De Amor」

Interview with Yale Evelev(《Luaka Bop》)

──私は実は《Luaka Bop》が1989年に設立された時からずっとサポートしてきているジャーナリストです。90年代に、ロス・アミーゴス・インヴィジブルズやロス・デ・アバーホといったグループの日本盤のライナーノーツを執筆したりしました。

Yale Evelev(以下、Y):素晴らしい! 僕はつねに、日本に僕たちのやっていることを深く理解してくれる人がいることを夢見ていたんだ。君がまさにそうだったんだね。

──あなたは《Luaka Bop》のレーベル・マネージャーですが、どのようないきさつで携わることになったのでしょうか。

Y:その質問の回答は多岐に渡るけど、まず1989年にデヴィッド・バーンが、トーキング・ヘッズとして活動することはこれ以上はない、と考えたんだ。そのことを誰にも話さなかったんだけど、彼はその頃《Warner Brothers》とソロ契約を結んでいたから、自分の名前でレコードを作ることにした。当時、多くのメジャーなレコード会社はアーティストにレーベルを立ち上げる権利を与えていてね。マイケル・ジャクソンも自分のレーベルを持っていたし(《MJJ Music》)、あまり知られていないけれどマドンナも自分のレーベルを持っていた(《Maverick》)。多くのメジャー・レーベルは“Favored Nations”という契約形態を取っていたんだ。《Warner Brothers》と契約しているアーティストは誰でも、よりよいレートで著作権料を保証されていた。だから、デヴィッドは《Warner Brothers》からではなく、《Luaka Bop》から自分のソロ・アルバムをリリースすることにしたんだ。それで、1988年に《Luaka Bop》を立ち上げた。そこで彼は、「ブラジルの音楽がすごく好きだ」ってなって、友人たちにカセットテープを作るようになって、このミックステープをまとめたコンピレーションを作りたいと思うようになったんだ。ブラジルに足を運んで、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルといった多くの現地のアーティストと出会って、彼らの音楽が非常に気に入って。それに、彼らがとても知的な歌詞をポピュラー・ミュージックに落とし込んでいるという事実に非常に魅了された。それから、彼はコンピレーションに収録したいブラジリアン・ミュージックをまとめて、それを自身のマネージメント事務所を通して《Warner Brothers》に持っていったんだ。「こうしたアーティストたちをまとめたコンピレーションを作りたい」ってね。彼はそれまでレコード・レーベルを運営したことがなかったから、どういう風に契約をまとめていったらいいかまったく知識がなかったんだ。結局、このレコードがリリースされて35万枚も売り上げたにもかかわらず、彼には一切儲けが出なかった。というのも、《Warner Brothers》がブラジルのレコード会社各社と交渉する気がなかったらしくて。それで、彼は誰かレコード・レーベルの運営を手伝ってくれる人間を雇う必要がある、と考えたんだね。

1990年にはすでに『Brazil Classics 1: Beleza Tropical』と『Brazil Classics 2: O Samba』の2枚のアルバムがリリースされていた。当時僕はブルックリン音楽アカデミーの仕事をしていて、コンサートを企画したりしていたんだけど、デヴィッドをブッキングしたことがあってね……そういえば、当時の僕とデヴィッドは近所に住んでいたね。僕は《Icon》という自分のレーベルをやっていて、何枚か作品をデヴィッドに送っていたから、彼は僕が何者で、何をやっているのかを知っていた。でも、実際には知り合いというわけではなかったんだ。その後、ブルックリン音楽アカデミーを辞めて仕事を探していた時に、《Warner Brothers》にいた友人がデヴィッド・バーンがレコード・レーベルを始めて、働いてくれる人を探しているみたいだよ、と教えてくれた。それで、彼に手紙を書いてみたらどう? と勧められて。手紙を書いてすぐに返事をもらうことはなかったんだけど、ある夜、多くの人を招いて夕食会を開いていて留守番電話設定にしていたら、電話が掛かってきて、メッセージが流れたんだ。「こんにちは。デヴィッド・バーンです。お手紙ありがとう。ぜひ宜しくお願いします。やりたいことをやってもらっていいし、僕がやっていることを助けてくれたら嬉しいです。僕の番号は……電話ください」ってね。それで、1990年の7月から《Luaka Bop》で働くことになった。それから13年、すごく密に一緒に仕事をしてきて、でも、13年経った時、彼は自分の人生を変えたいと思ったんだ。それで、僕はクビになったというわけ(笑)。

そこからしばらく僕は毎日、放課後に息子とキャッチボールをしていたよ(笑)。僕の息子はとてもシャイなんだけど、リトル・リーグで野球をやっていてね。息子が上手にボールが投げられるようになりたいというからつきあっていたら、これがどんどん上手になって、おかげでその年にリトル・リーグで優秀なピッチャーのひとりになったよ(笑)。尤も、そういうことができたのも、デヴィッドの周りの人たちが「いきなりイェールをクビにするべきじゃないだろう。彼はレコード・レーベルをずっと運営してくれていたじゃないか」と言ってくれたおかげだった。それで7、8ヶ月は給料を支払ってくれてね。それで息子のキャッチボールに付き合ったり、アメリカのあちこちをドライブしたりして過ごしたんだ(笑)。

ところが、7、8ヶ月経った頃、デヴィッドが僕に電話してきたんだ。「僕のことを嫌っているかい?」ってね。もちろん僕は「嫌うわけがないよ。僕を13年もの長い間雇ってくれてたんだから」と言ったよ。すると彼は「僕は難しい人間だから……でも、良かったら戻って来ないか。君にはレーベルの権利の半分を受け継ぐ権利があるんだ」と言ってね。僕は「レーベルの権利の半分か、その一部を受け継ぎたい」と言った。すると、彼は「君は僕のパートナーだけど、僕はもう引退するから何もいらないよ」って言うんだ。それで2003年に、僕ひとりで《Luaka Bop》を運営することになったんだ。だから、それまではデヴィッドと僕で運営していたけれど、そこからは僕ひとりでやっているんだ。もちろん他のひとたちとも一緒に仕事をしているし、特に密に一緒にやっている人が2人いる。そのひとりがエリック・ウェルズ・ナイストロームで、彼は本当にクリエイティブな人だね。素晴らしいアイデアの持ち主で、僕たちのレコードにみんながどうやったら注意を向けてくれるかを知っている人。それと、エライザ・グレース・マーティン。彼女はプロのソングライターなんだけど、ミーティングを時間通りに進めたり、インタビューの約束を忘れたりしないようにという部分ですごく手助けしてくれたんだ。

喜納昌吉「Jing Jing」

──紆余曲折があったのですね……。今少し話してくれましたが、あなたが《Luaka Bop》を始める前に運営していた《Icon》や、その頃の活動から《Luaka Bop》に繋がる重要な活動をもう少し教えてください。

Y:僕はアジアの音楽が大好きで、インドネシアに何度も足を運んで、インドネシア音楽のレコードを2枚作ったよ。それに、アメリカの現代クラシック……ダウンタウン系のちょっとロックっぽいクラシック音楽も好きでね。それでジョン・ゾーンの『The Big Gundown』というレコードをプロデュースした。ミニマルなエレキギターをやっていたスコット・ジョンソンや、南アフリカのギタリスト、フィリップ・タバンの作品も手掛けたね。実は80年代に僕がジョン・ゾーンの『The Big Gundown』をリリースした後、ここ日本に来ているんだよ。東京のジョン・ゾーンの家に滞在したんだ。僕とジョン、それに僕の妻……当時はまだガールフレンドだったけど、それからジョンの彼女、みんなで彼の小さなマンションの一室で雑魚寝したよ。その時ジョンと一緒に沖縄に行って、喜納昌吉を探したんだ。僕は彼とのレコードを作りたかったからね。興味深いのは、僕が《Luaka Bop》で働き始めて1年が経った頃、デヴィッドが喜納昌吉のレコードを引っ張り出して、「この人とレコードを作らないか?」って言ってきたんだ。僕は「もちろん!」って答えたよ。ジョンと一緒に沖縄に行った時は彼を見つけられなかったんだけど、デヴィッドとだったらコネクションもあるし、彼のことを見つけ出すことができると思ったからね。それで、プロデューサーの久保田麻琴を通じて、喜納昌吉と連絡を取ることができた。その後、彼にはライ・クーダーのアメリカ・ツアーに参加してもらったから、そう、最終的には彼に会うことができたんだ。

僕は本当にアジアの音楽が好きで……友人のエイミー・スティルマン……彼女はとても優れたアーティストなんだけど、80年代にインドで様々なことを吸収して、幾つかのカセットを持ち帰って来ってきてくれてね。その中のひとつが『Dance Raja Dance』のという映画のサウンドトラックだったんだ。

──ああ、Vijaya Anand(ヴィジャヤ・アナンド)ですね。

Y:そうそう。デヴィッドが、《Icon》でやっているプロジェクトで、《Luaka Bop》で出せそうなものがあるか訊いてきたからいくつか渡したんだけど、その中から彼がやりたいと言ったのが、その音源だったんだ。それから僕は彼と一緒にインドに行って、フィルム・オーケストラと一緒にデヴィッドが歌ったものをレコーディングした。その曲が映画『Blue in the Face』のサウンドトラックに収録されているよ(「Happy Suicide」)。

David Byrne & Vijaya Anand「Happy Suicide」

──1992年には、そのVijaya Anandのコンピレーション・アルバム『Asia Classics 1: The South Indian Film Music of Vijaya Anand』が《Luaka Bop》からリリースされています。Vijaya Anandは昨年71歳で亡くなっていますが、初期の《Luaka Bop》にもたらしたものはとても大きいのではないでしょうか。

Y:そうだね。僕が本当に愛していたのはアジアの音楽だから、その頃もアジア音楽のレコードを2枚作ったけれど、残念ながらそれらは《Luaka Bop》で出した中でいちばん売れなかったレコードになっちゃってね。《Warner Brrothers》とも問題になってしまった。売上があまりにも少なかったから。当時の“少ない”っていうのは6000枚とか7000枚の話だけど、今だったらそれでもかなり良い数字だと言えると思う。でも、当時は全然良くなくて。だから、その時点ではもうアジア音楽は出せなくなってしまったんだ。だから、正直よく分からないんだよね。Vijaya Anandが当時の《Luaka Bop》にとって大きかったのかどうかって。ただ、面白いのは、それらのレコードは本当に好きな人はすごく好きな作品なんだけど、好きになってくれるのは特定のタイプの人たちだけというところだね。《Luaka Bop》の音楽は基本的にアフリカン・ディアスポラが中心だった。アジア音楽についても関係性はゼロではないけれど、やっぱりそのコンセプトからは少し外れていたってことなんだろうね。

──現在、《Luaka Bop》はどういう体制になっているのでしょうか。さきほど、基本はあなた一人、サポートしてくれる人があと2人ほどいる、とおっしゃってました。かつて《Warner Brothers》以降も《Virgin》《Narada Productions》《EMI》などの傘下にあったこともありますが、2006年に独立しています。

Y:これは長い答えになってしまう質問だ。僕たちが《Luaka Bop》を始めた当時、アメリカにおけるレコード販売の95パーセントは大手チェーン店経由だったんだ。タワーレコードとかHMVといった、大手の店ばかりだった。そういう店には、メジャー・レーベルの営業担当がいて。例えば、ワーナー・ブラザーズの場合、流通を担当するWEAという販売代理店があって、全米に恐らく千人くらい営業担当がいたと思う。その人たちは店舗に行って、棚の在庫を確認して、「この作品が欠品していますよ。補充しましょう」って店長や担当者に言うんだ。でも、当時はコンピュータでの在庫管理システムなんてなかったから、店側も何を置いているか正確には分かっていなかった。だから、メジャーはすごく有利だったんだよね。インディー・レーベルにはそうした人員がいなかったから。つまり、メジャーはより多くのレコードを売ることができた。なぜなら、店舗につねに商品がある状態を維持できたから。

でも、1999年に、デヴィッドが僕たちを《Warner Brothers》から引き上げたんだ。彼はもう、トーキング・ヘッズみたいなレコードを作るよう要求されることにうんざりしていた。それで、《Virgin》に移ったんだよ。《Virgin》は《Narada》という部署を通して僕たちと契約してくれたんだけど、それでもやっぱり彼らはメジャー・レーベルではあった。僕自身は9年か10年、《Warner Brothers》で仕事をしてきて、ようやく自分の仕事とは何か、どうすればいいかということが分かってきた頃だったんだ。僕はそもそも音楽畑の人間で、メジャーのレコードなんて買ったことがなかったし、マーケティング的な発想よりも音楽そのものを重視していたからね。《Virgin》は《EMI》の傘下で、例えばマドンナやR.E.M.といった《Warner》みたいなビッグなアーティストをたくさん抱えているわけではなかった。だから、僕たちが新しいレコードをリリースすると、彼らの営業チームはちゃんと耳を傾けてくれた。音楽に本当に関心を持ってくれていたんだ。それは素晴らしいことだったね。でも、2003年に、さっきも言った通り、デヴィッドが人生を変えたいと言って、僕たちは《Virgin》からも撤退したんだ。ちょうどその時期、メジャー・レーベル全体が崩壊し始めていた。もちろんその兆候は前からあったけれど、それが一気に加速したんだ。違法ダウンロードの影響も大きかった。それまでのメジャーはCDのお陰で大きな利益を出していたから。日本ではどういう構造になっていたか分からないけど、恐らく同じような状況だったんじゃないかな。アメリカではレコードの時代は去って、売上が下がっていた。誰もがテレビゲームをやるようになって、レコードを買わなくなっていたんだ。でも、CDが出てきて、メジャーは昔のバックカタログをリイシューして売り出すことができた。それが彼らにとって大きなビジネスチャンスになって、ウォール・ストリートも、この四半期の収益を予測できるようになったんだ。

元々、メジャー・レーベルは大学すら出ていないような人たちが立ち上げた小さな会社だった。でも、CD時代で一気にビジネス化が進んで、音楽への情熱よりも、「今期マドンナがアルバムを出すから、売上がこれだけ上がるはずだ」というような、数字ベースのビジネスになってしまった。でも、やがてCDも売れなくなって、再びメジャーは苦しむことになった。それで僕たちは《EMI》から離れて、今度は完全に独立型の流通に切り替えたんだ。アメリカでは《Redeye》、ヨーロッパでは別のところ、というようにね。これは、結果的にはタイミングとして完璧だったと思う。というのも、その直後にAppleがiTunesをスタートさせたから。昔はレコードを売ると、売れた分の代金を店舗からもらう必要があった。でも、アメリカでは、店は支払の優先順位をつけるから、売れている商品はすぐに支払ってくれるけれど、売れていない商品は後回しにされるんだ。つまり、きちんと払ってもらえる保証がなかったんだよ。でも、iTunesが出て来たことで、月ごとにきっちりお金が入ってくるようになった。それが本当に僕たちを救ってくれたね。当時の契約では、レコードが売れても《EMI》にお金が入り、そこから僕たちに一部が分配される仕組みだった。でも、実際にきちんと払われるかどうかは怪しかったんだ。そこにiTunesができたことで、直接僕たちが受け取れるようになったということだね。しかも、スティーヴ・ジョブスには《Luaka Bop》のファンだという友人がいて、《Luaka Bop》を最初に参加させるべきだと言ってくれて、 僕たちはiTunesが取り扱う初期のレーベルのひとつになったんだ。これで質問の答えになっているかな……おっと、《Luaka Bop》の組織の体制の話だったね!(笑)

オーケーオーケー、固まったのは2006年のことだね。デヴィッドが離れていってしまって、正直精神的にはかなりきつかった。それまでも僕がレーベルを運営していたとはいえ、やっぱり誰かにどう思うか相談できたり、色々なことを話せたりする相手がいるのはありがたいことだったから。彼がいない状態でレーベルを続けるのは、やっぱり大変だったよ。彼の存在感はとても大きいし、強烈な影響力を持った人物だからね。それでも僕は音楽を愛していたし、どうしても出したいレコードもまだまだあった。だから、なんとか前に進んで行ったんだ。まあ、それなりに上手くいったとは思う。そこそこやれていたんじゃないかな。それで、2013年頃だったと思うけど、エリック・ウェルズ・ナイストロームを雇った。彼は以前、あのファッション・ブランドのディーゼルでSNSを担当していた人物なんだ。ディーゼルではカニエ・ウェストのツアーに同行するバンドを選ぶというコンテストをやっていてね。それで、なんと3000組のバンドの中から、僕たちのレーベルのバンドが1組選ばれたんだよ。それがもう、あり得ないくらいディーゼルらしくないバンドでね(笑)。ディーゼルが好みそうな見た目でもなければ、ジーンズすら履かないような(笑)。めちゃくちゃな話だよ。でも、そのバンドが選ばれたことでエリックとも知り合いになって、それが縁で彼に働いてもらうことになったんだ。彼は、今までとはまったく違う視点でいかに人々にレコードに興味を持たせるか、ということに取り組んでくれた。当時僕は5年……6年、7年くらいかけてチン・マイア(ブラジリアン・ソウルのアーティスト)のレコードのライセンスを得ようと彼の遺族と交渉していたんだけど、ものすごく大変でね。そんな時、ボストンに住んでいるナイジェリア人の男性に声を掛けられて。「今度ナイジェリアの自分の故郷に帰るんだけど、そこにウィリアム・オニーバー(ナイジェリアのファンク・アーティスト)が住んでいるよ。君のコンピレーションに彼の曲が入っていたよね。彼のレコードを丸ごと1枚作ってみない?」って言ってくれてね。僕はもちろんやりたい、って即答したんだ。彼は言ったよ。「じゃあ契約書と前金を用意してくれ。3ヶ月後に戻って来るよ」ってね。で、恐らく君にも予想はついていると思うけど、彼は3ヶ月経っても戻って来なかった。結局9ヶ月後に戻って来て、「ウィリアム・オニーバーには前金を渡したけれど、彼は契約書にはサインしてくれなかった」と言われてしまったんだ。それで、「じゃあ君はどうするんだ?」と訊いたら、「大丈夫、必ずサインさせるから」と言ってくれたんだけど。最初は3ヶ月で解決すると思ってたし、僕の方はチン・マイアの件で5年も待っていたから、それに較べたら全然マシだと思って喜んでいたんだけど、結局チン・マイアの時と同じような展開になってしまったんだ(笑)。最終的にオニーバーが契約書にサインするまで、4年も掛かってしまった。最後の決め手になったのは、そのウチナーという名のナイジェリア人男性が、ウィリアム・オニーバーの家に直接出向いて、「サインするまでここを動きません」って5時間居座ったことだった。それで、ようやく契約書にサインしてくれたんだよ。

William Onyeabor「Atomic Bomb」

──さまざまなハプニングや冒険を乗り越えての現在なのですね。デヴィッド・バーンは今や直接関わってないとはいえ、アイデアやアドバイスをしてくれることはあるのですか。

Y:いや。2003年以来それはないけど、いくつかのプロジェクトを一緒にやったことはあるよ。グループを結成してウィリアム・オニーバーの音楽を演奏した時は、デヴィッドもロンドンやニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコでの公演に参加して歌ってくれたんだ。実は来週、タウン・ホールでアニー&ザ・コールドウェルズのシンガーたちと一緒にライブをする予定だよ。でも、基本的に彼はもうレーベルには関わっていないね。

ただ、2003年までは、デヴィッドはつねに、自分自身をアーティストとしてどう捉えるか、ということを考えていたんだと思う。その上で、聴き手を楽しませながらも、知的な要素を持った音楽を作るとはどういうことかについても考えていたんじゃないかな。だからこそ、僕たちはラテン・ロックの興味を持ち始めたんだ。ラテン・ロックのバンドは、みんなが踊れるような音楽を作っていながらロックでもあり、しかもそこに伝統的な要素……いわゆるラテン的な要素を取り入れていた。彼はそういうことにすごく興味を持っていて。すなわち、どうすれば多文化の音楽を、自分たちがやっていることに取り入れることができるのか、どうすればオーディエンスとの繋がりを保ちながら、そういうことができるのか、という問いに向き合っていたんだ。だからこそ “非常に知的でありながら、同時にポピュラー・ソングでもある曲を書く”というブラジル音楽のアイデアにとても惹かれていたんだよ。

とはいえ、僕たちはただ自分たちが好きな音楽のレコードを作っているだけなんだ。バランスを取ろうとしているわけでも、教育的なことを目指しているわけでもない。僕たちが目指しているのは、どこの音楽であろうと、聴く人が大切に思い、愛し、心に残るようなレコードを作ることだ。その音楽がどこから来たのか、どういうジャンルのものなのかは正直どうでもいいと思っている。ただ、人々が感情的な繋がりを感じられるようなレコードを作りたい。ただそれだけなんだ。

──《Luaka Bop》はレーベルという枠組みを超えて、音楽と文化のキュレーション・プロジェクトのような活動と言ってもいいと思います。現在、あなたがたが考えるレーベルの未来予想図にはどのような活動にあるのでしょうか。

Y:僕は《Luaka Bop》をアート・プロジェクトだと考えているんだ。最近では、韓国のバンドと契約したよ。これは再びアジア音楽に挑戦してみようという試みで、今回は以前とは違う形で聴き手に届くかどうかを見てみたいと思っている。それと、最近はゴスペル音楽にかなり力を入れているよ。スピリチュアリティ(霊性)をテーマにしたシリーズを始めたんだ。最初の作品はアリス・コルトレーンで、彼女はジョン・コルトレーンが亡くなった時、精神的に崩壊してしまった。彼の死があまりにも突然だったので、非常に深いショックを受けてしまったんだね。それで彼女はインドに行き、グル(師、指導者)を訪ねて新しい道を探し、ある時アシュラム(道場)を開くべきだというヴィジョンを得て、カリフォルニアに戻って実際にアシュラムを開いた。そこには毎週日曜日に多くの人が集まり、インドのキルタンとゴスペルとが混ざり合ったような歌を歌う日曜礼拝が行われていたんだ。最初は彼女ひとりで歌っていたそうだけど、そのうちにみんなで歌うようになって。歌うことそのものが、スピリチュアルな礼拝の中心になっていったんだね。もちろん、彼女の説法の時間もあったけれど、人々を動かしたのはその合唱の時間だったんだ。それで、“人類の終わりが近づいている”というような感覚から、このシリーズを始めたんだ。今では、多くの人がそう言うかもしれないけれど、僕はもう少し早くからこの感覚を感じていた。あまりにも多くの困難なことがこの世界で起きているように思えて、人類はもう進化の終着点に達していて、これ以上は存在できないのではないか、と思っていたから。だからこそ、より高次の理想や信仰を追い求める必要があると感じたんだ。音楽とは、それ自体が霊的な実践ではないのか、という思いから、音楽を通じてそのことを表現したいと思ったことがこのシリーズの原点となった。だから、最初はアリス・コルトレーン。次に、神そのものというよりは、人と人との繋がりに焦点を当てたゴスペル音楽のコンピレーション。そして3作目は、ナイジェリア地域のイスラム教徒の、高次元の霊的な暮らしをテーマにした音楽だね。その地域では、音楽のスタイルがかなり異なっていて、イスラムの音楽をベースにしながら、イスラム教徒とキリスト教徒が共に暮らし音楽に合わせて踊る文化があるんだ。だから、最近ではこうしたゴスペルやスピリチュアルな音楽にたくさん取り組んでいるという感じだね。

Alice Coltrane Turiyasangitananda「Om Shanti」

──さて、《Luaka Bop》の最新リリースがアニー&ザ・コールドウェルズの『Can’t Lose My (Soul)』です。ミシシッピの家族グループである彼女たちに着目するようになったのは何がきっかけでしたか。

Y:中部ミシシッピ、ね(笑)。ロサンゼルスにグレッグ・ベルソンというイギリス人がいて、《Gospel 45》というラジオ番組をやっていたんだ。ゴスペルのレコードはとても好きなんだけど、集めるのが非常に難しいんだよね。というのも、ゴスペルはとても地域性が強いジャンルだから。僕はスピリチュアリティ・シリーズを作る過程でゴスペルについてたくさんのことを学んだんだけど、例えばゴスペルのレーベルというのは、基本的に録音してレコードを作るだけ。バンドがツアーに出る時に、自主的にレコードを販売するという仕組みなんだ。つまり、流通網や宣伝の仕組みというものがほとんどないんだよね。だから、ゴスペルのレコードを見つけるのは本当に大変なんだ。グレッグはそういうレコードを探してアメリカ中を旅していて、イギリスからアメリカに引っ越してまでレコードを収集していたんだ。彼が持っているゴスペルのレコードは本当に素晴らしいものばかりで、僕は以前からゴスペルで何かやりたいと思っていたから、彼のコレクションを元にコンピレーションを作ることにした。このコンピレーションのテーマは、イエス・キリストや神について歌うというよりも、我々人間同士がお互いにどう関わっていくか、という内容に焦点を当てている。ところが、どうしても1曲だけライセンスが取れない曲があってね。それがステイプルズ・ジュニア・シンガーズの曲だったんだ。彼らを検索すると、ステイプルズ・シンガーズばかり出て来てしまって(笑)、どうしても「ジュニア」の方か出て来ない。何度検索してもどうしても見つけられなくて。そんな時、僕らのチームにエリックとエライザの他にポール・ディディという人がいてね。彼はカリフォルニア出身で現在はベルリンに住んでいて、グラフィックデザインを担当してくれているんだけど。その彼が、「君が探している曲(「We Got a Race to Run」)を書いたアニー・ブラウンは、今はアニー・コールドウェルという名前でコールドウェル・シンガーズにいると思うよ。ミシシッピ州出身のはずだ」と教えてくれたんだ。それで、僕はミシシッピ州在住のアニー・コールドウェルという名前の人を全員調べて、見つけた7人すべてに順番に電話を掛けていったんだ。最後の7人目の留守電にメッセージを残そうとしたところで、相手が「もしもし」って電話に出てくれてね。「もしかして、昔ステイプルズ・ジュニア・シンガーズにいたアニー・ブラウンさんですか?」と訊いたら、「ええ、それ私よ」と言うんだよ。もう跳び上がって喜んだよ(笑)。

で、「We Got a Race to Run」をライセンスさせて欲しい旨を伝えると、彼女は「ええ、いいわよ」ととても気さくに応じてくれてね。普通、こういう話を持ち出すと騙されるんじゃないか、と疑う人が多いと思うけど、彼女はまったく僕を疑うことなく、とてもオープンで温かい人だったんだ。それで調べていくと、アメリカに1本の道が通っていて、その沿線にこのコンピレーションに参加しているバンドが3つもあることが分かった。1つはアトランタの東、ひとつはアラバマ州のバーミンガム、そして3つ目はメンフィスの南にあるアニー・コールドウェルのグループ。それで、その道を実際に車で走りながら、映像作家と一緒に3つのグループのショートフィルムを撮影したんだよ。

アニーはその時もとても素晴らしい人だった。しかも、彼女は13歳の時にこの曲を書いたんだ。そして、今でもパフォーマンスを続けている。僕はそれまでコールドウェルの存在を知らなかったんだけど、彼女は自分のバンドを持っていたんだね。それからレコードのリリースに合わせて、ナッシュヴィルで開催されたアメリカ音楽のカンファレンスでパネルディスカッションを行って、その時にアニーと彼女の家族によるコールドウェル・バンドが演奏してくれたんだ。彼らと過ごす時間はとても楽しいものだったよ。その時点ではコールドウェルズのアルバムは出していなくて、ステイプルズ・ジュニア・シンガーズの一曲のみをコンピレーションに収録していたんだけど、その後でステイプルズ・ジュニアのアルバムを聴く機会があって、アニーにそのアルバムをリリースしたいことを伝えたんだ。彼女は、「兄弟たちが反対するんじゃないかしら。実際、反対するのは分かりきっているのよ。彼らはこの1曲だけでも、私が大金を稼いでいると思って怒っているもの」と言った。家族の間には、長年に渡って積もり積もった不満があったようだね。でも、その数年後、ベースを担当していた彼女の兄が死の床で、《Luaka Bop》と一緒にアルバムを出すべきだと言ってくれたそうなんだ。それをきかっけに、1975年にリリースされたステイプルズ・ジュニアの最初のアルバムを再発することができた。それから、ステイプルズ・ジュニア・シンガーズと一緒にツアーに出たんだ。彼らはパスポートも持っていなくて、飛行機に乗ったのも初めて、ヨーロッパに行くのも初めてという感じだったね。それでも、2年にわたってヨーロッパで数多くの公演を行うことができた。それから次のステップとして、新しいアルバムを作ることになったんだ。同じ週にミシシッピ州で2枚のアルバムを録音しようというアイデアが浮かんで。場所はアニーの家のすぐ向かいにある教会。そこでステイプルズ・ジュニア・シンガーズの新作と、コールドウェルズのアルバムを同時に録音したんだ。最初にリリースしたのは、すでにアルバムを出していたステイプルズ・ジュニアの方で、その後にコールドウェルズのアルバムをリリースしたよ。

──アニー&ザ・コールドウェルズの新作は私も聴きましたが、デヴィッド・バーンが『American Utopia』で描いていた、ヒューマニズムを強く感じさせる、アメリカ国家の危機的状況にある今だからこそ意味を持った家族とそのつながりを認識させられる作品だと感じました。そうしたアメリカ……に限らず、世界の分断、格差社会の動きをレーベルとしてどのように捉えていますか。また、こうした現況に対して、《Luaka Bop》は何ができると思いますか。

Y:それは大きすぎる質問かもしれないね。でも、アニー&ザ・コールドウェルズの面白いところは、彼らの演奏に足を運ぶ観客たちが、必ずしも彼らと同じ信仰を持っているわけではないというところなんだ。つまり、イエス・キリストこそが自分の神である、というような思いでライブに来ているわけではない。単純に音楽を聴いて楽しみたい、感動したいという気持ちで来ているんだよね。実際、観客はとても楽しんでいる。でもそれだけじゃなくて、アニーとその家族が抱いている信仰の存在も理解するようになっていく。それで、自分自身は同じ信仰を持っていなくても、何かを信じるということ自体が大切なんだということに気付くんだ。何かを信じることには大きな力があるし、僕たちがこの世に存在しているのには何らかの理由があるという思いも含まれているのかもしれないね。僕たちはひとりひとり個々の存在ではなく、地球上にいるひとりひとりがこの場でひとつの仲間になっているという感覚。お互いに理解し合って、助け合って、愛し合っていく方が遥かに良いという、とても力強いメッセージがそこにはあるんだ。それは、アニー&ザ・コールドウェルズのステージを観ると、予想以上に強く心に響いてくる。誰もそこまでの体験を期待していないんだろうけど、実際目の当たりにすると、ものすごく心を動かされる体験になるんだよ。


<了>



Annie & The Caldwells「Wrong feat. Deborah Caldwell Moore」


Text By Shino Okamura

Interpretation By Yumi Hasegawa


Annie & The Caldwells

『Can’t Lose My (Soul) 』

LABEL : Luaka Bop / Beatink
RELEASE DATE : 2025.6.13
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アニー&ザ・コールドウェルズ 初来日ツアー決定

2025年10月19日(日)朝霧Jam 出演
2025年10月20日(月)東京 duo MUSIC EXCHANGE
チケット情報はこちら
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