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「ドレイクが「Jungle」で僕に与えてくれた翼は計り知れなく大きい。
僕とスライ&ロビーのトラックはそれとはまた違ったセラピーかな」
NY拠点のガブリエル・ガルソン・モンターノがネイキッドになって綴った有機的な歌

24 November 2020 | By Shino Okamura

ニューヨークを拠点に活動するこのガブリエル・ガルソン・モンターノ。クィアーであることの苦悩をアイデンティティとして結実させているアーティストが増えている中、この人こそもっともっと注目されていい存在だ。

コロンビア人の父とフランス人の母の間に生まれ、ブルックリン育ち。2017年に最初のアルバム『Jardin』をリリースしてからというもの、一貫してヒップホップ、ファンク、R&B、フォーク、クラシック音楽、クンビアやレゲエ……と常にハイブリッドな作品を制作してきた。《Stones Throw》との共同で《Jagjaguwar》からリリースされたニュー・アルバム『Agüita』は、もちろんそうした彼のこれまでのキャリアの上に位置するものではある。

だが、前作以上に多彩な楽曲、アレンジが際立った今作では、J・ディラのようなビートメイキングもするし、レゲトン調の曲にも挑戦、加えて、モーゼス・サムニーと同列に語れるようなハーモニーや歌心もあるし、スペイン語で歌い、スパニッシュ・ギターとストリングスを重ねたシンプルなバラードもあるという具合にさらに手札が増えている。なのに、決して器用に使い分けているという感じがせず、むしろ全曲緻密で室内的内省的な作りに終始していて、加えて、ストイックに感情を押し殺したようなヴォーカルなのも手伝い、プリンスを思い出すほどだ(実際に本作のジャケは『Lovesexy』風)。以前、ドレイクがこの人の曲をサンプリングして話題を集めたが、逆にスライ&ロビーの曲をサンプリングした「Muñeca」なんて曲もある。

新たなアングルからひたむきにルーツを見直し、革新的であるために足元を見つめているような、そんなシンガー・ソングライターのガブリエル・ガルソン・モンターノに話を聞いた。複数ある自身のルーツでアンビバレントになった過去のエピソードには、彼のような体験などない平均的な日本人として考えさせられた。これからもずっと応援していきたい。
(インタビュー・文/岡村詩野 通訳/染谷和美)

Interview with Gabriel Garzón-Montano

――やはりまずは今作のジャケットの話からしてもいいですか? どう考えてもプリンスの『Lovesexy』へのオマージュですよね?

Gabriel Garzón-Montano(以下、G):ははは。そう。あれはね、友人のフォトグラファーに撮影してもらったんだけど、5日間でフィルムを85ロール使って制作したんだ。僕らもセクシーなジャケットが大好きだから。実は右手の親指が胸の真ん中にくるところから小指の広がり具合まで『Lovesexy』を参照してる。

――背景は花じゃなくて森、そしてアクアじゃなくて森ですが。

G:すぐそばを小川が流れていたんだよ。「Agüita」のミュージックビデオの頭の方の出てくる森のシーンとほぼ同じ場所。コロンビアの原生竹、グアドゥアの産地なんだ。そして水の中にいるのはこの場合、フォトグラファーというね(笑)。

――お父様はコロンビア人、お母様はフランス人、ただ、あなた自身の生まれは1989年、ニューヨーク、ですよね。

G:イエス。ブルックリンのキャロル・ガーデンズで生まれたんだ。両親はそれぞれ80年代の始めにニューヨークに渡ってきた移民で、確か85年にこっちで出会ってるはず。その後、僕が生まれて17才ぐらいになるまでに、家族はニューヨークシティ内で13回とか15回とか引っ越してる。姉妹がひとりいて4人で暮らしてきたんだけど、僕が5才ぐらいの頃に一度、父親がコロンビアに帰ったことがある。1年ぐらいしてまた戻ってきたけどね。父親はポリティカル・カートゥーニスト(風刺漫画家)で、母親はメゾソプラノ歌手なんだ。母はピアノやギターもサックスも、フレイムドラムも演奏する人だったから、いつも家で音楽を作っていた。僕が6才になると、彼女が僕を《Third Street Music School Settlement》(ニューヨークはマンハッタンにあるアメリカで最も長く運営されているコミュニティ・ミュージック・スクール)に入れたんだ。そこはスズキ・メソードを教えていて、僕もそのメソッドで6才から13才までヴァイオリンを習っていた。あれは僕の音楽性や、音楽における想像力みたいなものに大きな影響を与えたと思う。スズキ・メソードでヴァイオリンを習うのは13才でやめたけど、その前の12才の頃からドラムを始めてた。ロックに惹かれていった時期だね。

そして10代の終盤はベースとピアノ。ピアノは僕にとって頭を使う複雑な楽器だった。ピアノの譜面は他の楽器より音符が明確に書き出されているし指示もはっきりしているんだけど、左右両手の別々の運指を組み合わせるという点でバイオリンとも管楽器とも違うところが難しくてね。楽器はピアノが最後かな。その後は作曲にはまっていく。19才から20才ぐらいから、だね。そして初めてのEP『Bishouné: Alma Del Huila』を作り…うん、その後は3年毎に新しい音楽を発表してるって感じ。

――90年代のブロンクスで、文化的にマルチな家庭に育つというのはどんな感じだったのでしょうか。日本は人種も言葉も文化も基本的にモノラルな国なので、両親が違う言葉を話すって想像が難しいんです。

G:人間性というものに対する良い意味でのユーモア感覚が培われたように思うよ。10才ぐらいの頃は電車の中で大の大人がお漏らししてるのを見たりした(笑)。90年代は今と比べたら結構…っていうか、ちょっと荒れてる感じだったし、そういうことはよくあった。当時のアメリカはそういうクレイジーなところがある若い社会だったってことだと思うよ。たぶん、日本みたいな国の素晴らしさは伝統の古さと強固さにあるんじゃないかな。ここに至るまでに数知れない試行錯誤が繰り返されてきて、これはイケる、これはダメ、これは役に立つ、これは使えない…みたいなのが確立されている。アメリカは人も多いけど、それぞれの背景や考え方が色々過ぎて、それがリミックスされたり分断されたり、まあ、それはどこでも起こっていることなんだろうけど、アメリカは個が強いから混ざり合うまでいかない。コラージュがせいぜいで、だから他よりもいささか収まりが悪い感じになっているのは間違いない。でも、その収まりの悪さは、僕は意図的なものだと思っているんだ。

――というと?

G:わざとそうしてある、ということ。だって、そうしておけば一致団結ってことにならないだろ? 白人と黒人は違うっていう認識に立たせておけば、一致団結して組合として会社に立ち向かうことはない、みたいな、さ。別々に目指す勝利は完全な勝利ではない。

――ははあ、力を合わせるべき、という漠然とした認識はあるにしても……。

G:そう、むしろ、どうせ理解し合えない、という漠然とした理解、かな。それがあるから成立しているっていうかさ、はははは! しかし文化の継承って面白いよね。「はい、どうぞ」って手渡されるわけでもないし、「確かに自分のです」って同意するわけでもないのに。しかも、2つも3つも……たぶんきみが言っているように、家庭の食卓みたいな場を想像した時にそこに違う文化が並んでいる様子は、想像するとかなり不思議かも。日本の人はきっと、長く日本を離れたことでもない限り、日本人の自覚ってないのかもしれないよね、居ながらにして逆に自分の文化を意識の中から失っていくのかもしれない。「これがおまえの文化だ」って常日頃からそれに接するようなコミュニティに暮らしていれば別だけど。

――確かに。

G:そこいくと僕は、コロンビア側からは「見た感じ、こっちの人じゃなさそうだな。そう言われるとそんな感じもするが、でもちょっと違う」みたいな言われ方をして、でもアメリカでは「やっぱりコロンビアの人だよねえ」って…しかも、フランス側のことはアメリカではあんまり指摘されないのが面白い。「いや、実は母親がフランスの人で僕もフランスの……」とか話しても、「ふーん、へー」で大して興味を持たれないのに、「コロンビアが入ってる」と言うと、「すげぇ、コロンビアなの?」って。

――なんででしょうね。

G:結局、自分の見たいものしか見ようとしないんだよ、人は。だから「僕って何者?」ってなるじゃん? 相手によって反応が変わり、認識が変わる。そして僕は白人でも黒人でもない。白人の目に映る僕は白くなさすぎて、黒人の目に映ると黒くなさすぎる。

――受け手によって違う色を提示するって、あなたの音楽もそうかもしれないですね。中身がとてもカラフルでフュージョンでハイブリッドで、だけどとっ散らからず、むしろ密室感や清廉さ、知性が感じられる。ファースト・アルバムの頃からあなたの作品にはそういう印象を持っていましたが、今作でさらにそこが強まった気がします。ヒップホップ、R&B、ブルーズ、ジャズ、ゴスペル、フォーク、と、いわゆるルーツミュージックがあなたの中で自然に共存しているからなのか、無理がない。しかも、聴く人によって前に出てくるカラーがきっと異なる。

G:確かに。そしてそれは、今までの作品が自分の興味を反映しきれていなかった、という事実に気がついたからだと思う。選択肢の幅を狭めてしまっていたというか。理由は単純に世間知らずで、スタイルはひとつに決めなければいけない、と、ひとつこういうのをやったら別のをやってはいけない、と思っていたから。そんな単細胞だったわけ、僕の頭は。でも、リリースとは違うところでこっそりと作り始めていたんだよね、色んな音楽を、それも心を込めて。

わかるかな、この感じ。それを表に出すのは、僕にとってはリスキーだけど楽しくて、でも怖い動きだった。こういうのをやってみたいというのは自然な欲求で、そこに力を注いだだけだけど、やったことがないことをやるには学びが必要。メソッドを獲得しないといけない。出来上がったものが誰かの耳に自然で馴染みの良いものに聞こえたとしても、作り手は音楽のひとつひとつ……言葉とメロディの組み合わせのひとつひとつを吟味して自分のものにしなければならないので、その意味で果たして創作過程が無理のない自然なものだったかと言えば、そこにはいくらか疑問が残る。かつ、どんなに自然に聞こえる音楽にもリハーサルという過程は必要で、となると頑張らずにできたのか、というとそれも違う。そこら辺に気がつくと面白いことになる。僕だって思う時はあるよ、これって本当に自分の中にあったものなのか、それともわかったフリをしているだけなのか、って。でもそれは突き詰めれば関係ない。無理をしたとしても、それは良い音楽を作ろうとした結果なんだからいいじゃん、と思いながらも周りに目配りしている自分の姿が思い浮かぶ。早い話が僕は考えすぎるんだ(笑)。

――音作りやスタジオでも?

G:うん。

――ひとりで存分に作りたいタイプ?

G:まさに。

――では、どのようにして、技術的なことも含めてひとりで創作、制作ができるようになったのでしょうか?

G:いやもうとにかく時間がかかった、遅々としていた(笑)。時には苦しみのあまり吐いたこともある。まさに「Slow」という言葉が最適だと思う。何年もかかってる。そもそも僕はパフォーマーを自認していた。だからテクノロジーを導入したのはけっこう遅かった。子供の頃から普通に使っていたタイプではなく、むしろ「コンピューターに頼ったら楽器がどれも中途半端になる」みたいな、モダンになりきれないオールドスクール派だったんだ。そうこうするうちに若者たちはスマホ1台の身軽さで何でもこなすようになり、楽器を弾かない巨匠が登場するのを見ているうちに、何でも決意と学びだな、と。そしてクロゼットにひとり閉じこもることになったんだけど、我ながら笑えるほどの孤独と隔離、そのすぐ隣に狂ったような頑固、みたいな空間がそこにあった(笑)。つまり、演奏だけなら楽勝だよ。そういう意味では僕はパフォーマーなんだと思う。

――では、スタジオの作業は今は楽しめるようになりました?

G:今は大好きだよ。人に頼ることを覚えたから。

――(笑)

G:必要なサポートを得られるようになった。それぞれの分野で卓越した人が手伝ってくれて、しかも皆んな仕事をして楽しい人ばかり。僕は音楽とサウンド・マネージメントに専念している。分担がうまくできるようになって、自分であるうまくできないところはプロの手を借りることを覚えた、というのは大きいね。当初は、そもそも自分は何をしたいのか、そのためには何が必要なのか、そこからしてわかっていなかったし、プロトゥールズの何たるかもわからない、というところからのスタートだったからね。だいたい、そこに至るまでの僕の周辺の人たちって、例えばレニー・クラヴィッツのレコーディングをしたヘンリー・ハーシュとか、オールドスクールの、年上の人が多かったから、世代が全然違って、スタジオで直接彼らからそういう技術を教わることもなかった。向こうも俺が何をやりたがっているのかわからなかったみたいだし(笑)、あの人、2006年にやっと電子メールを導入して初メールをよこしたくらいだから、今みたいに気軽に連絡を取り合う状況じゃなかったし。スタジオにはプロトゥールズ専門の技術者がいて、僕にもファイルを送ってきたりしたけど、それをどう扱っていいのかわからなくて困ったり、うん、最初はそんな感じだったんだ。アルバムを2枚作る間に色々と覚えて、今はスタジオが大好きだと言える(笑)。

――「Muñeca」ではスライ&ロビーをサンプリングもしていますしね。

G:ああ、あの曲に関しては、スライ&ロビーがメイヤー・ホーソーンと組んだのがきっかけで僕にも音楽を送ってくれたんだ。リズムが2種類あって、ぼくは自分が作っているものにそれをどう組み込もうか考えたんだけど、その時点でいわゆるレゲエな曲は僕はやっていなかったんだ。僕がレゲエ・ソングをやるのには違和感があったんだよ。ちょうどドレイクが出してくる曲が軒並みカリブっぽかったり、リアーナがドレイクと組んだ「Work」を発表したり、なんかそっち方面に進んでるのは俺も見てわかってたから、「僕がレゲトンやったらどうだろう」とは思いつつ「やっぱヘンだよな。好きだけど僕が本気で取り入れて、いきなりその手の曲がひとつだけ出てくるってのも、どんなもんか」と。でも、なんとなく、こうすればいいんじゃないか、ってアイデアはあったんだ。で、やるんだったらスライ&ロビーからフレーズを頂戴するしかない。僕自身には本物のOGコネクションはないんでね。

――本物、純正、みたいなこだわりがある、と。

G:そう。創作に関しては僕はかなりのナードなんでね。扱う素材は逐一吟味するし、必ず自分で調べて、作業の全てに立ち会って、最後まで自分でコントロールする。途中からベルトコンベアに乗せることは絶対にしない。靴職人のイメージ。全工程を自分で手がけるから沢山は作れないけど、出来上がった靴はアナ・ウインターも手放さなくなる、みたいな。プリンスもそうだったよね。あの人も朝から晩までスタジオで音楽を作り、全ての過程を自分で取り仕切っていた。そうやって常に良いものを目指す伝統がこの世界にはあると思う。僕もその一端でありたい。

――その一方で、革新的である、先鋭的である、ということはあなたにとってどれくらい重要ですか。

G:すごく重要だと思っている。というか、独創性、かな。僕は、自分がやることは全て自分オリジナルのゾーンにあって欲しいと考えているし、そう努力している。ツール……って言葉にはいろんな意味があるけど、あらゆる意味でツールやデヴァイスを使う場合には、そのままではなく一言付け加えるなり、変化させるなり、別にものに替えるなりすることも多い。曲とか発想、スタイルなんかは自ずと僕独自のものなんだろうけど、それが他の何かと同じような音になってしまう可能性にリスクがあると思っていて、だから自分が初めて聴くような音楽を作ろうという意識は常にある。

――ただ、他方であなたはデビュー当時からリミックスやインスト・ヴァージョンを作っていますよね。それはとてもオープンで柔軟な姿勢だと思いますが、自分で作ったものを自分で分解して見えてくるものは何でしょう。

G:曲との新たな関係が生まれる。再発見があったり、新たな喜びがあったり。特にインスト・ヴァージョンを聴くのが好きなんだ。なんでかというと、なんかこう、笑顔になってしまうというか、友達が訪ねてきたような感覚を味わえるから。あと、インストだと自分自身の存在をあまり意識しないで聴ける。声がしないからね。ノリノリで聴いてたら、「いいねえ、これ、あ、僕の曲か」みたいな(笑)。自分の音楽でえそんな気持ちになれるのって、すごく嬉しいもんだよ。隅々までわかっていたはずの曲の、まだ気づいていなかったちょっとした所がフィーチャーされる感じ。

――ドレイクもあなたをサンプルして同じように感じていたかも。

G:あはははは、ホントだね。彼、あの仕上がりを聴いた夜は眠れなかったらしいよ。そんなふうに感じてくれる彼の謙虚さが、すごく好ましいと思う。

――サンプリングで新たなリスナーに届くってことってありますよね。あなたをドレイクの曲で知ったという人も多いだろうし、あなたが使ったからスライ&ロビーを知ったという若者も出てくるかも。モチーフとして再利用されていくことに対して思うところはありますか。

G:それって本当に素晴らしいことで、ドレイクが「Jungle」で僕に与えてくれた翼は計り知れなく大きい。僕とスライ&ロビーのトラックは、それとはまた違ったセラピーかな。80年代、90年代に飛べるモーメント(笑)。そういう力があると思う。

――かたや、ドイツの音楽家であるテオ・ブレックマンが参加した曲はクラシカルですね。

G:ああ、テオは僕が子供の頃からの知り合い、というか僕の母親を通じた知り合いなんだ。アルバムを作るにあたって、これでもかっていうくらい違う曲を入れたいってのがあった。視界に一度には入りきらないような振り幅で、より強い印象を醸し出すように、そして他の誰にも再現できないようなアルバムにしたいってね。とにかく人と違うものを作る、という自分への挑戦だったんだ。そして、違うということを祝福したい、と。歌詞にも、人間というものを綴った美しいポエトリーがよく出てくるんだ。
共通するものしないもの、分断と共感……テオがやっている音楽は、僕の感覚に照らすと自分の周囲にある音楽…いわゆるポップミュージックから最も遠いところに位置している。僕には速攻で別世界へ飛ばしてくれる人、子供時代を思い出させる人、ニューヨークのアヴァンギャルド・シーンを想起させる人、違う伝統と繋がっている人、ブラック・アメリカンの体験とは別のところから来ている人……とにかく違う、ヨーロッパ寄りの体験を踏まえている人。つまりそれは、僕が母から受け継いでいるはずのものだと思うんだ。柔らかさ、印象派的な表現、和声、ドビュッシー、フォーレ。そして父親を通じてロックンロール・ミュージックを知った僕は、ニューヨーク・シティでヒップホップやR&Bに目覚めた。自分にあるものを全て網羅しつつ、ヒーローとの共演を正当化する僕なりのやり方があれだった、ということ。彼からもらったものを正当化する、かな。あんなに繊細な音楽が大好きだという気持ちを、ポップのコンテクストで表現しているんだ。

――つまり、あなた自身のルーツ、アイデンティティと原体験がパースペクティヴに折り重なって立体的に表現された作品ということですね。

G:そうだね。特にそのイメージが明確になったのは、「Blue Dot」と「Agüita」。あの2曲が出来たところで、どんなサウンドのアルバムになるか感覚的に掴めた。あれらはアルバム用に作った最初の2曲でね。その順番で。「Blue Dot」は2、3ヶ月かかりきりでそればっかりやっていたから、アルバムで聴いてもらうあの形が彫り上がった時にはもう「頭ヘンになった、もう飽きた!」ぐらいの感じだったのが、「Agüita」でまた盛り上がれたんだ。しかし、かなり振り幅があったから1枚のアルバムになるのか、しかも1枚のアートワークを表紙にしていいのか、みたいなのはあった。そして考えて、「そうか、僕の存在が一貫しているからいいんだ」と。さらに考えて「僕、じゃなくて僕の肉体だな」と。音楽は音楽であって僕を超える存在だけど、僕の肉体がその創造過程に存在していたことは確か。「We are born naked and the rest is drag」というル・ポール(アメリカのドラァグ・クイーン)の言葉を思い出したよ。ということは、自然の中に生まれ落ちた赤ん坊の姿が最も有機的で、今の僕が戻れる最も削ぎ落とされたヴァージョンってことだな、と。

――まさに、今作のアルバムのアート・ワーク。一糸まとわぬ姿で森の中にいるというイメージですね。

G:そう。あれはだから、つまり生命ってことだよ。「Agüita」は水。人間の体は驚くほどの割合を水が占めているじゃない? 細胞ひとつひとつの、7割だか8割だかが水で出来ている有機体なんだから。その他の衣装は全部、パフォーマンスの時に身に纏えばいいんだよ。

<了>


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Gabriel Garzón-Montano

Agüita

LABEL : Jagjaguwar / Stones Throw / Big Nothing
RELEASE DATE : 2020.10.07


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Text By Shino Okamura

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